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昨日とは打って変わり北風が強くて寒かったが、快晴だったので上野に出かけた。
![]() すなわち、印象派⇒前期の新印象派(色彩理論に基づいた短い筆触の点描画)⇒後期の新印象派(色彩表現を重視した長い筆触の点描画)⇒フォーヴィスム誕生という美術史の流れの真ん中を占めたのが「新印象派」であった。 昨年10月に見た「印象派を超えて‐点描の画家たち」とは明らかに違う切り口のコンセプトである。 プロローグ 1880年代の印象派 ・モネ《税関吏の小屋・荒れた海》1882年 日本テレビ放送網: ![]() このような印象派の作品は、若いスーラやシニャックらに大きな影響を与えていた。1885年頃には自らも点描作品を制作していたピサロの勧めで、スーラやシニャックは1886年に開催された最後の第8回印象派展に参加することになったのである。 第1章1886年: 新印象主義の誕生: 1886年5月に開かれた第8回印象派展に、モリゾやピサロは参加したが、モネやルノワールなどの主要な印象派の画家たちは出品せず、かわってスーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》をはじめとする点描作品が注目を集めた。 美術批評家フェリックス・フェネオンは、この新しい表現を「新印象主義」と名付けた。 ・ジョルジュ・スーラ《セーヌ川、クールブヴォワにて》1885年 個人蔵: 新印象派の最初期の作品のひとつである。芝生・川面・家々が水平に重ねられ、女性・犬・ヨットは横方向の動きである。これに対して、高い木の幹は垂直で、全体としても縦型の画となっている。透明な水や家屋の反映の細かい横方向の筆触による光の表現が見事で、女性や木における縦方向の筆触と対照をなしている。 ![]() ![]() ![]() ピサロは、印象派の画家たちを「ロマン主義的印象主義者」、新印象派の画家たちを「科学的印象主義者」と呼んでいた。前者が経験的・感覚的に実践した筆触分割を、後者が科学的な理論をもって発展させたのである。 新印象派の画家たちは、パレット上で絵具を混ぜるのではなく、短い筆触で純色を規則的に置くことで、観る人の中で混ざり合って知覚される色彩を作り出し、さらに補色でその効果を高めた。 彼らがシュヴルールやルードらの最新の色彩理論を理解していたことは、「スーラとシニャックのパレット」 個人蔵(↓)において、絵具が系統的に配置されていることを見れば一目瞭然である。 ![]() 新印象派の作品は、第8回印象派展翌年の2月にはベルギーで展示され、国際的に広がっていった。 フランスでは、アイエやデュボワ=ピエが色彩理論を研究した作品を発表し、ベルギーでは、レイセルベルヘ、フィンチ、オランダから参加したトーロップらが、点描作品を「20人会(レ・ヴァン)展」で発表した。 そして、1891年にスーラが31歳の若さで亡くなると、新印象派は新たな展開を迎える。 ・ピサロ《エラニーの農家》1887年 ニュー・サウスウェールズ州立美術館: ピサロはレイセルベルヘらの招きでスーラとともにレ・ヴァン展に参加した。彼が印象派の様式に回帰したのは1890年代である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() スーラの死後、シニャックとクロスらは、地中海沿岸で新印象派を新段階へと推し進めた。クロスは、1891年に、サン=クレールに永住を決め、シニャックは1892年以降、多くの時間をサン=トロペで過ごした。また、シニャックは、リュスやレイセルベルヘらもこの南仏に招き、光と色彩の探求を続けた。 ・クロス《農園、夕暮れ》1893年 個人蔵: ベルギー出身のクロスは、写実主義、印象派、新印象派と技法を変化させてきたが、この作品は点描ながら強い色彩が目立つ。 ![]() ![]() シニャックは、スーラの理論を引継ぎながらも、強い色彩を用い、モザイクのような大きめの筆触による表現を確立した。科学に基づく厳格な点描技法から解放され、より自由で、より色彩豊かな装飾性の高い画面を実現したのである。 ・クロス 《地中海のほとり》1895年 個人蔵: クロスは、1895年頃から、光による色彩の変化よりも色彩そのものの強さに関心を高めていった。アルカディアのようなテーマで、マティスの《豪奢、静寂、逸楽》(1904-05年)を予告するような作品である。 ![]() ![]() ![]() 1905年10月の第3回サロン・ドートンヌで「フォーヴ(野獣)」という名が誕生した。 その前年、シニャックの招きに応じてサン=トロペに滞在したマティスは、クロスとも親交を深め、点描技法を試みている。 その後、ドランとともにコリウールで制作を行い、ここで後の「フォーヴィスム」が芽生え、固有色の再現や点描の規則性からも解放され、原色を用いる強烈な色彩や大胆な筆触による力強い作品が生み出された。 このフォーヴィスムは、点描技法を経て新印象派の画家たちが探求した独自の表現をひとつの源泉として生まれたものであった。 ・シニャック《マルセイユ、釣舟》または 《サン=ジャン要塞》1907年 アノンシアード美術館: 強い色彩を用い、モザイクのような大きめの筆触による表現である。 ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-29 00:03
