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東京国立近代美術館で開かれた靉光展については、かなり詳しい記事をホームページに載せたが、何か一つ釈然としないところが残っていた。また広島県立美術館を訪れた際には、靉光の出生地である広島で、8月から始まる「生誕100年靉光展」が心待ちにされていることを知った。そこで今日の放送を非常に興味深く聞いた。ゲストはお父さんが画家で靉光とも親交のあった俳優の寺田農さんと広島市立大学の大井建地教授。
靉光は満州事変の始まった1931年に、池袋モンパルナスで制作をはじめ、始めは《キリスト(黒)》にみられるようなルオーばりの画を描いたり、《キリスト(赤)》のようにロウ画の技法を使ったり、さらには《編物をする女》のように、デフォルメや異なるタッチを使いながら対象の奥底に迫ろうとしていた。しかし、さまざまな技法を試しても、描きたいものの核心に達することはできず、奥さんのキエさんの証言によると、「画が描けない」と部屋の隅で泣いていたという。 日中戦争が勃発した1937年に、東京で海外超現実作品展が開かれ、靉光はエルンストらのシュルールレアリスムを消化することによって新しい技法に達しようとした。上野動物園のライオンをモチーフとし、その存在に迫ろうとすれば、次第に対象が不気味な肉の塊となっていった。それでも靉光はこのライオンからなにかの手ごたえを得たようで、さらなる大作《眼のある風景》に取り組んでいった。これを描いた際には、2ヶ月間、誰とも会わず、雨戸を締め切った部屋で、対象を凝視し、その先にあるものを描こうとして苦しみ、葛藤した。この画では、動物の肉のようにも見える奇妙な物体の中で、一つの眼(あるいはいくつもの眼たち)が異様な光を放ち見る者を凝視してくる。はたしてこの眼は時代を睨み返すような強い意思の力を持ったものだったのだろうか。 1941年、太平洋戦争の勃発とともに発令された治安維持法によってシュールリアリスムの画家も弾圧がされるなか、靉光は小さな生き物をモチーフとして幻想絵画の世界を切り開こうとしていく。《花園》では炎に飲み込まれそうなアゲハチョウの目を赤く描き、《二重像》では背後の人物において作者の内面を表現せんとし、《静物(魚の頭)》ではメザシだけでなく、果物や野菜にも眼のようなものを描きこんでいる。一体、これらは何かのメッセージだったのだろうか。 友人の画家「末広一一」氏に対する手紙の中で、靉光は「現在、世界が食うか食われるかの大戦争となっています。一人ひとりが肉弾です。自分がお百姓さんの作ったものを労せずに食べていることは面目ない話です」と書いている。戦時下に画を描いていることの負い目が重くのしかかっていたのである。《静物(魚の頭)》について、「戦争画を描くのに多くは軍人や大砲を描く。しかしそれが蜂であってもいいじゃないか。自分は戦争の絵を描いているのだ」と語っていたという。しかし、靉光の幻想絵画をストレートに戦争画と認めることができるだろうか。この時代に彼の描いた幻想絵画には、靉光の深い迷いが現れていると考えるべきなのではなかろうか。 1943年の衝撃的な「アッツ島玉砕」に対し、軍部はこの玉砕を大々的に称えたが、靉光は「こんなことがあってなるものか。人間はそうめったに死ねない。わしは、生きている人間のことを描きたい」と話していたという。この点は、「アッツ島玉砕」の悲惨な状況を有名な画にしてしまった藤田嗣治とは180度異なっている。 靉光は「この際、神経質な近代病にならないように、がっちりと全裸の自然にぶつかっていきたい。一路邁進すれば、きっと先には光明があると思う」と語っていたともいう。そして1943年に三枚の《自画像》を描いたのである。最初の《帽子をかぶる自画像》では、時代に耐えて表情はゆがみ、眼を細めている。次の《梢のある自画像》では、眼を塗りつぶされた画家は、右側の揺れる梢と左側の動かない梢の間に身を挺して立っている。そして最後の《白衣の自画像》では、全身は壁のようにずっしりと立ち、その眼はまっすぐ前方を見つめている。通常の自画像と違い、鏡の中の自分自身を見ず、自分以外のなにものかをみつめている。おそらくそれは社会的な広がりを持つものだったのだろう。 最後の自画像を描いた直後に、靉光に召集令状がきた。その時に書いた兄への手紙の中で、彼は「わたしは絵筆を銃に変えてがんばります。ようやく戦時下の男になれそうです」と述べている。靉光は決して反戦主義者だったわけではない。ごく普通の青年が、迷いを抱きつつ、真正面に戦争に向かい合って、ボスやブリューゲルに連なる寓意性のある画を描いていたのである。皮肉な言い方をすれば、召集令状が靉光の悩みに終止符を打ったことになる。 靉光は、戦後帰国の途中、病を得て39歳で夭折した。召集令状は、彼の人生、彼の画歴にも終止符を打ってしまった。靉光の妹、立川コミサさんは今もご存命で、現在97歳であるが、「靉光は『死ななきゃ名前は出ん』と話していた」と証言されていた。事実、靉光の画業がみなおされるようになったのは、死後10年経ってからである。 「激動の時代に真摯に描かれた靉光の画は今もわたしたちに大きな問いをつきつけている」という言葉が新日曜美術館のまとめであった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2007-07-22 16:19
| 戦争画
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