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九州に住む友人から、師走になると「葉付きみかん」を送っていただき、暮れに鏡餅の上に乗せて正月を祝うのが年中行事になっていた。
ところが、数年前にその生産者が高齢になられ、後継ぎがおられないという理由で、この「葉付きみかん」の送付は中止となってしまっていた。 ところが、昨日、2018年12月16日に、九州から「葉付きみかん」が到着した。今回は「木箱入り」だった。 ![]() ![]() 当時の大村藩主・大村純鎮公が、みかんの苗木を伊木力に栽培させたのが始まりと言われている。 年間を通して温暖な上、大村湾から吹く潮風が寒暖の差を作り出し、海面に反射する太陽の光をたっぷりと受けて育った伊木力のみかん。みかん栽培に適した土地柄から、伊木力みかんは長崎県下でもトップブランドとして、県内外から圧倒的な支持を得ている。 そんな伊木力みかんの中でも「最も甘くておいしい」と評価を得ているのが、佐瀬地域で栽培されるみかん。 ![]() ひとくち食べた印象は、「濃い!」の一言に尽きる。コクのある果汁、適度な酸味が甘さをより際立たせ、ギュッと詰まった濃密なみかんジュースを飲んでいるかのような、ジューシーな味わいが特徴です。 ![]() 美術散歩 管理人 とら #
by cardiacsurgery
| 2018-12-17 16:59
| アート一般
これは日曜美術館の「選」。
【参照】本放送(2018年6月)のブログ⇒こちら。 柚木沙弥郎さんの型紙作り「うれしくなくちゃ 生まれない~ 染色家 柚木沙弥郎の模様人生」 ![]() 60歳を過ぎてから型染めを軸に版画・絵本・人形・水彩など表現の幅を自由に広げてきた柚木。世界中から集められた素朴なオブジェに囲まれ、一人で暮らしながら創作の日々を送っている。 公園のお気に入りの古木や毎日使うティーポットが面白いといっては、型紙を切り出す柚木である。 何より大事なのは、ささやかな日常だというその創作現場に密着する。そこには、ものづくりを越えた「生きるヒント」が隠されている。 型染めの第一人者・柚木沙弥郎。95歳の今も身近なものの“いのち”をつかみとり、模様に表現する日々である。 柚木に密着し、展覧会が開かれている日本民藝館で、創作の秘密を語ってもらった。 【出演】染色家・柚木沙弥郎 【司会】小野正嗣、高橋美鈴 【参照】氏は、絵本にも挑戦しておられる。 2013年5月、世田谷美術館のショップで、孫のために一冊選んで購入したことを覚えている。山下洋輔・文、柚木沙弥郎・絵の「つきよのおんがくかい」である。 ![]() #
by cardiacsurgery
| 2018-12-16 19:11
| 現代アート(国内)
「ザ・プロファイラー」は、2012年からBSプレミアムで放送されているドキュメンタリー番組であり、古代から現代まで、海外および日本の歴史に名を残した人物に焦点をあて、その人物にかかわる文献や映像資料をもとに、歴史好きの岡田准一が、ゲストのトークを交えて鋭い切り口で人物像に迫っていく番組です。
生まれの不遇、家族との愛と葛藤、裏切りと孤独、将来の不安など、さまざまな人生の始まりから、どのようにして自分の道を切り開き、歴史に名を刻んでいったのかを、時代を動かした人物たちの謎に挑む。「ザ・プロファイラー」は、栄光と苦難の生涯を生きた先人たちの感動の人間ドラマです。 今回のザ・プロファイラーは、「玄奘三蔵 史上最強の僧侶」~夢と野望の人生。 【放送時間】12月19日(水) 午後6時00分 玄奘三蔵 ![]() ▽その実像は世界一タフな僧侶だった!唐から天竺へ往復6万キロの旅をし、未知の経典を持ち帰った玄奘三蔵(602 - 664年)。前人未到の旅を実現した秘密は、シルクロードの砂漠を乗り越える体力と、さまざまな言語を習得し、現地の王や学者を魅了する頭脳だった。 ▽さらに唐の皇帝をも取り込み、経典の翻訳をはじめ都に仏教の一大拠点を作り上げた玄奘。彼は最後に何を目指したのか? 【司会】 岡田准一 ![]() 中嶋朋子 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 建国以来いまだ間がなかった当時の唐では、国外旅行は禁止されていた。そこで、天竺を目指す玄奘は秘密裏に砂漠の一人旅を敢行するしかなかった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() その子李世民は太宗(在位626~649)として周辺民族を服属して天下統一を完成させ、貞観の治(627~649)という充実した政治を繁栄させた。26歳の玄奘三蔵が、長安から唐を密出国したのは、628年の太宗の世であった。一方、玄奘三蔵が長安と連絡し合ったのは、世宗である。 642年、玄奘は唐への帰路に就いた。この時、玄奘40歳。太宗の子・高宗(在位649~683)はさらに領土拡大を狙って高句麗などを滅ぼし、領土最大となった。 ![]() 628年。26歳の玄奘三蔵は、長安から唐を密出国した。 ![]() ![]() ![]() まずは「爪州」へ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 三蔵が、仏教の中心地でトップになることができたのは、高昌国王がPERSON(人物)として並々ならぬ役割を果たしたからだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 言語としては、ソグト語の他に、コータン語、ㇳカラ語、パミール語、イラン語も使われていたが、三蔵はたちまちこれらをマスターするという稀な能力を発揮した。