| 印象派後期
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展覧会のサブタイトルは「知られざる名作初公開」となっていたが、2013年12月に箱根小涌谷に行ったときに見た作品が大分あったので、このキャッチコピーはちょっとオーバーである。しかし、良い作品は何度見てもよいので、このような都心での「出開帳展」はありがたい。
![]() Ⅰ.「琳派以前」: 上級町衆に好まれた作品3点。 ・長谷川派の《浮舟図屏風》↓: ![]() ・《柳橋水車図屏風》作者不詳: 宇治の景趣を描いた6曲一双の金屏風。この《柳橋水車図屏風》は桃山時代後期に描かれたパターン化された作品で、長谷川等伯印の香雪本、長谷川宗宅印の群馬県近美本、無印の東博本を含め22作品が報告されている。 ・《誰ヶ袖屏風》作者不詳: ![]() Ⅱ.「琳派の誕生」: 本阿弥光悦、俵屋宗達、伊年印がメイン。 ・宗達《明石図》: 源氏物語第十三帖より。 ![]() ![]() ![]() ・俵屋宗達下絵・本阿弥光悦書《花卉に蝶摺絵新古今集和歌巻》: ![]() ・俵屋宗達・本阿弥光悦《柳に波下絵和歌色紙 ゆめ通ふ》↓: 下半分以上は金泥が塗られた地面、その上の萩の枝と葉は金泥、花は銀泥で表されている。 肥痩と濃淡の変化が特徴的な光悦風の書は、「新古今集 冬歌(巻第六)に選ばれた藤原有家の和歌「ゆめ通う 道さえ絶えぬ 呉竹の ふし見の里の 雪の下折」。 ![]() 光悦流の筆致で書かれた白川院の夏歌は「時鳥 まだうちとけぬ しのびねは こぬ人を待 われのみぞ聞」。 ![]() ◆尾形光琳 ・尾形光琳《雪松群禽図屏風》↓: ![]() ・尾形光琳《菊図屏風》↓: ![]() ・伝 尾形光琳《椿若松蒔絵硯箱》↓: ![]() ・光琳蒔絵《蜻蛉蒔絵螺鈿合子》↓: ![]() ◆尾形乾山 ・尾形乾山《夕顔・楓図》↓: 川端康成旧蔵の作品。二幅に、夏の夕顔と秋の楓を、描き分け、和歌と漢詩を書き分けている。 和歌は「のこる日の うすき かげより 咲出て 草の戸涼し 夕顔の花」 ![]() ![]() ・尾形乾山《色絵春草図角皿》↓: 美しい色絵皿。これは一枚ものだが、《色絵絵替角皿》は16枚の豪華な揃物。 ![]() ・尾形乾山作・尾形光琳画《錆絵白梅図角皿》: 今回の展示は見込(表)を見るようになっており、「光琳の真筆」と書かれている「裏」は写真で出ていた。 ![]() ・永田友治《八橋流水蒔絵螺鈿乱箱》: ![]() ・山本光一《夏草図硯箱》: 明るい夏草たちが軽快に描かれている硯箱だった。 Ⅳ.「江戸琳派」: 酒井抱一、鈴木其一 ・酒井抱一《月に秋草図屏風》: 銀色の半月。薄・女郎花・桔梗・山帰来などの秋草。詩情豊かな作品である。もとは襖で、引手家具の裏には二条家の家紋が隠されている。 ![]() ![]() Ⅴ.「近代琳派」: 神坂雪佳、前田青邨、速水御舟、梥本一洋、加山又造 ・神坂雪佳《燕子花図屏風》↓: 地面は金地、水面は銀地。宗達-光琳-抱一と継承されたテーマの変奏である。 ![]() ・梥本一洋《荒磯》: 宗達の《荒磯屏風》とも呼ばれる松島図屏風、宗達を模写した光琳の《松島図屏風》を引き継いでいる梥本一洋の《荒磯》も印象に残る作品。 ・加山又造《初月屏風》↓: 截金や破り継ぎの技法が使われた超絶技巧作品であるが、その装飾性は近代琳派の代表作品であるといえる。 ![]() 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-27 13:50
| 江戸絵画(浮世絵以外)
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![]() 以下は、小生のメモであるが、なにせ初めて聞くことばかりで、目から鱗だった。修正すべき点があれば、「非公開コメント」でご連絡ください。 ★宇宙の始まり: 聖書には創世記、わが国では古事記の神話、ヒンドゥー教ではシヴァ神が宇宙の始まりともいえるが、実際の宇宙には始まりというものがあったのだろうか? ★銀河: 「天の川銀河」は太陽などの星が2000億個集まったものであり、太陽系はその中心よりずれたところに位置している。そして天の川銀河の傍には、トマセラン星雲や大マゼラン星雲がある。この天の川銀河から230万光年隔たったところに「アンドロメダ銀河」があり、これはM33銀河を従えている。「銀河宇宙」は100億光年を超す距離を持ち、蜂の巣状の構造分布を示す銀河で満ち満ちている。 ★宇宙の誕生: これを知るには時間と空間の物理学、すなわち「一般相対性理論」が必要である。今年は一般相対性理論誕生100周年であるが、アインシュタインは「神がどのような原理に基づいてこの宇宙を創造したか知りたい」と思っていた。