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英雄たちの選択「右大臣吉備真備 左遷からカムバックした男」
放送時間:12月13日(木曜)午後8時00分~ 午後9時00分 【番宣】 奈良時代、度重なる左遷にめげず、しまいには、右大臣まで出世した人物がいる。吉備真備(きびのまきび)(↓)である。 ![]() 今年、西日本豪雨で被害を受けた岡山県の「真備町」。ここが、吉備真備ゆかりの地。 真備は、唐の名人の碁石を一つ飲み込んで勝ってしまった(「吉備大臣入唐絵巻」第六段目右↓)。 ![]() ところが、真備の前に立ちはだかったのが、藤原一族の俊才・藤原仲麻呂である。仲麻呂は、真備を九州の筑前そして肥前へと左遷を命じた。 真備は、いったい、なぜ度重なる左遷にめげず、右大臣に上り詰めることができたのか。その真相に迫る。 【司会者】磯田道史、杉浦友紀 ![]() 【出演者】 歴史学者・倉本一宏 ![]() ![]() ![]() ・左遷からカムバックした男 ![]() ![]() 吉備真備の功績と中国への感謝の気持ちを後世に伝えるため、真備の出身地である岡山で、吉備真備記念碑建実行委員会が設立され、陝西省、西安市の協力を得て、かつて真備が長安で学んだ国士監(大学)の跡地(環城公園内)に「吉備真備記念碑園」が建設された。 ![]() 吉備真備は奈良時代に遣唐留学生に選ばれ、阿倍仲麻呂らと共に、唐の都長安に赴いた。19年間の長い間、中国で政治、経済、法律、天文、数学、暦、兵学、音楽、儒学、歴史などを学んで帰国。囲碁や琴も伝えたといわれ、又カタカナの発明したともいわれている。 【続日本紀】 ![]() 【吉備大臣入唐絵巻】 「吉備大臣入唐絵巻」第六段目。真備は、名人の碁石を一つ飲み込んで勝利してしまった(図左↓、図中央↓、図右↓)。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 石室全長は19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。昭和58年の確認調査で周溝が検出され、直径54m、高さ7mの円墳であることが判明した。6世紀後半の築造と考えられている。 吉備真備の出身地は「下道郡」で、若い頃は「下道真備(しもつみちの まきび)」と称していた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 吉備真備は、帰国後聖武天皇のブレーンになった。 ![]() ![]() ![]() ![]() 天平12年(740年)8月に、藤原広嗣は天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である「右衛士督・吉備真備」と「僧正・玄昉」に起因するため、二人を追放すべきとの「上奏文」を朝廷に送ったが、時の権力者「右大臣・橘諸兄」はこれを謀反と受け取った。 藤原広嗣の上奏文(部分)↓:下道真備などという度量の小さい田舎者は、国を転覆しかねない。早く朝廷から取り除くべきだ。 ![]() 聖武天皇はこれに対して藤原広嗣の召喚の詔勅を出したが、藤原広嗣は勅に従わず、9月に入ると弟・綱手と共に大宰府の手勢や隼人等を加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした(藤原広嗣の乱ー天平12年(740))。 ![]() 【藤原仲麻呂の策略】 ![]() 天平12年(740)、聖武天皇が平城京を離れた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 今宵の「英雄たちの選択」の「その一」は「任務を果たさず引退」であり、「その二」は「大宰府で任務を果たす」である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「続日本紀」には、「新羅から九州を守る防人は、武芸を習わせるだけでなく、城を築く仕事に就かせるべきだ」と記されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 天平宝宇8年(764) 真備70歳 孝謙太政大臣が真備を「造東大寺長官に任命」。 ![]() ![]() ![]() ![]() 天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、翌4月、ひそかに孝謙天皇に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた「大炊王」を皇太子に立てることに成功した。 天平宝字2年(758年)8月、大炊王が「淳仁天皇」に即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられた。天平宝字4年(760年)1月には、ついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめたのである。 押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明天皇が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめた。 さらに、孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、恵美押勝は、淳仁天皇を通じて孝謙太上天皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これがかえって孝謙太上天皇を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙太上天皇は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言した。 孝謙太上天皇の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に淳仁天皇と恵美押勝を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には、道鏡を少僧都に任じている。 焦燥を深めた恵美押勝は、軍事力により孝謙太上天皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。 諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、恵美押勝は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。 恵美押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき恵美押勝は太政官印の確保に成功している。 