【番宣】英雄たちの選択「日朝国交を回復せよ!対馬 宗義智の秘策外交」
豊臣秀吉の戦争から、徳川家康の国交回復へ。今回の主人公は、江戸初期、日朝友好の象徴・朝鮮通信使の派遣を可能にした対馬の宗義智。日朝間の激動の時代、戦争の憎しみと怒りが渦巻くなか、国交回復を命じられた宗義智が駆使した、一筋縄ではいかないギリギリの秘策外交「国書偽造」とは?いったいなぜ?どうやって?秀吉・家康にほんろうされながらも、日朝国交回復に奔走した宗義智の、知られざる秘策外交の舞台裏に迫る。
【出演者】
歴史学者:仲尾宏 京都造形芸術大学客員教授
脳科学者:中野信子 東日本国際大学特任教授
経済学者:山田吉彦 東海大学海洋學教授
長崎県立対馬歴史民俗資料館学芸員:古川祐貴
大分県臼杵市・安養寺住職:安藤隆伸
秘策外交

宗義智

宗氏家紋

対馬国

豪族たちが目をつけたのが船による交易

韓国展望所

韓国まで49.5㎞の至近距離にある対馬は天気のよい日には釜山の町並みが望める。まさに「国境の町」。この展望所は、地理的にも歴史的にも深い関係にある韓国の古代建築様式を取り入れて建造されており、展望台についてはソウルのパゴダ公園にある多目的施設を、ゲートについては韓国国際ターミナル(釜山)の入口ゲートをそれぞれモデルにしている。
告身

告身とは、中国・朝鮮王朝において官爵を与えられた官吏に授けられた辞令・身分証明書。
(↓)は、豪族の一人・彦三郎に与えられた告身。「彦三郎を宣畧将軍に任ずる」と書かれている。

この告身には、印が捺されている。

長崎県立対馬歴史民俗資料館学芸員古川祐貴さん曰く「倭寇に悩まされていた朝鮮王朝は、倭寇の首領に対して朝鮮の官職を与えて懐柔する政策を取った。これによって彼らは朝鮮に渡って貿易する権利を手に入れた」



宗氏が対馬島内で圧倒的な権力を確立できた理由のひとつに、朝鮮への渡航証明書を発行する権利を独占的に担ったことが挙げられる。これによって対馬から挑戦に渡る船はは宗氏によって管理されることになり、島内の豪族たちはこれまでのように自由に船をだすことができなくなった

宗義智像

豊臣秀吉

対馬一国はこれまで通り安堵いたす。

次に高麗(朝鮮)のことだが。

国王が日本に参ればこれまで通り朝鮮の支配を認めるが遅れるようであれば 即時に海を渡って誅罰を加える。

冊封体制 明皇帝と朝鮮国王の関係

義智は朝鮮国王に日本への公式使節派遣を願い出る。

しかし使節の名目は「秀吉に服属せよ」というものではなかった。

義智の願い出は、「秀吉が天下の支配者になったことを祝福する祝賀使節を送ってくれ」というものだった。

義智は、秀吉の意図をあえて隠し あくまで秀吉の国土統一を祝う使節派遣を求めたのである。

宗氏が偽造した朝鮮国王の印「為政以徳」(↓)

朝鮮国王国書(宮内庁書陵部)(↓)

国書に押された印の朱肉の成分が宗氏の偽造印に残る朱肉の成分と一致した。

この朝鮮国王の国書は宗氏が偽造したものだった。

天正18(1590)年 朝鮮使節団来日。
秀吉曰く:明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。

秀吉曰く:我が国が明に攻め入る時には朝鮮もはせ参じるように。

秀吉は朝鮮の宗主国・明を征服すると宣言。朝鮮に手伝うように命じた。

文禄元(1592)年4月13日、文禄の役が始まる。

経済学者 山田吉彦 東海大学海洋學教授 海洋政策などが専門

山田吉彦教授 曰く:朝鮮と日本を結び付けていくことが 対馬のアイデア

京都造形芸術大学客員教授 仲尾宏さん 前近代日朝関係史が専門

秀吉が冊封関係を理解していたかどうかについては疑問がある。

小西行長(義智の妻の父)

日本軍の先導役を宗義智は担わされた。
釜山

釜山 漢城 平壌

ところが、朝鮮の宗主国・明4万が援軍にやってきた。

戦闘画

宗義智 禁断の秘策外交。文禄の役 日朝激戦の行方。

さんざんのてい 吉見家朝鮮対陣日記。

宗義智たちは明との講和に向けて動き出す。

清側から日本への要求は「秀吉による降伏文書」の提出であった。

宗義智とその義父・小西行長は、「偽造国書」ともいえる秀吉名義の文書を作成し、明に送付した。

・明国皇帝陛下のご威光のもとでは

・日本など小さき存在でございます。

・是非とも日本国の王として任命して頂きたく存じます。

偽造国書

京都造形芸術大学客員教授・仲尾宏氏曰く:宗氏がそういうこと(偽造)をできるという力は十分あった。

実際に、その時も偽造したという可能性が高い。

日本と明の間で休戦協定が成立。

文禄5(1596)年9月、明の使節が秀吉に謁見した。

明から秀吉への冊封文:ここに特になんじを封じて日本国王となす。

秀吉がこの冊封文を不服とし、慶長2(1597)年7月慶長の役が始まった。

この時も、宗義智が先を強いられた。

慶長の役の惨劇は「老若男女・僧侶 なで切り」と大河内秀元朝鮮日記に記されている。

安養寺 (大分県臼杵市)