一般相対性理論とは「時間空間が曲がることを考えた時空の物理」で、「アインシュタイン方程式」(↓)が重要である。この式の右項で示される「物質やエネルギーの分布」が決まると、左項の「時間空間の幾何学」が決まる。この方程式によって、宇宙の始まりなどの宇宙論の研究が可能になった。 ![]() ★ ビッグバン宇宙論: ビッグバン理論は、1948年にジョージ・ガモフが仮定として提唱したものである。私は、少年時代にガモフの「不思議の国のトムキンス」を読んで、天文学者になりたいと考えたこともあったので、この講演にガモフの名前が急に出てきて不意を突かれた。 それはともかく、初期の宇宙は熱した「火の玉」として生まれたとされている。その火の玉が膨張して、宇宙温度が低下すると、重力によりガスの塊になり、星ができ、銀河ができ、銀河団ができたというのである。 しかし、当時は「宇宙がなぜ火の玉から始まるのか」とか「宇宙がなぜ膨張するのか」ということは分からなかった。 ★宇宙の誕生とインフレーション: これは旧来のビッグバン理論の「始まりの問題」を解くために、佐藤先生やグースによって提唱された理論である。 ![]() ★真空の相転移: 宇宙の始めの真空状態はエネルギーが高い状態であった。このエネルギーによって急激に宇宙が膨張すると、それだけ密度が低くなって、温度が急に低下する。その際に水が氷点以下になっても一時的に凍らず、水のまま持ちこたえる「過冷却」状態に陥る。 その間に蓄えられた膨大なエネルギーが真空の「相転移」(※)によって解放され、ごくわずかだった宇宙が「火の玉宇宙」になる。 (※)固体、液体、気体のように物質の質的に異なった状態を「相」といい、物質状態の移り変りを「相転移」という。 ★ヒッグス粒子の発見: 真空の意味を変化させたヒッグス粒子の発見も、インフレーション理論のサポートになっている。「真空」は空っぽのものではなく、ヒッグス粒子が満ちた状態であり、このヒッグス場に相転移が起こって、エネルギーが供給されて宇宙が進化していったと考えられる。 ★宇宙の多重発生: これは佐藤先生らが提唱している理論で、「母宇宙」から出た「ワームホール」が「子宇宙」に繋がり、「ワームホール」はその後切れてしまうと考えるのである。さらに「子宇宙」から「孫宇宙」ができ、宇宙が増えてゆくという理論であるが、実験的には検証できない理論である。このような「無数の宇宙」は‘multiverse’と呼ばれている。 ★無からの創生: ビレンケンは「宇宙は’無’の状態、すなわち物質やエネルギーのみならず時間も空間も存在しない状態から創生される」としている。 このような「無からの創成論」はこれからの研究が期待される分野である。ホーキンスの「量子宇宙論」についても触れられた。 ★インフレーション理論の観測による実証: 下記のようなものが挙げられた。 1) NASAのCOBE衛星 1992年: 宇宙全体の宇宙背景放射を探査し、その電波にごくわずかなムラがあることを発見した。インフレーション理論において、銀河や銀河団が誕生するには、宇宙の初期にその種となるような温度のムラが必要であると予測していたことが確認された。 2) NASAのWMAP衛星 2003年: 遠くの観察によって過去が見られるという原理に基づいて、現在の宇宙年齢は137億年であると推定した。 3) 欧州ESAのPlanck衛星 2013年: 宇宙年齢は138億年と求められた。 4) KAGRAプロジェクト: 神岡鉱山の大型冷却重力波望遠鏡 5) NASAとESAのLISA計画: 重力波天体観測惑星 6) DECIGO: 日本の人工衛星計画 7) BICEP2: 南極点の電波望遠鏡 8) LiteBIRD: インフレーション観測専用望遠鏡 講演の最後に出されたスライドは、ゴーギャンの《われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか》であって、本日の講演のまとめとなっていた。 ![]() 美術散歩 管理人 とら 【註】 第Ⅰ部 芳澤勝弘「万法帰一と白隠」のメモはこちら。 【参照】 宇宙と光 ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-26 00:15
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2012~13年に、渋谷で「白隠展」が開かれ、10万人を超す観衆を集めた折に開かれた「白隠フォーラム」に2回出席して、それぞれのレポをブログにアップしているが(①学士会館、②Bunkamura)、今回はメールで案内が来て新宿の紀伊国屋ホールで「白隠フォーラム」が開かれるというので、出席してみた。
