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満開の桜をよそに、10:00-18:30という長丁場のシンポジウム「ルネサンスのエロティック美術―図像と機能」を西美の講堂で聴講した。われわれのように英語が国際語であると信じている人間には、イタリア語と日本語の同時通訳を聴くという珍しい機会でもあった。
モデレーターの挨拶: モデレーターは東京芸大の越川倫明準教授。その挨拶の言葉は、「エロス」の定義から始まる。エロスとは、二つのものがお互いに強く引き合う力であって、哲学的な意味も、男女の性愛という即物的な意味も有している。今回のシンポジウムは15-16世紀に絞り込んだもので、猥褻文学の元祖ともされたルネサンスの美術批評家ピエトロ・アレティーノに捧げるものである。 開会の辞: 正式な「開会の辞」は、西美の青柳正規館長。「最近は研究していないからこのシンポジウムに出してもらえなかった」とジョークを飛ばしながら、スライドを使ったミニ講演。 《ミロのヴィーナス》の乳房の大きさはCカップに見えるが、NHKやワコールなどの研究によると実はBカップであった。これは西洋人の胸郭が開いているからCカップに見えるのだとの見解である。 ギリシャ彫刻では、男性の性器が露出しているのは当たり前のことであった。しかしこの性器を除いてしまえば、いつでも女性像となるのである。 女性の裸体立像からはエロティシズムを感じないが、これを横に臥せてみると曲線が出てくる。これはジョルジョーネ→ティツィアーノ→モジリアーニと続く横臥の裸婦像で具現化されている。恥ずかしいという感情が官能性として出てくるのである。素晴らしいミニ・レクチャーだった。 ヴィーナス展の紹介: 次の渡辺晋輔氏の「ウルビーノのヴィーナス 古代からルネサンス、美の系譜」展紹介は、展覧会を観てしまったわたしにとっては、《ウルビーノのヴィーナス》の出展が決まったのは3年前だったということしか得ることはなかった。 第1セッション(1) いよいよ第1セッションの始まり。一番手は、シラキュース大学フィレンツェ校のジョナサン・K・ネルソン先生。ところが肝心の同時通訳のイヤフォーンが働かない。大分待った挙句、先生の英文発表と通訳者の日本語が同時に室内に響くという悲惨な結果となった。聴衆のなかには国際語である英語が分かる人が少なくないので、日本語はないほうが良かったかもしれない。 このような状況だったので、聴き間違えがあるかもしれないが、一応自分が理解できたと思ったところをまとめておきたい。演題は「女性ヌードをめぐる闘い-ミケランジェロ、レオナルド、ティツィアーノ」である。 ミケランジェロが古代の女性裸像を研究て、新たに創出した女性美は彼のトンド《ドーニ家の聖母》に集約されている。しかし、そこに描かれた女性の筋肉はあまりにも隆々としているとの批判を受けた。一方、レオナルドの女性は《レダと白鳥(チェーザレ・ダ・セストの模写)》にみられるように非常に柔らかである。これは解剖によって得た知識であろうが、明らかにミケランジェロに対する批判である。 レオナルドの《レダと白鳥》では、乳房や下腹部が露出されている。ところがレオナルドは、「女性は、慎ましく、脚を閉じ、両腕は一つに組まれ、頭はうなだれて一方に傾けているのがよい」といった言葉を残している。そうなるとレオナルドは意図的に《レダ》にあのような姿をとらせたということになる。 《レダと白鳥》の子供たちは、愛のハッピーエンドである。レオナルドは当時の一般的な考え方とは違い、女性が生殖に重要な役割を果たしていることを知っていた。そして、交わりには愛情と欲望の両面があるが、肉欲がなければ知性を伴った子供が産まれてこないことも知っていた。 ミケランジェロの《レダと白鳥》では、優美に眠っているヴィーナスに白鳥がのしかかっている。この画は明らかにレオナルドを意識したもので、ミケランジェロの反撃であるといえる。今回出展されているポントルモの模写によるミケランジェロのヴィーナスにも男性的な筋肉が与えられている。 同じような意味では、ティツィアーノの《ダナエ》は、ミケランジェロの《レダと白鳥》とのバトルの結果であるといえる。このように、16世紀の画家たちは、お互いに強い競争意識を持ちつつ、新しい女性裸体表現を生み出していった。 第1セッション(2) 2番手として登場するはずのヴェネツィア、カ・フォスカリ大学のアウグスト・ジェンティ-リ先生はドタキャンされたのか、その先生の下に留学された細野先生の代読となる。