9月5日には、安倍仲麻呂は「船親王」と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また「池田親王」はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。 しかし、兵を集めるよう指示された高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙太上天皇に動員計画を密告した。平素恵美勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も恵美押勝の叛乱を知り、その旨を密告した。また和気王からも反乱計画が伝えられた。 9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙 藤原仲麻呂は、叔母の「光明皇后」の信任を得て、大納言・紫微令・中衛大将に任じられるなど次第に台頭し、「孝謙天皇」が即位すると、孝謙と光明の権威を背景に事実上の最高権力者となった。 天平勝宝9年(757年)3月、当時皇太子だった道祖王を廃位に追い込み、翌4月、ひそかに孝謙天皇に勧めて、息子真従の未亡人粟田諸姉と結婚して仲麻呂の私邸に居住していた「大炊王」を皇太子に立てることに成功した。 天平宝字2年(758年)8月、大炊王が「淳仁天皇」に即位すると、大保(右大臣)に任ぜられ、恵美押勝(藤原恵美朝臣押勝)の姓名を与えられた。天平宝字4年(760年)1月には、ついに人臣として史上初の太師(太政大臣)にまで登りつめたのである。 押勝は子弟や縁戚を次々に昇進させ要職に就けて勢力を扶植していったが、同年6月に光明天皇が死去したことで、その権勢はかげりを見せはじめた。 さらに、孝謙太上天皇が自分の病気を祈禱によって癒した道鏡を信任しはじめたことで、恵美押勝は、淳仁天皇を通じて孝謙太上天皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これがかえって孝謙太上天皇を激怒させた。天平宝字6年(762年)6月、孝謙太上天皇は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言した。 孝謙太上天皇の道鏡への信任はしだいに深まり、逆に「淳仁天皇」と「恵美押勝」を抑圧するようになった。天平宝字7年(763年)9月には、道鏡を少僧都に任じている。 焦燥を深めた恵美押勝は、軍事力により孝謙太上天皇と道鏡に対抗しようとし、天平宝字8年(764年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」に任じられた。 諸国の兵20人を都に集めて訓練する規定になっていたが、恵美押勝は600人の兵を動員するよう大外記高丘比良麻呂に命じた。 恵美押勝は都に兵力を集めて軍事力で政権を奪取しようと意図していた。このとき恵美押勝は太政官印の確保に成功している。 9月5日には、安倍仲麻呂は「船親王」と謀議し、朝廷の咎を訴えようと図った。また「池田親王」はすでに夏頃より兵馬を集結していた。両親王ともに、仲麻呂が擁立した淳仁天皇の兄弟であった。 しかし、兵を集めるよう指示された高丘比良麻呂は後難を恐れて、孝謙太上天皇に動員計画を密告した。平素恵美勝に信頼されていた陰陽師の大津大浦も恵美押勝の叛乱を知り、その旨を密告した。また和気王からも反乱計画が伝えられた。 9月11日、重なる密告通知をうけた孝謙太上天皇は少納言山村王を淳仁のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印(御璽と駅鈴)を回収させた。 これを知った恵美押勝は子息訓儒麻呂に山村王の帰路を襲撃させて、鈴印を奪回した。 孝謙太上天皇はただちに授刀少尉坂上苅田麻呂と授刀将曹牡鹿嶋足を派遣して、訓儒麻呂を射殺した。 恵美押勝はこれに対抗して中衛将監矢田部老を送ったが、彼も授刀舎人紀船守に射殺された。 孝謙太上天皇は勅して、恵美押勝一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪・全財産の没収を宣言した。 さらに三関の固関を行わせている。 その夜、安倍仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、宇治へ入り、仲麻呂が長年国司を務め、彼の地盤となっていた近江国の国衙を目指した。 安倍仲麻呂軍と孝謙太上天皇軍は「勢多橋」で激突予定だった。 ![]() ![]() ![]() 「吉備真備」は「安倍仲麻呂」のため久しく逆境にあった人物で、この年正月には70歳になっていたが、在唐中に取得した軍学の知識を買われていた。 安倍仲麻呂の行動を予測した「吉備真備」は、山背守日下部子麻呂と衛門少尉佐伯伊多智の率いる官軍を先回りさせて勢多橋を焼いて、東山道への進路を塞いだ。 安倍仲麻呂はやむなく子息辛加知が国司になっている越前国に入り再起をはかろうとし、琵琶湖の湖西を越前に向い北進した。 淳仁天皇を連れ出せなかった安倍仲麻呂は、自派の元皇族中納言「氷上塩焼」(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の息子たちには親王の位階である三品を与えた。 また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。ここに、2つの朝廷が並立したことになる。 孝謙太上天皇側は、安倍仲麻呂を討ち取った者に厚い恩賞を約束するとともに、北陸道諸国には、太政官印のある文書を信用しないように通達した。 官軍の佐伯伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り、授刀舎人物部広成らに愛発関(近江と越前の国境の関所)を固めさせた。 安倍仲麻呂軍の先発隊精兵数十人は愛発関で敗れた。 辛加知の死を知らない安倍仲麻呂は愛発関を避け、舟で琵琶湖東岸に渡り越前に入ろうとするが、逆風で舟が難破しそうになり断念して、塩津に上陸し陸路、愛発関の突破をはかったが、佐伯伊多智が防戦して、安倍仲麻呂軍を撃退した。 ![]() 安倍仲麻呂軍は退却して三尾(近江国高島郡)の古城に籠もった。孝謙太上天皇側の討伐軍は三尾を攻めたが、安倍仲麻呂軍は必死で応戦した。 9月18日、孝謙太上天皇側の討伐軍に討賊将軍に任ぜられた備前守・藤原蔵下麻呂の援軍が到着して、海陸から激しく攻めたので、ついに安倍仲麻呂軍は敗れた。 安倍仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、軍士石村石楯に斬られ、安倍仲麻呂一家も皆殺しにされた。 天平宝宇8年(764)9月18日、藤原仲麻呂 死去。 ![]() ![]() ![]()
by cardiacsurgery
| 2018-12-14 20:59
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