「ザ・プロファイラー」は、2012年からBSプレミアムで放送されているドキュメンタリー番組であり、古代から現代まで、海外および日本の歴史に名を残した人物に焦点をあて、その人物にかかわる文献や映像資料をもとに、歴史好きの岡田准一が、ゲストのトークを交えて鋭い切り口で人物像に迫っていく番組です。
生まれの不遇、家族との愛と葛藤、裏切りと孤独、将来の不安など、さまざまな人生の始まりから、どのようにして自分の道を切り開き、歴史に名を刻んでいったのかを、時代を動かした人物たちの謎に挑む。「ザ・プロファイラー」は、栄光と苦難の生涯を生きた先人たちの感動の人間ドラマです。
今回のザ・プロファイラーは、「玄奘三蔵 史上最強の僧侶」~夢と野望の人生。
【放送時間】12月19日(水) 午後6時00分
玄奘三蔵
▽「西遊記」でおなじみの三蔵法師を、岡田准一がプロファイル!。ちなみに「プロファイル」とは、輪郭、横顔、分析結果、略歴などの意味を持つ英単語。
▽その実像は世界一タフな僧侶だった!唐から天竺へ往復6万キロの旅をし、未知の経典を持ち帰った玄奘三蔵(602 - 664年)。前人未到の旅を実現した秘密は、シルクロードの砂漠を乗り越える体力と、さまざまな言語を習得し、現地の王や学者を魅了する頭脳だった。
▽さらに唐の皇帝をも取り込み、経典の翻訳をはじめ都に仏教の一大拠点を作り上げた玄奘。彼は最後に何を目指したのか?
【司会】
岡田准一

【ゲスト】
中嶋朋子

夢枕獏

はあちゅう

Ⅰ.玄奘三蔵の真実の姿
PROFILE テーマ1:なぜ砂漠を一人で旅をしたのか?
建国以来いまだ間がなかった当時の唐では、国外旅行は禁止されていた。そこで、天竺を目指す玄奘は秘密裏に砂漠の一人旅を敢行するしかなかった。

602年、玄奘三蔵誕生。

玄奘三蔵、13歳で僧侶になる。

具法のために各地を渡り歩いていた玄奘三蔵は、624年、長安にやってきた。その時、玄奘22歳。

玄奘三蔵の失望の日々。彼なぜ砂漠を一人で旅したのか。そのKEYWORDは当時の「
唯識論」である。

玄奘三蔵は、なぜ砂漠を一人で旅したのか。天竺から来た高僧「
プラバーカラミトラ」の影響があったのだろう。

道教の老子の影響も受けている。

唐は、隋の部将だった李淵(初代皇帝・高祖:618~626在位)が首都大興城(長安)を占領して建国した王朝であるが、建国間もない当時の唐では、国外に出ることを禁止していた。
その子李世民は太宗(在位626~649)として周辺民族を服属して天下統一を完成させ、貞観の治(627~649)という充実した政治を繁栄させた。26歳の玄奘三蔵が、長安から唐を密出国したのは、628年の太宗の世であった。一方、玄奘三蔵が長安と連絡し合ったのは、世宗である。
642年、玄奘は唐への帰路に就いた。この時、玄奘40歳。太宗の子・高宗(在位649~683)はさらに領土拡大を狙って高句麗などを滅ぼし、領土最大となった。
Ⅱ. 玄奘三蔵、天竺を目指し出発
628年。26歳の玄奘三蔵は、長安から唐を密出国した。

なぜ 玄奘三蔵、唐を「密出国」し、砂漠を一人で旅したのだろうか。

旅姿の玄奘三蔵。

玄奘三蔵の通った道(往路):長安 → 涼州 → 瓜州 → 伊吾 → 高昌国(旅費などの寄進) → 庫車(クチャ) → 天山山脈を越える → 天山北路 → 西突厥(統葉護可汗に会う) → アフガニスタン → 北インド → 中インドのマガダ国ナーランダ寺。
まずは「爪州」へ。

そこで「次の目的地である伊吾(ハミ)まで、国境の砂漠を30回も往復したという老人」と出会った。

「もし砂嵐にあえば助かる人は居ません」とのこと。

「どうしても行かれるなら、この馬に乗って行きなさい」

「この馬はこれまで砂漠を15往復もしています」

なぜ砂漠を一人で旅したのか?「やせた赤馬に乗って」

「瓜州」から先の「タクマラン砂漠」は、死の砂漠地帯である。

玄奘曰く:私は、天竺を目指し、一歩も東には戻るまいと誓いを立てた。

例の馬が玄奘を水場に案内し、玄奘は九死に一生を得た。

玄奘は天竺を目指して、東西1500キロの「タクマラカン砂漠」を越えた。

最高地表温度は、「火炎山」の70℃。

招待を受けて迂回ルートへ。

高昌国(トルファン)へ
Ⅲ.高昌国王の役割三蔵が、仏教の中心地でトップになることができたのは、高昌国王がPERSON(人物)として並々ならぬ役割を果たしたからだった。