このことはこれらの言語を使う民族との融和に役立った。 ![]() ![]() 三蔵が仏教中心地のナーランダ―でトップになることができたのは、「シーラバドラ」という人物に負うところが大であった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 642年、玄奘は唐への帰路に就いた。この時、玄奘40歳、唐の皇帝は太宗。太宗は玄奘を支援して経典の漢訳を行わせている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ハルシャ王の使節(↓):西域旅行中の三蔵玄奘と知己を得ていたハルシャ王は、晩年には唐の太宗との間に使節を交換した。ヴァルダナ朝からの修好使節は641年に唐の朝廷に派遣されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() #
by cardiacsurgery
| 2018-12-15 13:56
| 東洋アート
英雄たちの選択「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」
放送時間:12月13日(木曜)午後8時00分~ 午後9時00分 【番宣】 奈良時代、度重なる左遷にめげず、しまいには、右大臣まで出世した人物がいる。吉備真備(きびのまきび)(↓)である。 ![]() 今年、西日本豪雨で被害を受けた岡山県の「真備町」。ここが、吉備真備ゆかりの地。 真備は、唐の名人の碁石を一つ飲み込んで勝ってしまった(「吉備大臣入唐絵巻」第六段目右↓)。 ![]() ところが、真備の前に立ちはだかったのが、藤原一族の俊才・藤原仲麻呂である。仲麻呂は、真備を九州の筑前そして肥前へと左遷を命じた。 真備は、いったい、なぜ度重なる左遷にめげず、右大臣に上り詰めることができたのか。その真相に迫る。 【司会者】磯田道史、杉浦友紀 ![]() 【出演者】 歴史学者・倉本一宏 ![]() ![]() ![]() ・左遷からカムバックした男 ![]() ![]() 吉備真備の功績と中国への感謝の気持ちを後世に伝えるため、真備の出身地である岡山で、吉備真備記念碑建実行委員会が設立され、陝西省、西安市の協力を得て、かつて真備が長安で学んだ国士監(大学)の跡地(環城公園内)に「吉備真備記念碑園」が建設された。 ![]() 吉備真備は奈良時代に遣唐留学生に選ばれ、阿倍仲麻呂らと共に、唐の都長安に赴いた。19年間の長い間、中国で政治、経済、法律、天文、数学、暦、兵学、音楽、儒学、歴史などを学んで帰国。囲碁や琴も伝えたといわれ、又カタカナの発明したともいわれている。 【続日本紀】 ![]() 【吉備大臣入唐絵巻】 「吉備大臣入唐絵巻」第六段目。真備は、名人の碁石を一つ飲み込んで勝利してしまった(図左↓、図中央↓、図右↓)。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 石室全長は19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。昭和58年の確認調査で周溝が検出され、直径54m、高さ7mの円墳であることが判明した。6世紀後半の築造と考えられている。 吉備真備の出身地は「下道郡」で、若い頃は「下道真備(しもつみちの まきび)」と称していた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 吉備真備は、帰国後聖武天皇のブレーンになった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 天平12年(740年)8月に、藤原広嗣は天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である「右衛士督・吉備真備」と「僧正・玄昉」に起因するため、二人を追放すべきとの「上奏文」を朝廷に送ったが、時の権力者「右大臣・橘諸兄」はこれを謀反と受け取った。 藤原広嗣の上奏文(部分)↓:下道真備などという度量の小さい田舎者は、国を転覆しかねない。早く朝廷から取り除くべきだ。 ![]() 聖武天皇はこれに対して藤原広嗣の召喚の詔勅を出したが、藤原広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手と共に大宰府の手勢や隼人等を加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした(藤原広嗣の乱ー天平12年(740))。 ![]() 【藤原仲麻呂の策略】 ![]() 天平12年(740)、聖武天皇が平城京を離れた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 今宵の「英雄たちの選択」の「その一」は「任務を果たさず引退」であり、「その二」は「大宰府で任務を果たす」である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「続日本紀」には、「新羅から九州を守る防人は、武芸を習わせるだけでなく、城を築く仕事に就かせるべきだ」と記されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天平宝宇8年(764) 真備70歳 孝謙太政大臣が真備を「造東大寺長官に任命」。 ![]() ![]() ![]() ![]() 天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、翌4月、ひそかに孝謙天皇に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた「大炊王」を皇太子に立てることに成功した。 天平宝字2年(758年)8月、大炊王が「淳仁天皇」に即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられた。天平宝字4年(760年)1月には、ついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめたのである。 押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明天皇が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめた。 さらに、孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、恵美押勝は、淳仁天皇を通じて孝謙太上天皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これがかえって孝謙太上天皇を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙太上天皇は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言した。 孝謙太上天皇の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁天皇と恵美押勝を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には、道鏡を少僧都に任じている。 焦燥を深めた恵美押勝は、軍事力により孝謙太上天皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。 諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、恵美押勝は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。 恵美押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき恵美押勝は太政官印の確保に成功している。 9月5日には、安倍仲麻呂は「船親王」と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また「池田親王」はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。 しかし、兵を集めるよう指示された高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙太上天皇に動員計画を密告した。平素恵美勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も恵美押勝の叛乱を知り、その旨を密告した。また和気王からも反乱計画が伝えられた。 9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙 藤原仲麻呂は、叔母の「光明皇后」の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、「孝謙天皇」が即位すると、孝謙と光明の権威を背景に事実上の最高権力者となった。 天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、翌4月、ひそかに孝謙天皇に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた「大炊王」を皇太子に立てることに成功した。 天平宝字2年(758年)8月、大炊王が「淳仁天皇」に即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられた。天平宝字4年(760年)1月には、ついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめたのである。 押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明天皇が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめた。 さらに、孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、恵美押勝は、淳仁天皇を通じて孝謙太上天皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これがかえって孝謙太上天皇を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙太上天皇は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言した。 孝謙太上天皇の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に「淳仁天皇」と「恵美押勝」を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には、道鏡を少僧都に任じている。 