記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
これは2週間の短期デパート展。最終日にやっと間に合った。
戊辰戦争、台湾出兵、日清・日露戦争によって大儲けし、軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど大倉組が独占したという。 大倉 喜七郎は、「バロン・オークラ」と呼ばれた大倉財閥の2代目。ホテル業にも軸足を移した。先代が創設した「大倉集古館」の理事長を務めるなど文化事業にも功績があり、中でも日本近代絵画を擁護し、1930年には大金を投じてローマ開催「日本美術展覧」会を後援して、横山大観をはじめとする画家たちの活動を支援するとともに、海外に紹介したということになっている。 当時、イタリアの首相はファッシストのムッソリーニ。1928年、大倉氏がムッソリー二に、横山大観が描いた《立葵》を寄贈したのを機に、ローマでの日本美術展覧会開催が決定した。この辺に政治家と政商の結びつつきが浮き上がってくる。また、このような資金は単に一人の日本富豪の気まぐれによるという見方は、当時の複雑な世界情勢を考えれば、あまりにも単細胞的なのかもしれない。いずれにせよ、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世やムッソリーニ首相など、入場者数16万6千人という歴史上類を見ない展覧会となったのであるから、日本画の国際化に役立ったということは事実だろう。 大倉氏からこの話を持ちかけられた大観は、すぐさま竹内栖鳳や川合玉堂に手紙を出して参加を呼びかけ、院展・官展といった枠組みを超えた日本を代表する画家の作品が展示されることになった。 ローマ展の特徴は、会場となったパラッツオ・デルラ・エスポジツィオーネに床の間や青畳、さらには生け花やお香といった日本の家屋と似た環境をしつらえたことだろう。これらの造作のために日本から宮大工まで連れて行ったという話である。横山大観の開会式の挨拶の岡倉由三郎による英訳下書きが出ていたが、それには外国でのそれまでの日本画展は展示方法が悪かったから誤解を受けてきたと書いてある。 当時出展された全作品のうち、3分の2以上が、現在行方不明で、今回の展覧会は現在大倉集古館に所蔵されている作品を中心とした中規模のものである。 入口には横山大観のリトグラフ・ポスター《ESPOSIZIONE D'ARTE GIAPPONE》があったが、これがわたしが嫌いな《富士山と太陽》。国粋主義ファシストー國際的商人ー国粋主義的画家というラインを考えることもできるが、そのことは置いておいて展示作品に集中して見ることにした。 横山大観の《山四趣》と《瀟湘八景》のような地味な墨絵風景画はどの程度ヨーロッパ人に理解されたであろうか。個人的には、前者では《雪餘》、後者では《江天暮雪》といった冬景色が好きだが、特に力作とはいえない。これに対し彼の《夜桜》↓は力が入っている。篝火から立ち上る煙と桜の花びらや樹との微妙な関係が巧い。参考出品されている大観の花鳥画は下手。大観の作には優劣の落差が多いことは以前から指摘されている。 大倉以外の所蔵品としては、堅山南風の《秋草》、小茂田青樹の《睡鴨・飛鴨》、山元春拳の《雪渓遊鹿図》、安田靭彦の《風神・雷神》などは自分の好みだが、当時のイタリア人の反応はどうだったのだろうか。 残念ながら、このローマ展に対する当時のイタリアの新聞論調については、今回の展覧会場には見当たらなかった。 美術散歩 管理人 とら HP
by cardiacsurgery
| 2008-05-25 20:00
| 国内アート
|
ファン申請 |
||