![]() 第一部は白隠研究の第一人者である芳澤勝弘・花園大学教授の講演、第二部が理論天体物理学の第一人者である佐藤勝彦・自然科学研究機構長の講演、第三部がこの両者に佐々木閑・花園大学教授を加えた三人の鼎談ということになっていた。 収容人員418名の広い会場が満員で熱気に溢れており、白隠に関する関心が続いていることが実感された。 この記事は、第一部: 芳澤勝弘「万法帰一と白隠」のメモである。なにせ禅宗の知識の少ない人間が書いた記事である。修正すべき点があれば。遠慮なく「非公開コメント」を頂きたいと存じます。 1.白隠の圓相: 「円相」とは、図形の丸を一筆で描いた禅画。白隠の描いた「円相」は4点しか見つかっていないが、宇宙を円形で象徴的に表したものである。ちなみに、宇宙の「宇」は「空間」であり、「宙」は「時間」を意味している。 よく書かれる賛語としては「圓同太虚 無欠無餘」がある。これは三祖「信心銘」から採られたもので、「円きこと太虚に同じ、欠くることなく余することなし」と読む。 ![]() 2.メビウスの環の白隠布袋図と白隠寿老人: 布袋が広げている長い紙は一回捻られていて、「在青洲作一領」までは表になっているが、「布衫重七斤」の字が裏から書かれている。メビウスの環のように、裏も表もない禅画である。「表」がそのまま「裏」であり、「有」がそのまま「無」であり、「是」がそのまま「非」であり、「煩悩」がそのまま「菩提」である。 今回は2点が示された。↓の《布袋図》は再見、↓↓の《寿老人図》は初見である。 ![]() ![]() この公案の理解には諸説があるとのことで、①圜悟の理解、②常識でわかる最近の解釈、③道元の理解、④白隠の理解などの説明があった。 3.白隠布袋図の三人の童子: ↑ならびに↑↑の《布袋図》の右図には、三人の童子が拡大して示されている。白隠禅画における「童子」は「衆生」の象徴であるという。 その例として出された↓の禅画では、「布袋」が「童子」の手を引き、内側に蓮の花が描かれた日傘で強い日光を遮っている。まるで「乳母日傘」のように、僧が衆生を導いているのである。 ![]() ![]() 「有限」の自分が、「無限」の全体と関わる方法ないし実践を教えた四つの字句であるが、白隠はその著「八重葎」の中で、その字句の順序を従来のものと入れ替えて、「第一に智識を深め(法門無量誓願学)、第二に衆生を利済し(衆生無辺誓願度)、第三に煩悩を載断し(煩悩無尽誓願断)、第四に仏道を成就する(佛道無上誓願成)」としている。 5.「無記」と毒矢の喩え(佛説箭喩経): 釈迦は「①時間に始まりや終わりがあるか、②空間に果てはあるか、③肉体と心は同じかべつか、④死後の世界はあるか」という形而上的問題を考えることは、苦から逃れ、悟り、涅槃に至るためには無益な問いであるから捨て置いて答えないということをもって答えとした。これが「無記」である。 当時のインドの哲人たちは、このような宇宙論的議論に明け暮れていたのであるが、これは毒矢に射られても、抜かずに毒矢を調べようとするようなものなのである。 6.上求菩提と下化衆生: これは、悟りを極める修行をしつつ、衆生救済に奔走することが修行の王道であるという教えである。 禅では、まず「己事究明」、すなわち「自分は何者か」を考えて、さらに「自分は何をなすべきか」を考える。 白隠はその著「荊叢毒蘂」の中で、「悟りの境地に安住していないで、前述の”四弘請願”を実践して、一切の衆生を利益していく者を”大乗円頓の菩薩”、すなわち真の仏弟子」としている。 美術散歩 管理人 とら 【註】 第二部は、佐藤勝彦氏の「宇宙誕生のシナリオ、インフレーション理論-観測的実証への期待」 ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-25 15:04
| 仏像
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鉄道歴史展示室を出て、パナソニック汐留ミュージアムに移った。ここで開かれているのは、「生誕130年 エコール・ド・パリも貴公子」というサブタイトルが付いた「パスキン展」。
このパナソニック・ビルは全館撮影禁止であるが、一か所だけ撮影可能のマークがあったので、証拠写真を撮っておいた↓。 ![]() ![]() 今回も北海道立近代美術館から下記の6点の油彩画が出ていた(参照)。 《女学生》1908年、《二人のモデル》1924年、《腰かける女》1928年、《ジナとルネ》1928年、《三人の裸婦》1930年、《恋人たち》1930年外国からのものとしては、個人蔵(パリ)35点(うち油彩画は3点のみ)が最多で、次がパリ市立近代美術館9点(うち油彩画は6点)であるから、北海道立近代美術館が本展に対して大きく寄与していることが分かる。 以下、今回の展覧会の章立てに従って述べていくこととする。 第1章ミュンヘンからパリへ 1903-1905: パスキンは、1885年にブルガリアの裕福なユダヤ系家庭に生まれ、ウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどでデッサンを学び、ミュンヘンで「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として専属契約を結んで、素描家として高い評価を得ていた。 