演題は「16世紀ヴェネツィア絵画における女性の身体と男性の眼差し」。これがなんとイタリア語を読んで、別な日本人が日本語で通訳するというのだからまるでマンガである。しかし、だめなイヤフォーンからは日本語が大きく聞こえてくることが分かったのでかなり聞きやすくなった。 ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》は、結婚におけるエロティックな役割を果たしている。注文者の妻が10歳で夫婦生活を始めるための教育のための画であった。ティツィアーノには、いくつかのヴァージョンのオルガンやリュートの登場するヴィーナスの画があるが、これらは高級娼婦であるととれるように描かれている。《オルガン奏者を伴うヴィーナス》には、愛の要求、覗き趣味、音楽と愛のイメージといった16世紀半ばの貴族のエロティシズムとナルシズムが投影されている。 ティントレットの《ヴィーナス、ウルカヌス、マルス》、《スザンナ》、《オルフェルネス》、《スザンナ》などには、反社会的な愛が描かれている。 ヴェロネーゼの《ヴィーナスとマルス》では、ヴィーナスの乳首から乳がほとばしり、マルスの馬はもはや軍馬ではなく、種馬となっている。ヴェロネーゼの《愛の寓意の4連画》では、それぞれ、不確実な愛に絡められた男、享楽的な愛と誠実な愛の奪い合い、不実な愛の断面、誠実な愛情への褒賞といった「概念の世界」にエロスを潜めている。 第1セッション(3) このセッションのトリは、恵泉女学園大学の池上英洋先生である。先生の講演は何度か聞いたことがあるが、イタリア語の講演は初めてである。演題は「ヴィーナスの変容ーヌード、薔薇、復活と五感」。写真は発表を待つ池上先生。 ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》は裸婦ではあるが、キューピッドが描かれていない。注文者の妻の顔とはそれほど似ていない。むしろピッティにある《美しき人》に似ているのではないか。当時ヴェネツィアには6800人もの娼婦がおり、彼女たちがヌードモデルを務めていた可能性がある。そう考えれば、《ウルビーノのヴィーナス》の主人公は高級娼婦で、黒いカーテンの縦の線は、観る者の視線を彼女の下腹部に誘導しているような気もする。シーツの皺、長い髪、紅潮した顔、目立たぬ指輪など、仕事を終えた娼婦であることを示唆している。そう考えると、カッソーネを覗き込んでいる若い女性は娼婦の見習いであり、着物を持って立っている女性は元娼婦という見立てなのかもしれない。 またこの画は、結婚の二面性を表している。例えば、犬は忠実さとともに肉欲をも表している。ギンバイカも、結婚のシンボルであり、死のシンボルでもある。結婚する時に持参するカッソーネには一生着られるだけの衣裳が入っており、通常は男女一箱ずつであるが、この画の二箱のカッソーネは、同じ模様があるところから、いずれも女性のものであると考えられる。カッソーネの内側にはエロティックな画が描かれていることが少なくないことから、これを覗き込んでいる少女の行為は男女の世界を覗きこんでいるのであるとも考えられる。年長の女性とも合わせて考えれば、ここに登場する3人の女性のヴァニタス、すなわち三世代の寓意というイメージなのかもしれない。 ここでヴィーナスの花としてのバラに着目した論考があった。バラの「赤」がイエスの血であるという「聖書世界」とヴィーナスの血であるという「神話世界」の二つの世界を包含し、マリアとヴィーナスを結びつけ、「死と復活の概念」にからんでくるといったような内容だった。バラの花は五感のアレゴリーとして「嗅覚」と結びついて描かれるというところも面白かった。この論考は非常にシャープな発表で、内容的にも新鮮であり、外国から来た学者たちにとっても目から鱗だったのではなかろうか。 インターミッション: ここで、昼休みとなった。ここまで6人の話を聞いた。午後にはさらに5人の話が待っている。大分長くなったので、記事はここでやめて「その一」とする。ネルソン先生と話してみると、今回のシンポジウムの内容は本になるという。英語か日本語で出版されれば良いのだが・・・。 美術散歩 管理人 とら HP
by cardiacsurgery
| 2008-04-01 00:20
| ルネサンス
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