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![]() 今回の展覧会には「東京駅と鉄道をめぐる現代アート9つの物語」というサブタイトルが付いている。 ・ギャラリーへのアプローチ 東京ステーションギャラリーには、以前に何回も来ているので、いつものように丸の内南口で降りて探したが、見つからない。 交番で訊いて、はじめてギャラリー入口が北口に移ったことを知ったというオノボリサン状態である。 もちろん転んでもただでは起きない性格なので、復元された駅やドームの写真を何枚か撮った。 ![]() ![]() 展覧会の始まった頃には整理券を発行するような混雑だったらしいが、今日は整理券の必要なし。この混雑状況の急激な変化について男性職員からちょっと話を伺った。 ギャラリーには今度は立派なエレベーターが付いている。以前の身障者は例の階段で往生していたが、それも今は昔の物語。 さてそれでは、エレベーターに乗って展覧会場へ。 ・ギャラリー3階 ![]() エレベーターで3階に上がると、いきなり林泰彦・中野裕介両氏のユニット「パラモデル」の部屋。 床はもちろん、壁や天井にまで、ブルーのプラレールで埋め尽くされたインスタレーションに驚かされる。これは孫たちが悦びそう! 係員が結構の年配のオジサンだったので、訊いてみると、やはり国鉄OB会の募集に応募してきたとのこと。 作品2.本城直季《tokyo station》 など: 中央は鮮明に、上下はぼんやりとさせた東京駅の俯瞰写真。実写なのにミニチュアを撮影したように見えるということらしい。10月下旬からは、丸ビル屋上から撮影した《new tokyo station》が展示される。 作品3.クワクボリョウタ《Lost #8 (Tokyo marunouchi): 次は照明を落とした暗い部屋。まぶしいほどのLEDライトを付けた模型電車が、レールの周りにある日常品を照らしながら走っている。それがまわりの壁に影絵を作りだしていく。とても不思議な空間だった。一見の価値は十分にある。 この部屋の係員は、愛想がイマイチで、昔の国鉄職員を思い出した。 ・3階から2階に降りる螺旋階段 周りの壁には、以前のレンガを間近に見ることができる。そのうちの「木レンガ」は、1945年5月25日の空襲で焼けて、炭化していた。 ・ギャラリー2階 ![]() 「2000年後から見た現代社会」というテーマの作品群。現代の身近なものが、2000年後に化石として現れるという飛んでるアート。 作品5.秋山さやか《地を動く》シリーズ・《あるく》シリーズ: 自分が歩いた軌跡を、現地で収集した糸やさまざまな素材を、地図に刺繍して表現した作品群。色彩がきれい。 この作家さんのベルリンでの作品を「neoteny japan」展で見ているので、親近感があった。その記事はこちら。 作品6.廣瀬通孝《Sharelog 3D》: suicaやpasmoを2秒間かざすと、チャリーンと音がし、自分の利用履歴がスクリーンに映った地図上に読み出されてくる。これは現代のデジタルアートだが、実用性があるかもしれない。 私の履歴は、新宿駅と渋谷駅を中心する区域に密集していたが、この東京駅や最近出かけた江戸東京博物館のある両国駅まで延びていた。納得! 説明のオバサンが、「二号さんの家がばれますよ」と云って脅かす。訊いてみると、千代田区のシルバー人材センターを通して来ているとのこと。旧国鉄人にはないユーモアである。 作品7.大洲大作《光のシークエンス》: スピート感あふれる車窓の写真多数。 作品8.ヤマガミユキヒロ《platform no1/no2》、《東京駅の展望》、《little trip》: 細密に描かれた鉛筆画の上に、同じ場所で撮影した映像を重ねるキャンバスプロジェクション。画に近づいて仔細に見ようとすると、「クシャミをすると、鉛筆の跡が消えますよ」と、例の説明オバサンがのたまう。 鉛筆画には工事の建物も描かれていたので、オバサンに「これを消しゴムで消せば良いのだから、なおすのは簡単だね」と逆襲したが、敵もさる者、簡単には同意してくれなかった。 作品9.廣村正彰《ギャラリー ジュングリン》: 「赤レンガの壁そのもの」あるいは「赤レンガの写真パネル」を交互にスクリーンとして使った映像作品。 この交互スクリーンの仕掛けには気づかない観客も多いのではあるまいか。横に回って見ないと分からないほど両者は似ていた。 