記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
小磯良平の戦争画《娘子関を往く》の評価については、以前にホームページ①に書いた。また「娘子関の戦闘」についてもホームページ②に書いている。今回新日曜美術館で、画家と戦争シリーズの第1弾として小磯が取り上げられたので、興味を持って聞いた。
「戦争画が生んだ名作」という題名は、おそるべき明快な表現である。こういう題を付けると、戦争画の存在をはなから肯定してしまうことにもなる。「戦争を早く終結させ、ソ連の北海道占領を防ぐためには、原爆投下はやむをえなかった」という久間前防衛大臣の発言ときわめて類似している。すなわち「《斉唱》という名作を描けたのは、戦争画で画法を練り上げたからであり、戦争画を描いたことはその後の名作を描くためにはやむをえなかった」という発想につながる。 当の小磯良平は、自分の作品リストに戦争画を入れることを許さず、戦争画について話すことを極度に嫌っていたという。一方、ゲストのH市立美術館のY氏は、「今や戦争画に対する画家の感情を離れて、絵画自体について分析すべき時である」といった内容の発言をされていたが、この言葉には非常に違和感を覚えた。これは戦争に対する個々人の歴史観の問題であり、Y氏の発言は小磯画伯の心の中に土足で踏み込んでいる。この一方的な考え方に、公共放送であるNHKのアナウンサーが完全に同調していたことは遺憾である。 小磯は在仏中には、当時主流となっていたマチスやピカソには関心を寄せず、ルーブルで「日本人が学んでこなかった古典西洋絵画の研究」に励み、ヴェロネーゼの《カナの饗宴》にみられる群像表現に強く惹かれた。帰国2年後に描いた《練習場の踊り子たち》にはドガの影響が強く、自分でも「人まねでないもの」を描くことを強く望んでいたようである。 そこに起った日中戦争で、陸軍から戦争画を描くことを依頼された小磯は、これを近代的な群像表現を確立する好機ととらえ、4回も従軍して戦争画を描いたのである。次女嘉納邦子さんの記憶では、「小磯は自宅の庭に連れてきた馬と兵隊さんの服装をした人を描いていた」とのことであり、実際に描かれたのはほとんど兵士たちが休息している群像であったが、そのことをもって小磯の画が戦意高揚に役立っていなかったとはいえない。そのことについては以前に指摘したところである。 小磯が、戦後描いた《働く人びと》は、大工、漁師、農民、母親といった戦争から立ち上がる人々の群像であり、そこには小磯が望んでいた近代的群像画が完成されている。小磯のような才能のある画家は戦争画で練習しなくても、このような名画を描けたと思う。 小磯自身、「戦争画は明らかに戦意高揚を目的としたものであり、あれには心が痛む」として、画集にも載せなかったとの証言もあった。戦争という機会をとらえて自己の芸術的欲望を満たしたことを恥じていたのである。同じように戦争という機会を最大限に利用して、自己の芸術的欲望をみたすために《アッツ島玉砕》のような残酷な歴史画を描き、戦後はその行為に対して一切の反省をすることのなかった藤田嗣治とは対極の画家であると思う。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2007-07-18 21:55
| 戦争画
|
ファン申請 |
||