高昌国王は、「天竺に行かずに、この地に留まって欲しい」と頼んだ。

これに対し、玄奘は「旅をやめることは出来ない」と答えた。

私は高昌国の国王だ。あなたを引き止めることも出来る。

前述したように、三蔵が、仏教の中心地でトップになることができたのは、この高昌国王がPERSON(人物)として立派な役割を果たしたからだった。


高昌国王は、玄奘と兄弟の契りを結び、他国の国王に「弟の玄奘を保護して欲しい」との手紙を何枚も書いた。

高昌国のトルファンから、タクマラカン砂漠を越えて、「サマルカンド」に向かったのは、玄奘以下、総勢30名だった。


当時、西域には、「ゾロアスター教」を信じる「ソグト人」が住んでいた。ソグド人は、中央アジアで東西交易に従事したイラン系民族である。サマルカンドを中心に、匈奴や突厥の保護の下、東西交易に活躍していたが、唐代には長安でも活動し、ゾロアスター教・マニ教を中国に伝えた。7~8世紀には中国の唐の勢力が西域に及び、その保護のもとで東西交易に活躍し、唐の都長安には多数のソグド人商人が住んでいたことが知られている。

彼らによって中央アジアから中国にかけて、イラン人の宗教であるゾロアスター教やマニ教、また彼らの文字であるソグド文字などのイラン文化が広まった。
言語としては、ソグト語の他に、コータン語、ㇳカラ語、パミール語、イラン語も使われていたが、三蔵はたちまちこれらをマスターするという稀な能力を発揮した。このことはこれらの言語を使う民族との融和に役立った。

三蔵らの一行はヒマラヤ山脈を迂回して、「天竺のナーランダ―」に到着した。
Ⅳ.玄奘、ナーランダ―でトップになる。三蔵が仏教中心地のナーランダ―でトップになることができたのは、「シーラバドラ」という人物に負うところが大であった。

玄奘は、仏教の最高峰である「ナーランダ―大学」で講義を行った。

その結果、玄奘三蔵は、ナーランダ―大学で10指に数えられる高僧となった。

玄奘三蔵には、6000人の論客を論破する機会があった。

三蔵法師は、ほかの宗派との論争では、相手をことごとく論破した。

このようにして、三蔵法師は「ほかの宗派の慢心を打ち砕いていただきたい」と要望されるまでになった。

「6000人の大討論会」への「仏教各宗派の僧侶」の参加者数は3000人。

「バラモン教その他の宗教」からは2000人。

「ナーランダ―」からは1000人の僧侶が参加した。

玄奘は、この「6000人の弁論大会」で優勝したため、仏教の中心地でトップになることができたのである。

PROFILE #002 なぜ、仏教の中心地でトップになれたのか。

岡田准一:弁論大会の最初に「命を捧げる」という高いプレゼン能力を発揮したから。

はあちゅー:相当準備して、相手の反応を読みながらプレゼンテーションをしたから。

夢枕獏:本当に尊敬できれば素直に負けを認められる。それほど玄奘の人間力が強かった。

岡田准一:論破だけではない真理を見つけていたので、人の上に立てた。
Ⅴ.唐へ経典を持ち帰る。
玄奘三蔵が通った道(帰路):ヒンドゥークシュ山脈 → パミール高原 → 和田(ホータン) → 天山南路(南道) → 長安。
642年、玄奘は唐への帰路に就いた。この時、玄奘40歳、唐の皇帝は太宗。太宗は玄奘を支援して経典の漢訳を行わせている。

にわか雨によるインダス川の増水のために、一隻の川船が転覆し、玄奘一行は唐へ持ち帰る経典のうち一駄(だ)50巻を失ってしまった。

その際、玄奘はナーランダ―には戻らず、50日間滞在して、近隣の寺院から集めた同一の経典を模写した。

盗賊の多い地域を通過する際には、用心のため、玄奘は、若い僧を先に行かせることとした。

644年、一行は「ホータン」到着。玄奘42歳。

玄奘は、唐の皇帝・太宗に手紙を書いた。

唐の皇帝・太宗への玄奘の手紙:これまで唐で教わった経典には欠けている部分が多く、それを得るために国外へ出ました。

太宗皇帝への手紙:それらの経典を模写して、唐に帰参しました。

太宗皇帝からの書状: 法師は遠く西域を歴訪し、いま帰還されたとのこと。

太宗皇帝からの書状: 速やかに戻って朕と会見せよ。
Ⅵ.長安への帰還。
長安への帰還は645年。その時、玄奘は43歳になっていた。
ハルシャ王の使節(↓):西域旅行中の三蔵玄奘と知己を得ていたハルシャ王は、晩年には唐の太宗との間に使節を交換した。ヴァルダナ朝からの修好使節は641年に唐の朝廷に派遣されている。

玄奘にとっては、往復6万キロの旅であった。

帰国後、玄奘は経典の翻訳を成し遂げている。前代未聞の業績であるが、これは玄奘の無断出国を許した皇帝との取り引きだった可能性がある。

その理由としては、「大唐西域記」を執筆した弟子の弁機の問題が絡んでいた可能性もある。

玄奘が記したとされている「
大唐西域記」である。

(↓)は、684年に完訳した「唯識論」である。その時玄奘46歳。

これらに対し、皇帝は序文を書くという言質を与えていたのかもしれない。

玄奘が、自分の弟子であり、大唐西域記の文章を実際に書いた弁機を見殺しにする積りだったのかもしれない。

完成文から一部が意図的に削除されていることにも留意すべきなのかもしれない。

中島朋子曰く:経典の翻訳に命をかけた玄奘の強い思いを聞きたかった。
美術散歩 管理人 とら