この展覧会は、全体としてみれば、なかなかお洒落な現代美術展だった。個人的な好みとしては、作品3と作品6が★★★★、作品1と作品5が★★★、作品8と作品9が★★。 しかしながら、百聞は一見に如かず。是非、新ギャラリーに展示されている現代アートのそれぞれを、ご自分で実体験されることをお勧めする。 ・周り廊下とショップ 2階の展示室の内側は周り廊下になっていて、北口を上から見下ろせる。ドームの撮影の絶好のポイントでもある。 ![]() ![]() グッズとしては、赤レンガブロックのメモ「Brick Block Memo」や「TSGマグカップ」、「Suicaペンギンケース・東京駅バージョン」、「ペンギン・東京駅ミニレターセット」などが目についた。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2012-10-12 23:13
| 現代アート(国内)
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![]() この展覧会の構想は、福島の原発事故と戦争画に対する問題意識が重畳して形成されてきたもののようだ。すなわち、「2011.3.11+1945.8.15」展であるともいえる。 具体的には、この展覧会では、シベリア抑留、中国戦犯管理所収容の体験を持つ檜山高雄の絵画と、1980年前後に生まれた若手作家5名の主に3.11以後に制作された作品が対置されている。 画廊主の癸生川栄氏から、懇切丁寧な説明を頂いた。 ![]() 寡聞にして、私は、檜山高雄という画家のことはまったく知らなかった。 ↑左の《1945年8月15日》には、燃える地平線に向かう銃を持った兵士の後ろ姿が描かれている。添えられた文章には、「あなたは八月十五日の空を見つめたことがありますか。眠りに沈んだ街の上を人々の魂が通り過ぎるのです。あの戦争で死んだ人たちの魂です。東南アジアの、中國の、そして日本の人たちの・・・」とあった。 私自身「八月十五日」のあの青い空をしっかりと記憶にとどめている。しかし、それはあくまで内地の空であって、檜山の見た外地の空とは異なっている。 ↑右の《私と戦争》の胸は無残な傷だらけであり、添えられた文章からこの身体は「抗日戦士」のものであることが分かった。 檜山高雄(1920-88年)は、1920年広島県生まれ。1941年から約5年間、陸軍の報道班員として中国本土に駐留。シベリア抑留、中国戦犯管理所を経て1956年帰国。その後自らの戦争体験を絵画として発表していった。 香月泰男と同様に、帰国後すぐには戦争体験を絵画化する気持ちになれなかったのではなかろうか。 会場に置かれていた檜山が描いた画の写真を集めたノートには、24枚の画と本人の文章が載っていた。 非常に強い色彩で描かれた画の多くは、ムンクやブリュッケの画家たちの作品を想起させる表現主義的な画である。 これに添えられた文章をすべて読む時間的余裕がなかったが、是非、画像ともども、何らかの形でpublishしてもらいたいと思った。 画廊主の癸生川栄氏の話では、これらの画の現在の管理者である「中国帰還者連絡会」の方々意思はわからないが、どこかの美術館に寄贈されるだけだと、文字通り「お蔵入り」してしまい、今後閲覧の機会が減ってしまう可能性もあるかもしれないというところが少し心配だとのこと。 東京国立近代美術館で管理されている「戦争記録画」と類似の問題が発生すると困るということは私も同意見である。 潘逸舟(1987年上海生まれ、2012年 東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了)の《反対側》(↓および↓↓)では、ナイフを逆さにして持っているので、刃によって指を自傷し、出血している。しかし、胸に当っているのは柄の部分なので、致命的になることはない。切腹という日本古来の責任の取り方とはレベルが違う。作者の意図は十分に理解できなかったが、日中戦争に対する日本人の責任の取り方を皮肉っているのでなければよいが。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 梅沢和木の《magic-mirror α》↓には、会場の展示物が映っている。鏡には沢山のキャラクターがデジタルコラージュされており、向こうからこちらを眺め返してくる。中央に置かれているのは、3.11の際に放映されていたアニメの中の魔獣とのこと。そういう意味では魔鏡である。その中にこの展覧会の展示物と観賞者を映し出しているという仕掛けである。 ![]() この展覧会はお勧めです。明日と明後日の2日だけ。お見逃しなきように。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2012-08-29 20:20