焦燥を深めた恵美押勝は、軍事力により孝謙太上天皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。 諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、恵美押勝は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。 恵美押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき恵美押勝は太政官印の確保に成功している。 9月5日には、安倍仲麻呂は「船親王」と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また「池田親王」はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。 しかし、兵を集めるよう指示された高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙太上天皇に動員計画を密告した。平素恵美勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も恵美押勝の叛乱を知り、その旨を密告した。また和気王からも反乱計画が伝えられた。 9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙太上天皇は少納言山村王を淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収させた。 これを知った恵美押勝は子息訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。 孝謙太上天皇はただちに授刀少尉坂上苅田麻呂と授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して、訓儒麻呂を射殺した。 恵美押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人紀船守に射殺された。 孝謙太上天皇は勅して、恵美押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。 さらに三関の固関を行わせている。 その夜、安倍仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入り、仲麻呂が長年国司を務め、彼の地盤となっていた近江国の国衙を目指した。 安倍仲麻呂軍と孝謙太上天皇軍は「勢多橋」で激突予定だった。 ![]() ![]() ![]() 「吉備真備」は「安倍仲麻呂」のため久しく逆境にあった人物で、この年正月には70歳になっていたが、在唐中に取得した軍学の知識を買われていた。 安倍仲麻呂の行動を予測した「吉備真備」は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。 安倍仲麻呂はやむなく子息辛加知が国司になっている越前国に入り再起をはかろうとし、琵琶湖の湖西を越前に向い北進した。 淳仁天皇を連れ出せなかった安倍仲麻呂は、自派の元皇族中納言「氷上塩焼」(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の息子たちには親王の位階である三品を与えた。 また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。ここに、2つの朝廷が並立したことになる。 孝謙太上天皇側は、安倍仲麻呂を討ち取った者に厚い恩賞を約束するとともに、北陸道諸国には、太政官印のある文書を信用しないように通達した。 官軍の佐伯伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、授刀舎人物部広成らに愛発関(近江と越前の国境の関所)を固めさせた。 安倍仲麻呂軍の先発隊精兵数十人は愛発関で敗れた。 辛加知の死を知らない安倍仲麻呂は愛発関を避け、舟で琵琶湖東岸に渡り越前に入ろうとするが、逆風で舟が難破しそうになり断念して、塩津に上陸し陸路、愛発関の突破をはかったが、佐伯伊多智が防戦して、安倍仲麻呂軍を撃退した。 ![]() 安倍仲麻呂軍は退却して三尾(近江国高島郡)の古城に籠もった。孝謙太上天皇側の討伐軍は三尾を攻めたが、安倍仲麻呂軍は必死で応戦した。 9月18日、孝謙太上天皇側の討伐軍に討賊将軍に任ぜられた備前守・藤原蔵下麻呂の援軍が到着して、海陸から激しく攻めたので、ついに安倍仲麻呂軍は敗れた。 安倍仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、軍士石村石楯に斬られ、安倍仲麻呂一家も皆殺しにされた。 天平宝宇8年(764)9月18日、藤原仲麻呂 死去。 ![]() ![]() ![]() #
by cardiacsurgery
| 2018-12-14 20:59
| 映画・写真
今朝(2018/12/13)の「あさイチ」で、「衝撃の愛媛ミカン」が紹介された。「衝撃の愛媛ミカン」のブランド名は、①最近頂いた「紅マドンナ」、②まだ試食の機会がない「甘平(かんぺい)」、③愛媛県農林水産研究所果樹研究センターで厳重管理下に試作している「愛媛48号(仮名)」である。
