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1.はじめに
先週まで出光美術館で国宝「伴大納言絵巻」展が開かれていた。実にスペクタキュラーな絵巻物である。この絵巻のあちこちに散らばっている「暗号(コード)」に着目すると、真犯人はだれか?事件の真相は?絵巻は改ざんされていないか?などについての疑問が浮かんでくる。 そこで展覧会から帰って早速に自分の推理をホームページに書いてみた。タイトルは「応天門コード」とした。これに対して、何人かの方からブログに感想を頂いた。おおむね好意的なレスポンスだったが、自身自身では何か中途半端であると感じていた。そこで少し史実を調べて、自分の考えを整理して、昨日ホームページに追加記事を載せた。 以下は、これらをまとめた「応天門コード」(追補版)である。ご批判をいただければ幸いです。 2.伴大納言は単独犯だったのか? 応天門に放火し、左大臣(源信)に罪を着せることによって昇進する可能性のある人物が第一被疑者となるが、これには右大臣(藤原良相)と大納言(伴善男)が相当する。 このうち大納言は現場にいたことがはっきりしているから、実行犯であることには疑いを入れない。右大臣は現場にいなかったとしても、親友だった大納言と共謀していたという可能性がある。伴大納言としては事が露見したのであるからもはや逃れるすべはないが、右大臣は、大納言と共謀していたとすれば本当に焦ったに違いない。そこで兄の太政大臣に相談した可能性もでてくるが、これはなんともいえない。 太政大臣(藤原良房)は、左大臣の冤罪を晴らしているのだから、少なくともこの段階では事件に加担していたとは思えない。ただ太政大臣としては、「動機」を有する右大臣または大納言、あるいはその両者が犯人なのではないかと疑っていたとしてもおかしくない。 一方、左大臣が自発的に官職を辞しているという事実がある。これは犯人たちが狙ったところであるが、結果としては二人とも昇進していない。太政大臣が、二人が共犯であることを感づいていれば当然であろう。 3.太政大臣の果たした役割は? 源氏が消え、伴氏が政治生命を絶たれても、弟が犯罪に関与していれば藤原氏も安泰とはいえない。ここで太政大臣が舞台廻しとなったのではなかろうか。大納言に対して、「もし右大臣の関与を口外しなければ死一等を免じて流罪する」との取引をした可能性がある。 さらに右大臣と流された大納言があいついでこの世を去っているという事実があるが、このことにも太政大臣が関与していたかもしれない。このようにして太政大臣の藤原良房が他氏を排除し、さらに藤原北家の中心的存在となり、最後に人臣初の摂政の地位に昇りつめたものであると考えても良いのではなかろうか。 4.現存する伴大納言絵巻のメッセージ 絵巻には大納言逮捕の場面が描かれておらず、最後が「大納言が如何に悔しかったであろうか」との言葉で結ばれていることから、作者が伴氏に対して同情的であったことは確かであろう。 さらに絵巻の一部には不自然な紙継ぎがあり、そこにあるべき詞書が欠落している。作者はこの部分にこの物語の登場人物四名の役割に関する重要なメッセージを残していた可能性がある。そしてそれが藤原氏にとって不都合な内容だったため切り取られたと考えて見たい。上巻の最初の部分の詞書の欠落もこれと合わせるために切り取ったと考えても不自然ではない。 5.伴大納言絵巻と宇治拾遺物語との関係 今回の展覧会の図録「国宝 伴大納言絵巻」によると、この絵巻は後白河法皇(1127-1192)の宮廷絵師であった常盤光長(生没年不明)が描き、詞書は藤原教長(1109-1180)が書いたという。したがってこの絵巻は平安末期の12世紀に作られたたものであると考えられる。そのストーリーは「宇治拾遺物語」巻第十、第一話の「伴大納言、応天門を焼くこと」と対応していることは良く知られた事実である。しかし宇治拾遺物語は鎌倉時代初期、具体的には1213-1221年ごろに成立したものとされている。 すなわち時代的には絵巻のほうが物語より古いのであるから、「絵巻は物語を読んで描かれた」との説は否定される。伴大納言絵巻のほうが伝承されていたストーリーに基づいて作られ、むしろ宇治拾遺物語は完成された伴大納言絵巻のシナリオに影響された可能性もあるといえる。 6.絵巻の一部を修正させたのはだれか? 以上をまとめると、伴大納言絵巻は平安末期まで伝承されていた「藤原良房黒幕説」に基づいて光長・教長によって作られたものであり、その絵巻には作成過程で一部切り取りなどの修正が加えられたという仮説が浮かんでくる。 これを命じることのできた人物としては、時の最高権力者である後白河法皇以外には考えられない。後白河法皇は、その母、待賢文院璋子が藤原公実の娘であったため、このような藤原氏の名誉を守る行為に及んだのかもしれない。 権謀術数を得意とする後白河法皇にとっては、絵巻物の一部を修正することなどいとも簡単なことであったと思われる。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2006-11-08 19:33
| 国内アート
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