| 現代アート(国内)
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サブタイトルは「君や僕にちょっと似ている」。
![]() 「五時から男」という言葉があったが、これは「五時から女」である。「君や僕にちょっと似ている」というコトバは当たっていなくもない。 美術館正面のポスターは、近作のブロンズ《ちょっと意地悪》だが、中で実際に見るともっと大きくて、迫力がある。このポスターでは、三内丸山遺跡の出土品かと思ってしまう。 ![]() ![]() ![]() ![]() 自分としてのお気に入りは、《樅の子》。クリスマスツリーの下の女の子を見逃すところだった。そういうサプライズが比較的単調な彫刻群のなかではきわだっていた。 他の展示室には、見慣れた憎らしい女の子のアクリルがいくつもあったが、チラシ裏の左下にある《山少女》が良いと思った。盛り上がった髪はホドラーの山の画を想起させる。女の子の角膜に映るのは、色彩豊かなステンドグラス。でもこれには教会のステンドグラスの敬虔さは感じられず、都会の夜の赤や青の光の映るガラス窓のような気がする。この《山少女》は、最近流行りの《即席山ガール》らしい。 ![]() 同じアクリルだが、《春少女》(チラシ裏、上図)の髪、目、衣服に映る楕円形あるいは長方形の暖色はクレーの音楽性を感じた。 アクリルの《Real One》は(↑チラシ裏、中図)、女の子に潜む憎たらしい情念が直接的に表された画。人生経験を経た男性ならば、笑って通り過ぎる画だが、この画で女性の怖さを再認識した独身男性が多いとなると、小子化の進む日本では困ったことになる。 ![]() ![]() ![]() ![]() 日本画のコーナーでは、片岡球子の浮世絵師と版元の面構2枚が良かった。↓左は《喜多川歌麿と版元 蔦屋重三郎》、右は《鳥居清長と版元 永寿堂主人 西村屋与八》。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2012-07-26 11:46
| 現代アート(国内)
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日曜の朝は忙しい。日曜美術館を見たら、すぐに美術散歩にでかけたくなる。番組のメモをとっておいても、よほどでなければブログに感想をアップしている余裕がない。
今朝の「十和田現代美術館ー水野美紀」と「青森県立美術館ー須藤元気」の「アートの旅」は出色の出来だったので、メモをそのままアップする。メモ用紙を節約しているわけではないが、今朝は朝刊の行間に書いてしまった。 ![]() 赤のボールペンで紙面の行間にメモされている 「感覚がギュット詰め込まれる」十和田現代美という水野美紀の新鮮な言葉や「魂がこもっている」青森県美という須藤元気の奥深い言葉が、社会の暗い現実を表す黒くて硬い活字たちと鋭い対照を示している。 とすると、このメモは「現実現代アート」あるいは「現々代アート」といえるかも・・・??? 【追加】 番組では、この後、「コートールド美術館」の紹介がなされた。大分昔のことで恐縮だが、ある暑い夏の日に、ロンドンの地下鉄を下りて、急坂を上って、ここを訪れると、あいにく閉館中で、やむなくカタログだけ買って帰国した。すると、まもなく日本で「コートールド美術館展」が開催され、お目当てのマネ・モネ・セザンヌなどを見ることができた。(記事はこことここ)その時に日本に来なかったゴッホの《頭に包帯をした自画像》に、今朝TV画面の中で初めてお目にかかった。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2012-03-18 10:45
| 現代アート(国内)
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一年ぶりで横浜美術館を訪れた。「みなとみらい」駅の美術館出口付近工事のためかなり迂回させられた。美術館の前の人通りは非常に少なく、灰色の葬祭場のような雰囲気であり、一瞬「今日は休館日だったかな」と同行の家内にむかってつぶやいたほどだった。