安養寺住職 安藤隆伸さん

安藤さんの先祖であり安養寺の住職だった「慶念」が朝鮮出兵の時に書いた日記。

男女老若、縄で首をくくられ、

歩くのを止めた者に対しては杖でおい立て打つ有様は、

さながら地獄の鬼が責め立てているようである。

人あきない

朝鮮から連れてこられた人がどうなったか。

日本で農村の労働力に使われる場合 奴隷として売買される場合もあった。

東南アジアの各地に奴隷として転売される朝鮮の人たちもたくさんいたといわれる。

飢喝の上寒難痛 大河内秀元朝鮮日記

日本への撤退命令

慶長3(1598)年8月18日 豊臣秀吉 死去

朝鮮での戦いが終わった後、荒れ果てた故郷・対馬の村には人がいなくなっていた。


戦いで多くの人が死んだり、逃げたりしたからである。

仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授:文禄の役で宗氏は5000人の軍勢の派遣を求められている。

当時の対馬の人口はおそらく1万にも満たなかった。

当時は漁業中心だったが、漁師たちも船のこぎ手として働かされている。

人がいなくなり、田畑は荒れ放題 漁村も荒れ放題となった。

山田吉彦・東海大学教授:この時、日本軍は朝鮮軍に負けていたので、不利な状況で停戦協定を結ばねばならなかった。

司会者:どのタイミングですみやかに移動できるかと考えたら 国書の偽造が手っ取り早い。

仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授:一刻も早く朝鮮との和平を実現しなければいけない。

和平は貿易の最低条件である。

宗義智は、戦争が終わった翌年から、釜山に使者をどんどん送りだしている。

慶長5(1600)年 関ケ原の戦い

宗義智は明智光秀の味方をした。

それでも家康は義智に「所領安堵」を与えた。

仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授曰く:家康は通商国家を考えていた。

しかし朝鮮国と貿易を再開するにあたっては まず戦後処理が必要。


家康としては朝鮮貿易の解決については宗氏の力が絶対に必要だという判断があった。

だから宗氏に対して処分はしないという判断を下した。

義智は朝鮮王朝に使者を送りながら 公式使節派遣の要請を繰り返した。

しかし、朝鮮王朝は義智の要請に対して完全拒否を貫いていた。

松雲(ソンウン)大師

仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授:新しく政権を取った家康が再び攻めてくるのではないかという疑念があった。

家康政権がどのような朝鮮認識をもっているのかを確かめる必要があると考えた。

慶長10(1605)年 義智は松雲大師を伴い家康に謁見した。

攷事撮要(こうじさつよう)

我は朝鮮出兵の時、関東におり、戦に関わっていない。朝鮮との間に恨みはなく。ただ輪をじることを望むのみである。

会議から1年余りののち、義智の元に公式使節派遣の条件が届いた。

使者派遣の条件は「家康が日本国王として先の戦について謝罪する国書を出すこと」

家康が明に帰属し「日本と朝鮮が対等である」と示した上で国書を出して謝罪せよ。

宗義智の選択 選択1:家康の国書を家康に頼む。 選択2:家康の国書を偽造する。

宗義智の選択 ⇒ 家康の謝罪国書を偽造する


京都造形芸術大学・神尾宏明名誉教授:義智には、家康が謝罪国書を描かないという確信があった。

山田吉彦・東海大学教授:もしものことがあれば責任は十分とる。その代わりに、今まで通りのやり方、宗一族として対馬を守ってきたやり方で最後は残す。


我々が前の代の非を改めることは、去年、松雲大師に話した通りである。



対馬から江戸までの往復の期間、幕府側がどういうような判断をするか。

朝鮮側は、家康の謝罪国書は偽造されたものと分かっていた。そんなに早く家康国書が朝鮮に届くわけがないからだった。

しかし、朝鮮国王は公式使節団派遣を決定した。

京都造形芸術大学仲尾宏客員教授:朝鮮側としては、自分たちが出した条件は満たされた。

ここで蒸し返して偽物だというと、また和平が遠のいてしまう。

一番の問題は、被虜の人々の送還が遅れてしまうことである。これは許されない。

一方、北方の女真族、後には清国になる大きな勢力が鴨緑江を渡って侵入してきている。

南方・北方の2つの大きな外交課題・軍事情勢を少しでも安定化をさせるために、日本との和平を急ごうということになったのだろう。

という次第で、朝鮮側は国書が偽物と分かっていて受け取ったのである。

慶長12(1607)年1月12日、朝鮮使節団 漢城を出発。

宗義智の「禁断の秘策外交」によって、朝鮮通信使による国交回復が実現することになったのである!

2月29日、使節一行は対馬に到着した。

ここで、使節側と日本側との間で不思議な問答が交わされている。
・先年の国書は果たして家康のものか? 海槎録

・もちろんである。なぜそのような事を問うのか?

・あの国書に押された国王印はどういったものなのか?

・あれは明の使節が、文禄の役の講和で来日した際に、秀吉を日本国王にして任命するために渡したものである。

あの時日本はそれを拒否したではないか。にも関わらず、その時の国王印を使ったというのか。日本とはよくわからない国だ。

宗義智の「禁断の秘策外交」によって国交回復し、朝鮮通信使が漢城⇒対馬⇒瀬戸内海⇒江戸へ。


慶長12(1607)年5月6日 朝鮮通信使 江戸城


宗義智: 慶長12(1607)年 禁断の秘策外交により日朝国交回復

宗義智: 慶長20(1615)年 死去(享年 48)

広島県福山市鞆の浦

福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で国の史跡に指定されている。

朝鮮通信使の一行が「日東第一形勝」と絶賛した対潮楼の座敷からの鞆の浦の海の眺めは素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残している。

♪日東第一形勝のその名も高き鞆の浦♪
美術散歩 管理人 とら