《ミュンヘンの少女》1903年↓や《室内》1903年↓↓はこの時期の素描であるが、かなりの腕前であることが分かる。 ![]() ![]() 素描だけでは満足しなかったパスキンは、1905年にパリへ移住して、本格的に油画に取り組むことになる。この頃から、実名の Julius Mordecai Pincas のアルファベット順を替えて、 Jules Pascin と名乗った。 パリに来ても暇さえあれば素描を描いていたとのことである。《酔ったナポレオン》1909年↓は酒場のコースターに描いたものだろう。 ![]() ![]() ![]() 第3章 アメリカ 1914 / 15-1920: 1913年にニューヨークで行われた「アーモリー・ショー」に選抜され出展していたが、1914年、第1次世界大戦の勃発に伴い、ブルガリアでの徴兵を逃れるため、ロンドンを経てニューヨークに渡り、冬季には寒いニューヨークを避けて、フロリダやキューバで制作していたた。 1918年には、上述のエルミヌ・ダヴィットと結婚し、アメリカの国籍を取得している。 《キューバでの集い》1915-17年 個人蔵↓は、非常に大勢の人間が描きこまれた油彩画であるが、個人的にはあまり好きになれない作品である。 ![]() 第1次世界大戦終結後の1921年に、パリに戻ってモンマルトルに居を定めた。そしてパスキン独自の画風を確立して、成熟期を迎えるのである。 カフェの「ル・ドーム兄弟」や「ラ・クーポール」などで華やかな社交生活を送っていたが、アルコール依存症と鬱病に苦しむようになる。 そして、友人の画家ペル・クローグの妻のリュシーと不倫関係に陥るがが、彼の堕落した生活が原因で別れることになった。 1930年6月5日、自宅アトリエの浴槽で手首を切ったうえ、首を吊って自殺。その時、ドアに書かれていた「ADIEU LUCY!」と血文字文は、今回の展覧会で見ることができた。 パート1 スタイルの獲得: ここでのお気に入りは、《少女-幼い踊り子》1924年 パリ市立近代美術館蔵↓で、すでに虹色~真珠母色が使われている。この画は今回の展覧会のメイン・ビジュアルである。 ![]() パート3 真珠母色の絵画: ここが今回の展覧会のハイライトで、虹色(iridescent)~真珠母色(mother-of pearl color)の作品が多数展示されていた。このような美しい画の囲まれると、見ている方は幸せな気分になってくる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() とはいえ、わが国では開かれることの少ないパスキンの回顧展なので、彼の画歴の概要を把握することができる貴重な機会であることには間違いない。 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-24 19:24
| 国外アート
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寒い雨の日が続いていたので、「美術散歩」を控えていたが、ようやく暖かくなってきたので、新橋に出かけた。
初めに鉄道歴史展示室、次にパナソニック汐留ミュージアムというのはお定まりのコース。ということで、まずは「東京駅開業百年」だった昨年12月から開かれている「東京駅開業百年展」へ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ①横浜駅: 崎陽軒《上等御弁当》30銭 (註: 崎陽軒の「焼売弁当」は私のお気に入り)Ⅲ. 東京観光: 東京は観光名所となり、版画、ガイドブック、絵葉書などが多数刊行された。 ![]() ![]() ![]() 入場無料。お勧めです。 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-23 23:17
| 国内アート
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「みちのくの仏像」展(参照)を見るために東博に行ったのであるが、本館の入口に「かもめ」という船名のある船が置かれていた。
![]() ![]() ![]() ![]() 展示品の中には、金田一京助筆の《石川啄木碑拓本》があった。この石碑自体は津波で流失してしまっているので、拓本は碑文を伝える貴重な資料である。「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れな指のあひだより落つ 啄木」と揮毫されている。 ![]() その他には、以下の展示品に注目した。 ・《唐丹村海嘯死亡法号》: 明治29年の三陸大津波死亡者2500名中1650名の実名と法名が3幅に記されている。展示品はそのうちの1幅。 ・《気仙隕石》と《吉田家文書 定留》: 「気仙隕石」とは、嘉永3年5月4日に陸前高田市気仙町の長圓寺前に落下した日本最大の石質隕石。 「吉田家文書」とは気仙郡(陸前高田市/大船渡市/住田町/釜石市唐丹)の最高位の地方役人・大肝入を務めた吉田家に伝わる文書。 「定留(じょうどめ)」とは寛延3年(1750)から明治元年(1868)までの118年分の執務日誌で、隕石落下の日時・飛来方向・落下時の様子などの記録が含まれている(↓)。 ![]() ・《高田歌舞伎関連資料》 地芝居「高田歌舞伎」に使われた衣装・簪・鬘など。 ・《マイワイ》: 大漁祝いの引き出物として船主や網元が漁師に配った半纏のような祝い着「万祝」。 ・《青い目の人形》: ![]() ・《リードオルガン》: ![]() いずれも、かけがえのない貴重な文化財である。 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-20 00:02