![]() チラシによると、「この展覧会は、現在、その活動が最も注目される画家のひとり、松井冬子(まつい・ふゆこ)の、公立美術館における初の大規模な個展です。横浜美術館では、2006年に「日本×画展 しょく発する6人」において、日本の古典絵画が受け継いできた美意識や主題、様式、技法などのうち、近代になって「日本画」の概念が成立する過程で捨て去られたものに、新たな価値や創作のてがかりを見いだし制作にとりくむ若手のひとりとして松井冬子をとり上げました」となっている。 東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻の卒業制作《世界中の子と友達になれる》が今回のチラシのヴィジュアルとなっており、本個展の副題ともなっている。 上記のチラシを再び引用すると、これは「芸術表現が呼び起こす精神的肉体的な『痛み』を始点として、恐怖、狂気、ナルシシズム、性、生と死などをテーマに挑発的とも言える作品を制作してきた松井冬子の原点と言える作品です」となっている。 藤の花を凝視すると、無数のスズメバチがおり、女性の足や手から出血までしている。右奥には空のゆりかごが置かれているが、その意味は一見不明。本人の弁によれば「堕胎」を暗示しているとのことだが、こういう謎解きは困る。 とにかく、この非現実絵画あるいは幻想絵画に意味を求めること自体がむなしい。感覚的には美と醜の対比、それも「主体の醜を強調するために従属している美」ととらえてみた。 題名の《世界中の子と友達になれる》とは、松井が画家を志した子供の時の気持ちのようだったが、この画を描いた際にもこの画で《世界中の子と友達になれる》と信じていたとは思いたくない。 幽霊画のように、足がなく、長い髪を強調した女性の絵がいくつも出ていたが、円山応挙の幽霊画のような品格がなく、例えば《夜盲症》では幽霊の女性が死んだ鳥をぶら下げている。この鳥で靉光の作品を想起したが、これはあくまで個人的な感想。 若い女性の身体を割って、内臓を露出させた絵が、《浄相の持続》以下、沢山出展されており、そのデッサンや下絵も出ていた。このことは、内臓を醜悪なものと捉え、これを若い女性の裸体の美をアクセントとして強調するという計算に基づいて制作されたものであれば、まことにおぞましい。 内臓のデッサンや本絵をしっかり観察してみたが、これは医学の解剖図を引き写したもので、実際の臓器を見て描いたものではない。これは「《圧痕は交錯して網状に走る》のための写生腑分け図:卵管」の女性生殖器のスケッチを見れば明らかだった。 本来、正常人の解剖は医学の進歩のために行われ、人類の福祉に役立ってきているものである。解剖に付される遺体は、生前の本人の意志に基づいて大学医学部に寄付され、故人のその芳志に基づいて医学部学生が解剖を行っている。病気の人に対して行われる病理解剖も、医学の進歩のために家族の芳志によって許可されて初めて実施されている。解剖を開始するにあたって、実施者が遺体に対して敬意を表して深く頭を下げるのはこのためである。 解剖図を描いた画家としては、まずレオナルド・ダヴィンチがあげられるが、彼の場合にはあくまで科学者としての解剖であって、その画稿のなかの心臓弁などは現在の医学水準からみても素晴らしいものである。ミケランジェロも解剖のスケッチを残しているが、これは筋肉を正確に制作したいという芸術家としての気持ちに沿ったものであった。レンブラントの局所解剖図もあくまで医学者たちのアクティヴィティの表現の一部であった。 これに対して、前述したように、松井冬子の臓器は実見されたものではなく、美術解剖学の教科書あたりからとったものであると考えられる。 美術解剖学会のホームページを参照すると、「今日の美術解剖学は、このような骨格、筋の運動機構を中心とした内部構造と外形との関係、動きにともなうかたちの変化、比較解剖学、発生学からのかたちの由来を学ぶ芸用解剖学を教育的側面としてもっています。同時に、研究分野としての広がりが加わりました。芸術表現として人のすがたがもつ美しさや、生物のかたちがもつ意味を考察すること、人体とかかわるものの関係を研究する応用解剖学的研究もあります。人間、そして人体に関わる関連諸学との有機的な関わりの中で、美術解剖学の研究範囲は広範なものとなっています」となっている。 この美術解剖学会の役員を調べると、松井冬子が含まれていたので驚いた。