JAPA-NAVI 今が旬!みかん県・愛媛 ・愛媛といえばみかん、ですよね? ということで、今回はみかん尽くしでお届け。おいしいみかんの見分け方や、「焼きみかん」「みかんごはん」など、みかんを使った珍しい料理もご紹介。さらには、「みかん研究所」が開発中の究極のブランドなど。タレント・平野ノラさんが、あまりにも濃い“みかん県・愛媛”の魅力を存分に満喫しました。 ![]() みかん畑では、家でも簡単にできる甘いみかんの見分け方を教わりました。ポイントは、サイズが小さく、ヘタの軸がまっすぐで、お尻の部分が硬いものが甘いということ。教えてもらったことをもとにみかん狩りにのぞんだノラさん。農家さんが見てもパーフェクトなみかんを収穫し、甘くておいしいみかんを味わいました。さらに、一度は試すべきという「焼きみかん」を試食。不思議な食感を体験しました。 ![]() かんきつ類が約40種も生産されている愛媛県。さまざまな品種を掛け合わせ、よりおいしいみかんを生み出している「みかん研究所」を訪れました。 なかでも、愛媛のエース級という、「甘平」と「紅まどんな」を見学。 ![]() 【参考正・愛媛県農林水産部農業振興局農産園芸課育種栽培室岡本 充智主任研究員報告書】ー愛媛果試第28 号'を種子親、‛甘平'を花粉親として交配ー 実は、その「愛媛48号」には、西日本豪雨で被害を受けたみかん農家を新品種で元気づけたいという思いも込められていました。 【愛媛みかん 紅マドンナ】⇒ブログ(2018/11/30) ![]() ![]() 品種登録されたばかりとは言っても、初めに交配されたのは1991年(平成3年)。それから10年以上の歳月を掛けて選抜・育成を重ね、ようやく消費者の元へ届けることができるようになった。 シャキッとした大粒のプチプチ果肉と食べごたえ満点の「甘平」は、驚異的な甘さで、あの“「せとか」にひけを取らない傑作柑橘である。 【甘平(かんぺい)とは】「甘平」は、「デコタンゴール」に「西の香」を交配して生まれたもの。 薄い外皮の中に、はちきれんばかりのあま~い果肉がギッシリつまっている。 種がほとんど無いのも、最近の新品種柑橘の特徴。 手で簡単にむける「皮の薄さ」も素晴らしい。 【紅まどんなと甘平(かんぺい)】 ![]() Ⅰ.「紅まどんな」は、「南香(なんこう)」に「天草(あまくさ)」をかけあわせて生まれたかんきつで、平成17年に品種登録された。 品種名は「愛媛果試第28号」だが、「紅まどんな」という商標で、12月中旬~1月上旬ごろに販売されている。大きさは「伊予柑(いよかん)」程度で、果皮は非常に薄く濃い紅色、とろけるような食感が特徴的で、一口食べると甘い果汁と香りが口いっぱいに広がる。 12月に出荷できるため、冬のギフトに最適な高級フルーツであり、オレンジのようにナイフでカットして食べると美味しく簡単に食べられる。 Ⅱ.一方の「甘平(かんぺい)」は、「西之香(にしのかおり)」に「不知火(しらぬい)」をかけあわせて生まれたかんきつで、平成19年に品種登録された。 1月下旬~2月ごろに販売されており、名前のとおり扁平な果形が特徴で、果肉は甘く、シャキッとした歯ざわりは、今までのかんきつにはないユニークな食感である。 また、果皮は温州みかんのように手でむくことができ、じょうのう(袋)も薄いため、そのまま食べることができる。 【問い合わせ】 愛媛県農林水産部農業振興局農産園芸課 電話番号 089-912-2566 【かんきつ有望系統‘愛媛48号’の概要と特性について(PDF:427KB)】⇒こちら 1.はじめに 本県のかんきつ生産は、年間を通じて旬のかんきつを安定的に供給する周年供給を目指しています。周年供給は農家所得の拡大、労働力の分散を図る上で効果的なことから、重点課題の一つとして系統選抜を行ってきました。その結果、中晩柑類ではオリジナル品種として12 月が旬の「愛媛果試第28号(紅まどんな)」や、2 月が旬の「甘平」などの品種が生み出されています。周年供給体制の更なる強化を図るために、新たな品種には端境期にあたる4月に出荷できる品種が求められています。 2.育成経過 愛媛48 号は、平成17 年に【参考→】‛愛媛果試第28 号'を種子親、‛甘平'を花粉親として交配し【←参考】、得られた実生の高接ぎを、平成20 年4 月に行いました。その後平成22 年に初結実し、平成27年までの調査に基づき、番号を付与しました。 3.品種概要 愛媛48 号の樹姿は、直立型と開張型の中間程度となります。樹勢は良好でトゲはありますが、樹が落ち着けば少なくなると思われます。果実の大さは約250g、果形指数は106 程度で種子の無い果実となります。果実の糖度(Brix)は成熟期の3月上旬に13~15 度まで上昇し、樹上におくほど増加します。クエン酸含量は2 月下旬~3 月上旬に1.0g/100ml 程度になりますが、その後は横ばい状態となり、味ボケしにくい性質です。これらの性質から、4 月頃まで果実を樹上で実らせておくことにより、糖度が高く酸味もほどよい良好な食味となります。また、果皮の剥皮性はやや良で、赤みのある橙色で外観も美しい系統であることから、特に紅色のかんきつが少なくなる3 月下旬~4 月に、高い商品価値が期待される系統です。 4.今後の予定現在、愛媛48 号は現地試験を実施中であり、2019 年に品種登録を出願する予定です。その後、ウイルスフリー苗を増殖し、早急に産地化を図る体制を整備することとしています。 (育種栽培室 主任研究員 岡本 充智) 美術散歩 管理人 とら #
by cardiacsurgery
| 2018-12-13 09:38
| アート一般
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