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前報のように、この朝の日曜美術館で予習して、午後から東博に行った。幸い、暖かい「美術散歩日和」だった。
![]() 7世紀後半に福島や山形に寺院や仏像が作られ、8世紀後半には陸奥の国の国分寺が宮城に置かれ、9世紀初めまで朝廷と対抗していた岩手は坂上田村麻呂によって平定され、9世紀には秋田に四天王寺が作られ、11‐12世紀には青森でも仏像が作られた。 ![]() 1. 《聖観音菩薩立像》平安時代 11世紀 : 重文。桂の一木造の傑作。体躯には横方向の深い鉈彫が目立つが、背中のノミ目は浅く、顔や手は平滑で木の質感を生かしている。 像の表面に荒々しいノミ目をあえて残す鉈彫は樹木の霊性をあらわしたもので、木に仏を見る感性は、みちのくの心といえる。色彩は塗られていないが、墨で髭が描かれていることに気付いた。 2. 《如来立像》平安時代 11世紀: 浅い鉈彫だが、全身に鑿跡が見られる。 B. 山形・吉祥院の仏像: 行基がこの地を訪れて、疫病を封じるために千手観音信仰を広めた。「千手堂」という建物も残っている。 3. 《千手観音菩薩立像》平安時代 10世紀: 見事な重文。欅の一木造。残っている多くの穴は千手観音であることを示している。優しい表情や柔らかな衣は、京の仏像の特徴である。 4. 《菩薩立像(伝薬師如来)》平安時代 11世紀: 桂の一木造。元は千手観音だった。 5. 《菩薩立像((伝阿弥陀如来))》平安時代 11世紀 : 桂の一木造。元は千手観音だった。 ![]() 6. 《薬師如来坐像》平安時代・9世紀: 重文。東北の三大薬師の一つ。水晶の白毫と紅水晶の肉髻珠が目立つ。 7. 《二天立像(持国天・増長天)》平安時代・9世紀: 重文。 【註】東日本大震災で、持国天が薬師如来の左腕に倒れ込み、両者が破損したが、2年間かけて修復くされた。 ![]() 8. 《薬師如来坐像および両脇侍立像》平安時代・9世紀: 東北を代表する記念碑的な国宝、東北の三大薬師の一つであるが、東京での公開は15年ぶりとのこと。 巨大な欅の一木造。空海と交流し、最澄と議論した徳一上人が指導あるいは奈良仏師を招聘して造ったもので、表面には金箔が使われ、木屑を漆で固めている都ぶりの仏像である。 薬師如来坐像は、全身に溢れる力がみなぎっており、うず高い髪、豊かな頬、がっちりとした肩や胸は、充実した胸と腰で支えられている。衣のひだは水の波紋を形つくり、落ち着きのある風格を示している。 脇侍の腰の捻り具合が艶めかしい。 ![]() 9. 《薬師如来坐像》平安時代・貞観4年(862): 重文、東北の三大薬師の一つで桂の一木造である。 像内面に貞観4年12月との墨書銘がある。7年後の貞観11年5月26日の貞観地震を知る仏像で、大津波の死者を悼むかのように、目尻は鋭く吊り上り、口は厳しく結んでいるが、人を包み込む優しさがある。 会場には、「日本三代実録 巻十六」に記された貞観三陸地震の惨状が現代語訳で紹介されていた。 (貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。今回の東日本大震災では、もう少しで台座から落ちる所だったとのことである。 10. 《日光菩薩立像・月光菩薩立像》平安時代・12世紀: ![]() 11. 《聖観音菩薩立像》平安時代・10世紀: 肩が張った細身で薄く、腰がくびれて愛らしい仏像だが、頭上のコブには「おかっぱ頭の雪ん子」のような小さな愛らしい顔が刻まれている。都の「化仏」の姿がこの地まで伝わっていなかったものと考えられる。 G.岩手・成島毘沙門堂の仏像 12. 《伝吉祥天立像》平安時代・9世紀: 重文。瞑想した眼、ふくよかな頬、柔らかな肩を持つこの仏像は、もっとも美しいみちのく仏と云われている。対称形の欅の木目が見事である。頭には2頭の象が乗っており、衣服は吉祥天の女性のものではないなど、「吉祥天」以外のものと思われる。 H.岩手・毛越寺の仏像 13. 《訶梨帝母坐像》平安時代・12世紀: 都の仏師の作と思われる洗練された鬼子母神で朱色が残っている。左手に子供を抱き、子供は右手を握っている。台座は華麗で、都から毛越寺へと届いた極楽浄土思想の影響が認められる。 I.青森・恵光院の仏像 14. 《女神坐像》鎌倉時代・12~13世紀: 朱色の土地の女神。頭に衣を被り、微笑をたたえている。