そうだとすると、現在の美術解剖学には、遺体を提供していただいた篤志者への感謝の気持ちはなく、生前その篤志者の一部であった内臓は「醜悪なるもの」として扱うことを許容していることにもなる。 入場してきた際には、会場は閑散として、寒々とした作品だけが並んでいた。ところが、途中から大勢の高校生の団体が入ってきた。皆、驚いたようで、声も立てずに見入っていたが、高校生の美術の演習に松井冬子展が適切であるとは思えない。高校生や中学生の興味本位の刃物殺人が多発している現況では、むしろ問題があるのではなかろうか。 これは学校の問題であるが、だといって学校や担当教師を責めるのは酷である。問題はこのようなこのような問題を引き起こしかねない現在の「公立美術館」の在り方であろう。 現在、公立美術館には強い逆風が吹いている。横浜美術館でも「指定管理者制度」が導入されたが、当時の横浜市長・中田宏氏は、「この美術館も工夫が足りているとは言えない。改革のために刺激が必要だ」と述べている。 このため、積極的な美術館では企業のように「経営改革」を掲げて「個性化」や「独自性」を意識した取り組みで動きだしている。「横浜美術館」では、明確な「目標」のもとに、「具体的な取り組み」や「指標」を掲げ、「企画展」の来館者の達成数字目標までもはっきりあげている。そして「横浜美術館」では、地元のショッピングセンターやホテルと一緒に多数のイベントを行っている。 今回の「松井冬子展」もこのような「イベント性の強い企画展」である。出展作の所蔵先を見ると、成山画廊がもっとも多く、今回の展覧会イベントの協力者となっていた。それよりも驚いたことは、所蔵先の個人名が沢山リストに記されていたことである。例えば、月や枯葉が描きこまれた幽霊画《咳》の所蔵者は今を時めく「山下裕二」氏である。この辺にも、新しいビジネスマインドが感じられるが、その正体は知りたくもない。 松井冬子の作品の題名が難解なのは、ダリの前例があるから「まあ良い!」としよう。しかし、キャプションの精神分裂的表現は、本人に任せたものではなかろうか。この点においては、横浜美術館はその教育的任務を放棄していた。 結局のところ、会場でストンと胸に落ちた作品は、穏やかな《盲犬図》、タイムリーな《陸前高田の一本松》、ヤゴから《生れる》トンボぐらいだった。才能のある画家だけに・・・と思った。 この会場を出てほっとして、椅子で休んだ。続いて、コレクション展の会場に移ったが、こちらは良い企画があり、大勢の観客が松井冬子の桎梏から解放され、①横浜開港から昭和までの洋画、②タゴールと三溪ゆかりの日本画家たち、③写真展などの企画を楽しんでいた。 これらについては写真も撮ってきたので、別報とするが、「美術鑑賞は自分が楽しむためのものである」ということを再確認した。 美術館は visiter-oriented のものでなければならない。bisiness-oriented の美術館は消えてほしいし、早晩消滅するであろう。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2012-02-01 14:10
| 現代アート(国内)
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今を時めく現代アート・キュレーター長谷川氏の新著(2011年11月10日、NHK出版新書364)を読んだ。
![]() そこで今注目すべきアーティストの作品と観賞のポイントのガイダンスを受けながら、上記の『なぜか』の追求法を読みだした。 章立てとアーティスト名は下記のようである。 第1章 本画の遺伝子: 村上隆、奈良美智、落合多武 第2章 出会う場所でアートは変わる: 草間弥生、オラファー・エリアソン、レアンドロ・エルリッヒ、マイケル・リン 第3章 アートが科学を越えるとき: ジェームス・タレル、池田亮児 第4章 「見る」ということ: ソフィ・カル、河原温、アンリ・サラ 第5章 身体性を呼び覚ます: エリオ・オイチシカ、リジア・クラーク、エルネスト・ネト、サラ・ジー 第6章 アートのポリティククス: マシュー・バーニー、フランシス・アリス、ロバート・スミッソン、蔡国強 第7章 越境するアート: SANAA、石上純也、トビアス・レーベルガ-、リクルット・ティラバーニャ、シムソン・ギル、wah、フセイン・チャラヤン 自分のブログやHPを検索してみると、上記下線の13人がヒットした。本著で述べられている26人のうちの半数であるから、現代美術が苦手な私「とら」も仲間の若手ブロガーのおかげで、現代美術の半可通となっていることがわかる。 東京都現代美術館はもとより、金沢21世紀美術館、岩手山感覚ミュージアム、下山発電所美術館などにもでかけているのだから、まんざら素人というわけでもないが、本書の「よくわからないけれど、なぜか惹かれる」というのは私のようなものをいうのだろう。したがって本書のレビューを書く資格はないが、序論の部分から、お気に入りの文章を選び、ちょっとした感想を述べることぐらいは許されるだろう。 ・アートは、時を越えて生き残る「適時性」と、共有する現在をときめかせる、いまを生きていきるという「共通性」の、二つの力をあわせもっている。・・・「忘れられていくものはアートとはいえない」ということになりますね。 ・一方で、現代とそれ以前では、一点、決定的に違うことがあります。デジタル記憶装置が普及した1990年代の後半以降、「物」として残っていかなくても、「情報」として歴史に残っていくという選択肢がでてきた。・・・すべてが情報宇宙の「ゴミ」として残ってしまうのも困るので、何かを捨てていくという「ゴミ捨て作業」が必要になりませんか。 ・何がいいアートで、残っていくアートなのか、私たちの生は、アートにどのようにかかわっていくのかという根本的な問いを、多様な形で考えてみるのは面白い。・・・面白すぎて困りますが、これが本書の狙いなのですね。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2011-12-02 15:50
| 現代アート(国内)
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副題は「31人の気鋭作家が切り拓く、現代アートシーン」。
「冒険家マルコ・ポーロが、わが国を黄金郷であると伝えた時と同じように、いま日本は新鮮な発見と驚きをもって世界に迎えられている。今回の展覧会も国内の高島屋をまわった後、外国にも展開する予定である」とのこと。これが外国の画廊主の言葉ならば、説得力があるのだが、日本のギャラリーからの言葉だといささか注意して聞かなければならない。 ![]() その中で、会田誠《大山椒魚》や山口晃《歌謡ショウ図》はおなじみ。ただ、これらは日本的なイメージなので、欧米ではどのように受け取られるだろうか。 池田学の小さい作品も良かったが、大きな《仏陀》がダントツ。細密なモティーフと大きな仏の対比は、ブリューゲルの《バベルの塔》を想起させた。この作者の作品は欧米でも十分に通用するだろう。 天明屋尚の刺青画、町田久美の《とまり木》、宮永愛子のナフタリン芸術はわが国では有名だが、外国でも通用しそうな気がする。 三瀬夏之介の《だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる》は、チラシ↑の上段の巨大な屏風絵。墨だけではなく、胡粉、アクリル、インクジェットのコラージュである。縄文のエネルギーの爆発のようだ。こういった祖先からのDNAを揺さぶるアートが、どの程度外国人に受容されるか見ものである。 日本の得意技のアニメーションにお気に入りが多かった。ゆっくり時間をかけて楽しませてもらった。 まずは、鴻池朋子の《minio-Odyssey》。スクリーンに相当する台座が本のように中央がくぼんでいるだけで、実際にマンガの本を読んでいるようだった。 次に、近藤聡乃《てんとう虫のおとむらい》が、今回のマイベスト。白黒に赤だけの色の使い方に安心感が持て、ストーリーも面白かった。 もう一つのアニメ、束芋の《にっぽんの台所》は以前にも見たが、またしっかり見てしまった。 その他に印象深かったのは、指江昌克の《moon》、熊澤未来子の《侵食》、渡邊佳織の《開け心》。 青山悟、石原七生、上田順平、O JUN、岡本瑛里、風間サチコ、樫木知子、熊澤未来子、染谷聡、棚田康司、南条嘉毅、藤田桃子、森淳一、山口藍、山﨑史生、山本太郎、山本竜基、吉田朗、龍門藍などの作家はこれからよく見ていこう。 (追 加) 高島屋の6階美術画廊の展示が必見。 まずはジパング関連の「Nippon現代アート外伝」。近藤聡乃の《てんとう虫のおとむらい》のアクリル箱詰めが傑作だった。 それより強烈だったのは「妖怪奇譚-金子富之展」。山形在住の孤高の妖怪絵師・金子富之の個展。恐るべき日本画です。 ![]() 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2011-06-02 19:29