「母なる大地」を思わせる地母神である。 J.山形・本山慈恩寺の仏像: 行基が創建した寺である。本山慈恩寺のある寒河江には藤原氏の荘園があったため、都の影響を早くから受け、仏教文化が栄えた。 15. 《十二神将立像(丑神・寅神・卯神・酉神)》鎌倉時代・13世紀: 重文。この十二神将は薬師如来とともにある華麗な仏像で、慶派の仏師の作と思われる見事な出来栄えである。 ![]() ![]() 16. 《十一面観音菩薩立像》鎌倉時代・14世紀: 重文。見上げるような背の高い仏像で、優れた出来栄えである。 290cmあるこの像は、海の向うの浄土を見渡す位置に立っているが、沖に出た人も含め、地域の人々を常に見守っている。海岸から近い場所にあるが、高台なので今回の津波の被害を免れた。 萱の木は福島より北には自生していないため、その伝来については種々の説がある。 ①前九年の役で滅んだ陸奥の国の安倍氏が、兵火を恐れて北上川支流の衣川に流したものが流れ着いた。 ②奥州藤原氏が、京より運ぶ途中に漂着した。 ③石巻市北方の桃生町にある日高見神社の本地仏が中世に移された。 ![]() 17. 《地蔵菩薩立像》青森・西福寺 18. 《釈迦如来立像》青森・常楽寺(→) 19. 《十一面観音菩薩立像》秋田・龍泉寺 東北にも有名な仏像が数多く存在していることは、水野敬三郎「日本仏像史」(美術出版社 2001年)にも記載されている。 しかし、今までこれらの仏像を拝観する機会はまったくなかった。 その意味で、東北の震災復興を目的として開かれたこの展覧会は、非常にありがたかった。 会場では、音声ガイドを借りて、ジックリと拝観し、その内容をメモしてきた。 会場に足を運ばれることを強くお勧めします。 美術散歩 管理人 とら ▲
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| 2015-01-19 00:40
| 仏像
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東博で開かれている「みちのくの仏像」展(参照)に行く前に、この放送を聞いた。以下はその放送のまとめであるが、3人の旅人が「みちのくの仏像」を現地に訪ねるということになっていた。
【旅人1: 箭内道彦(クリエイティブ・ディレクター)】 訪問地: 大蔵寺 福島県福島市 1200年前に創建された寺 仏像A: 千手観音菩薩立像 特徴: 平安初期、榧(カヤ)の一木造り、4m近い高さ。憎めない顔 伝承: この榧(カヤ)の木は、根元から光を放つ霊木だった。 意義: この地域では、一本の木から仏であるとともに神でもあるものを造りだしている。 仏像B: 朽損一木造り仏像 ![]() 理由: 堂が壊れ、長く風雪にさらされていた。 霊木: 扱いにくい節のある木も使われているので、一体一体が霊木だったと考えられる。 一木造り: 厳しい自然と共生した東北では仏像は一本の木でなければならなかった。 感想: 顔も分からぬほどになって残っている仏像たちからは、木の生命力が感じられる。 【参考: 徳一上人】 功績: 福島の地に都の仏師を呼び寄せて仏像を造らせた。 実例: 国宝《薬師如来坐像》常勝寺、一木造り 展示: 今回の東博の展覧会に出ている(↓)。 意義: 都での美しい「寄木造り」の流行にかかわらず、東北では自然の形を残す「一木造り」のままだった。 ![]() 訪問地A: 黒石寺 岩手県奥州市 北上川東岸 仏像: 薬師如来坐像 平安初期 862年造 特徴: どっしりとして目尻を釣り上げ、口を結んだ険しい表情、光背にも小さな薬師たち 意義: 789年の蝦夷(阿弖流為)と大和(坂上田村麻呂)の戦いの死者数万人の鎮魂 展示: 今回の東博の展覧会に出ている(参照)。 ![]() 仏像: 兜跋毘沙門天立像 特徴: 一木造り、鉈彫り、土地の神様である地天女の肩に乗っている。 伝承: 地天女が地中からこの毘沙門天を押し上げた。 感想: 鉈彫りの木の素材感によって、仏像が木から生まれてきていることを感じる。 ![]() ![]() 特徴: 体躯にノミの跡がしっかりと残っているが、腕や顔は平滑。 意義: 霊木が仏の姿となる瞬間を表現している。 伝承: 寺内に「霊木霊泉」といわれる桂の樹と傍の大きな泉が残っている。 展示: 今回の東博の展覧会に出ている。 【旅人3: 三沢厚彦(彫刻家)】 訪問地A: 法蓮寺 青森県十和田市 仏像: 多数の右衛門四良(えもんしろう)像 特徴: 小さい。大工の作品。観音、十王、鬼、手描きの化仏のある十一面観音など 意義: 幼くして死んだ子供が地獄で苛められないとうにとの願いがこもっている。 訪問地B: 宝積寺 岩手県葛巻町 ![]() 特徴: 彫りは巧みで、肌の質感は滑らかだが、背面に書かれた仏像名と実際の仏像の不一致など伝統を重んじていない。 意義: 近しい人をモデルにしたような素朴でリアルな表現で、拝む対象が個人的なものとなっている。 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-18 23:37
| 仏像