| 現代アート(国内)
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お世話になっている「あおひー」さんの個展。最終日になってしまった。
![]() 次に、あおひーさんからタイトル(リストはこちら)と撮影対象を教えてもらって、ちょっとお話をした。そして自分なりのタイトルを考えてみた。 #4 Hanasaki(いくつものタクシーの頭)→とらタイトル=START(徒競走) #7 散華の街(銀座)→とらタイトル=PIECE(戦争を知らない子供たちの街) 二人で、川端龍子の《爆弾散華》の画や特攻隊員の「散華」の話をした。「時代の差」ということで両者納得。↓はこの作品で、案内状のヴィジュアルになっている。 ![]() 最後の壁面はお気に入りの連続だったので、あおひーさんの背中とともに撮影。 ![]() ![]() #13 Green2 ↓(水に映る橋)→とらタイトル=TANIMA(東山魁夷《たにま》の下絵↓↓を想起) ![]() ![]() その他にも、クレーを想起させる「薬局の店頭」やカンディンスキーを想起させる「おもちゃの台紙」は音楽性のある抽象絵画のように思われた。 アーティストがアーティストたるためには独創性がもっとも大切である。あおひーさんの作品は、上記のように過去のアートのDNAを保有しつつ、あおひー独自の感性が見事に花開いていると思った。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2011-05-21 17:19
| 現代アート(国内)
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しばらく極寒休眠中だった「とら」が美術散歩を再開した。題して「中央線美術散歩」とでもしようか。まずはミズマ・アートギャラリーへ。目黒にあった時に「山口晃 ラグランジュ・ポイント」展を見に行ったことがあるが、あまりに老朽化した建物なので、わが国の現代アートの問題点に眼を覆ったことを覚えている。
今回はしばらく前に移転した神楽坂ビル2階の新しいギャラリー。外階段を使っているところは相変わらずであるが、少なくとも清潔な感じがして、これならばアートを観る環境としては十分である。 中には三畳台目の茶室も出来ていて、中国風景らしい横長の画が掛けてあった。最近の茶会では古めかしい一行ものの書だけではなく、このように絵を掛けることもあるという。これは同行した家内の話。そういえば自宅での今年の初釜の床は《鉢の木》だった。 ![]() 今日は、「焦点」展に関するブロガーたちの記事を読んで、最終日に出かけた。今回は全ての作品が22×27cmという小画面。「小さな部分に焦点を当て、そこから外に広がっている大きな世界を想像する作品たち」ということで展覧会タイトルを「焦点」としたとのこと。 確かに池田の作品のような細密画はこのような小画面にまとめたほうが、テーマが拡散せず分かりやすい。全20点と展示数は限られているが、その濃密さは驚くべきものである。新作の《Gate》はギャラリー入り口のポスターに使われていたので写真に撮った。 ![]() その他のお気に入りは、大きな水車のようなものとその上の小さな農夫たちの対照の面白い《farmer's tank》、廃屋となった病院から樹が生え、ベッドが出てくる《Hospital》、波頭を小さな人間が登っていく《波/wave》、太い樹の根っこの中の地底湖や骸骨の描かれた《地下の種/Seed of underground》など多数。 【参照】池田学@Mizuma Art Gallery 発想の豊かさと確かな技術力は、新しいシュールの世界を切り拓いている。この作家のますますの発展を期待したい。 昨日、この池田学と同年齢の三瀬夏之介の座談会があったという。色合いのまったく異なる2人なのでどんな話が出たのだろうか。どうせ両者の画集の出版社の作戦なのだろうから、このようなものに影響されず、それぞれ独自の道を進んでもらいたい。 そういうこともあって以前に三瀬夏之介の展覧会を見た「佐藤美術館」に足をのばすことにした。こちらの記事は別記とする。 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2011-01-15 17:32
| 現代アート(国内)