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![]() この展覧会は5章立てであるが、展示作品はわずか27点なので、全作品について簡単なメモを残すことにする。 第1章 物語絵の想像力―〈ことば〉の不確かさ 1.《扇面法華経冊子断簡》平安時代(12世紀): 原典不詳の絵の上に法華経の言葉が書かれている。 ![]() 3.冷泉為恭《雪月花図》双幅 江戸時代(19世紀): 左幅の「雪図」は、「枕草子 第299段: 香炉峰の雪」に登場する簾を掲げて山に積もった「雪」を眺める女性たち。右幅の「月花図」は、源氏と朧月夜が出会う「源氏物語 第34帖: 若葉上」の情景で 空には「月」、庭には「花」が描かれている。 ![]() 4.伝 俵屋宗達《源氏物語図屏風断簡・葵》江戸時代(17世紀): 光源氏が、加茂祭を見にゆく紫の姫君の髪を梳いている。 ![]() ![]() 7.《源氏物語図屏風》二曲一双 江戸時代(17世紀): 5帖のみの図なので、大きくて分かりやすいが、あまり上手とは云えない絵だった。 8.岩佐勝友《扇面貼交画帖》桃山~江戸時代(16~17世紀): 岩佐勝友は岩佐又兵衛と関わりのある画家とのこと。 ![]() 【花宴】の朧月夜に抱きつく光源氏(↓)や【須磨】の雷神(↓↓)の描写はユニークである。 ![]() ![]() 10.《小柴垣草紙絵巻》鎌倉時代(13世紀): 斎官となる斎子姫が平致光と密通するという話を「十訓抄」などから採用した絵巻。 第3章 失恋と隠遁―ここではない場所へ 11.俵屋宗達《伊勢物語 武蔵野図色紙》江戸時代(17世紀) : 伊勢物語第12段。男(在原業平)は、ある豪族の娘と駆け落ちし、武蔵野の草むらに身を潜めていた。国守の追っ手が野を焼いて探そうとしたところ、娘は互いの身を案じ歌を詠んで火をつけるのを止めさせたという場面が描かれている。 ![]() ![]() 14.狩野尚信 《平家物語 小督図屏風(和漢故事人物図屏風のうち)》: ![]() ![]() 《野々宮図》は「源氏物語 賢木(第十帖)」の場面であるが、鳥居の下に佇んで前方に視線を送る光源氏は、伊勢下向をひかえたかつての恋人・六条御息所を嵯峨の野々宮に訪ねて、変わらぬ恋慕の情を伝えようとしている。 この光源氏が《小督図屏風》の源仲国に対応しており、六条御息所が小督に相当するというのである。 15.絵/俵屋宗達 詞/烏丸光広《西行物語絵巻》寛永7年(1630年): 室町時代の絵巻の模作とのことであるが、絵も書も美しい。第1巻・第2巻・第4巻が出ていた。今回は、場面替えのために全図が見られないのは残念だった。 ちなみに、この《西行物語絵巻》には多数の異本があり、内容によって、次の3系統に分類される。(千野香織『絵巻・西行物語絵』「日本の美術」416号、至文堂、2001年) A. 広本系: 出家後の西行が吉野、熊野、大峰をめぐる旅に出る。 ![]() 佐藤義清はこの褒賞によって一旦は出家することをためらうが、友人の死に遭遇してこの世のはかなさを知って出家し、西行法師として漂泊の旅に出た。 ![]() 第4章 出世と名声― 成功と失敗をめぐって 16.絵/住吉具慶 詞/伝 烏丸光雄 伝 花山院定誠 伝 七条隆豊《宇治拾遺物語絵巻》江戸時代(17世紀): 場面替えありとのことだが、今回は「宇治拾遺物語 巻15」の弓の名人・門部府生(舎人)が「夜の練習のために燃やして明かりとするために屋根の葺き板を外している場面」と「宮中での賭弓(のりゆみ)に勝つ場面」(↓)が見られた。 ![]() 第5章 荒ぶる心― 軍記物語と仇討ち 18.《平家物語 一の谷・屋島・壇ノ浦合戦図屏風》八曲一双 江戸時代(17世紀): 有名な三つの合戦図。源氏は白旗、平氏は赤旗で鑑別できる。 ![]() 20.《曽我物語図屏風》六曲一双 江戸時代(17世紀): 右隻には昼の「富士の巻狩り」(↓)、左隻には夜の「曽我兄弟の斬りこみ」などが見られた。 ![]() 第6章 祈りのちから― 神仏をもとめて 22.《天神縁起 尊意参内図屏風》六曲一隻 室町時代(16世紀): ![]() 23.伝 岩佐又兵衛《蟻通・貨狄造船図屏風》六曲一双 江戸時代(17世紀): 再見。左隻(↓)に描かれているのは世阿弥の「蟻通」に登場する下馬しないで神社境内に入った「紀貫之」ではなく、「源氏物語 桐壷」に登場する光源氏元服の折に馬を与えられた「左大臣」。 ![]() ![]() ![]() 26.《融通念仏縁起絵巻断簡》鎌倉時代(14世紀): 断簡はつまらない。 27.《神於寺縁起絵巻断簡》鎌倉時代(14世紀): 断簡は本当につまらない。 絵巻を絶った人間は「文化財保護」の精神を一かけらも持ち合わせていなかったのだろう。 展示品に再見のものが多いのは致し方ないが、それなりに楽しめる展覧会だった。 美術散歩 管理人 とら ▲
by cardiacsurgery
| 2015-01-16 22:49
| 国内アート
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