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Twitterは便利。たった4日間の「BASARA展」はTwitterを見ていなければミスしてしまっていただろう。
茶道をやっている家内に、「侘び・寂び・禅の対極にある『バサラ』というものは知っているか?」と聞いてみたところ、早速「佐々木道誉でしょう」という返事。そこで淡交会の「原色茶道大辞典」で「佐々木道誉」を引いてみると、「南北朝動乱期の武将。足利政権の重鎮。豪放の性格から尊氏もこれに一目を置く権勢を振るったうえ、華美を好むバサラ大名の名を高くした。特に闘茶会の豪華を誇った」となっている。 Wikiでは、「ばさら、婆娑羅、vajra = 金剛石」とは、身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む南北朝時代の美意識とされている。 ![]() 現代美術家・天明屋尚氏のキュレーション。チラシには、「侘び・寂び・禅の対極にあり、オタク文化とも相容れない華美(過美)で反骨精神溢れる覇格(破格)の美の系譜『BASARA』をテーマに、大胆かつダイナミックな和の世界が展開されます」と書いてある。 家内が一番感心したのは、入ってすぐ右に置いてあった中島靖貴の《タイムマシーン》。蒔絵のバイク。座席に畳表が敷かれている。確かに時を超えるマシーンである。 このバイクの側に、桃山時代の兜。この兜をかぶってタイムマシーンに跨り、246を飛ばす若者がいたら面白い。 その奥に、素晴らしい根付つき煙草入れ、刀の鍔の向こうを張ってデコ電が並んでいたが、これはさすがに見劣りする。 ![]() その側には、河鍋暁斎の《風流蛙大合戦》、国芳の《源頼光館土蜘蛛作妖怪記》のお化けたち。さらに国芳の水滸伝の刺青男《浪裡白跳張順》と《九紋龍史進》。 これに張りあう現代美術は池田学の《興亡記》。これは何回見ても素晴らしい。バベルの塔のような城の屋根の上では大勢の侍が戦っているかと思えば、天守閣はクレーンで工事中。各層には列車が入り込んでいると思えば、大きな手から蜘蛛の糸が垂れ下がり、それにしがみつく人間も描かれている。 その隣は、山口晃の《土民図》。昔の農民が軽トラに竹やりを積んでいる。明智光秀を討ち取った小栗栖の住人たちなのだろう。これは得意の時代超越絵画だが、池田学の努力作に比べればあっさりしすぎている。 その隣には、横尾忠則の《夢千代日記》。洋風な感じがして、この展覧会ではちょっと浮いていた。 正面入口横の階段横には、滝の水を浴びる刺青の男と浴衣の女が描かれた豊原国周の五枚続き浮世絵《有瀧恵花形》と現代の刺青男たちの写真《不動明王》など。後者は一昨日に実物を見られたとのこと。 綺麗だったのは村山瑠里子の《愛のドレス》。これは前に見たことがある。これは国周の浮世絵の女性の向こうをはっているのだろうか。 縄文土器の側には、現代陶芸のドクロ。 階段を上ったところに金理有の玉虫色の兜のようなものをかぶって、目・耳など顔の一部だけが露出されている不思議な陶芸があった。 版画としては、月岡芳年の《椿説弓張月》と河鍋暁斎の《元禄大和錦》シリーズの2枚も出ていた。いずれも兜をかぶった武者。これは金理有の作品と対応させているのだろうか。 驚いたのは成田久の《衣殖》。美しい着物の布地を細かく縫って縮みのような雰囲気を出し、これを繋いで超ロングドレスにしていた。 その左右に観音菩薩を取り巻く四天王と芸者の人形が置かれていたが、「ばさら」との関係は不明。このホールの壁面には岡本太郎の作品を想起させる激しいタッチの壁画があった。これぞ岡本太郎のいう縄文の精神、「ばさら」の美意識に連なるものであった。 辻惟雄の「日本美術の歴史」によると、時代や分野を超えた日本美術の特質は、①かざり、②あそび、③アニミズムであるとされている。「ばさら」とはこのような日本美術の特質の具体的な表現であるともいえる。おもしろい発想の企画だった。 写真撮影禁止だが、ランチを食べたレストランの背景に作品の一部が写っている。 ![]() 美術散歩 管理人 とら ■
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by cardiacsurgery
| 2010-08-06 17:25
| 現代アート(国内)
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