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東博の仏像展とデュシャン展 @ぶらぶら美術・博物館2018/11/6
大報恩寺の歴史と寺宝-大報恩寺と北野経王堂 このほかにも大報恩寺には、今は失われてしまった北野経王堂ゆかりの名宝も数多くのこされている。北野経王堂は足利義満によって建てられた仏堂で、室町将軍家があつい信仰を寄せた。五千帖を超す「北野経王堂一切経」や「傅大士坐像および二童子立像」は、北野社境内に位置し、経王堂管理下にあった輪蔵ゆかりの品。こうした大報恩寺に伝来する数々の名宝を通して、この地で積み重ねられてきた歴史をうかがい知ることができる。 ここでは、大報恩寺とともに、大報恩寺がその運営に密接に関与した北野経王堂の歴史を紐解く。 重要文化財 北野経王堂一切経 室町時代・応永19年(1412) 京都・大報恩寺蔵 重要文化財 傅大士坐像および二童子立像 院隆作 室町時代・応永25年(1418) 京都・大報恩寺蔵 聖地の創出―釈迦信仰の隆盛 大報恩寺が建立された13世紀の前半は、人びとに仏の教えが届かず、仏法を実践する者すらいなくなる末法の世を強く実感させる時代だった。12世紀末より全国規模で起こった源氏と平氏の内乱、たび重なる大規模災害、なにより戦乱のさなかに東大寺の大仏が焼け崩れてしまったことは、仏法の破滅とそれと連動する王権の衰微を強く印象づけた。こうした時代背景のもと、仏教の教主である釈迦の教えに立ち返ろうとする動きが強くなり、釈迦信仰が隆盛となった。 天台僧の義空(1172~1241)は、釈迦は永久にこの世に存在し法を説くという『法華経』の教えにもとづいて、大報恩寺を創建した。快慶作の十大弟子立像と、快慶の弟子、行快作の釈迦如来坐像が、今も本寺に伝わっている。本堂の上棟当時は、文殊菩薩・弥菩薩像も安置されていた。これらの尊像構成は、『法華経』での釈迦如来の説法を意図したものだと考えられる。 義空は、この世に常住して説法する釈迦を造ることによって、末法の世を生きる人びとを救う場を生み出したのだった。 重要文化財 釈迦如来坐像 行快作 鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵 十大弟子は「快慶」自身が彫ったものとされている。 本堂の棟木(安貞元年・1227)に残された義空の願文によれば、「等身釈迦如来、弥勒、文殊、十大弟子形像」として安置されたようである。 本展では、寺外初公開の秘仏「釈迦如来坐像」と快慶晩年の名品「十大弟子立像」を、特別に同じ空間で展示している。 本展では、釈迦とその10人の弟子を、当初の本堂での安置状況を考慮して、特別に同じ空間に配置している。 大報恩寺には、運慶一門の慶派仏師、「定慶」作の六観音菩薩像が伝来している。 「六観音」とは、聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准胝観音(または不空羂索観音)・如意輪観音の総称で、地獄道や餓鬼道をはじめとする「六道」から人びとを救う仏として、平安時代以降に非常にに流行した。本像は、中世に遡る六観音で、しかも光背、台座までも完存する唯一の作例である。 本像は、准胝観音の像内墨書銘によって、貞応三年(1224)に、定慶が造ったことが分かる。 「運慶」の長男である「湛慶」より十歳ほど若い「定慶」は、運慶次世代の実力派仏師の一人だった。 定慶は、運慶の作風をよく学び、仏像の体躯を破綻なくまとめあげる、相当な力量をもっていたが、そればかりではなく、結い上げた髪の毛の柔らかな質感や束ねた髪束の毛先の複雑な動きの描写、空気をはらむ衣の描写や翻転する衣文表現など、細部にも目を見張る彫技を見せている。 本像がもつなまなましい実在感は、末法の世に生きる当時の人びとが、仏に切実に求めたものだったのかもしれない。 重要文化財 六観音菩薩像 肥後定慶作 鎌倉時代・貞応3年(1224) 京都・大報恩寺蔵 貞応3年(1224)、「運慶」一門の仏師、「肥後定慶」が主導して造った像。 像内に定慶自筆の銘があった准胝観音に、髪束のふくらみや毛先の動きのもつ独特の質感描写や、衣がはらむ空気感を感じさせる衣文表現など、定慶の表現の特徴がよくうかがえる。 地蔵菩薩立像 鎌倉時代・13世紀 京都・大報恩寺蔵 大報恩寺とは本堂(国宝)外観 1220年に義空上人によって開創された真言宗智山派の寺院で、「千本釈迦堂」の名で知られている。その名前の由来は、本堂の行快作の本尊「釈迦如来坐像」(重要文化財)が古来より厚く信仰されていること、近くに南北に走る千本通があることなど、諸説がある。 年中行事も盛んで、2月の「おかめ福節分」、春の境内のしだれ桜、12月の大根炊きなど、京の四季を彩る寺院として、地元だけでなく多くの観光客にも親しまれている。「おかめ発祥の地」ともいわれており、縁結び、夫婦円満、子授けにご利益があると言われている。 ちなみに「おかめ伝説」は次の通り。大報恩寺の本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻の「おかめ」が斗組を用いたらどうかとひとことアドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかし「おかめ」は女の提案で亭主が大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、「おかめ」の名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福「おかめ信仰」につながっている。 快慶作を見分けるコツ。 快慶作では、耳介または耳殻(皮膚と軟骨より形成される扇状構造物)の上脚と下脚が、対耳輪より前方へ屈曲している。 第 1 部 マルセル・デュシャン没後50年記念 「デュシャン 人と作品」 「現代美術の父」と称されるマルセル・デュシャン(1887-1968)の作品および関連文献資料、写真などにより、デュシャンの人生と60年以上にわたる芸術活動を時系列でたどる。 展覧会を通して語られるのは、彼の人生そのもの。フランスおよび米国での彼の生涯においてカギとなる場面や重要な活動、また人間関係を概観、彼の作品や現代美術における重要性を紹介するとともに、彼の多様な人となり、さらに、芸術と生活の垣根をなくそうとするさまざまな試みを紹介している。 展示作品は、1912年ニューヨークで発表、デュシャンを一躍有名にした《階段を降りる裸体 No. 2》をはじめとする絵画、便器を「アート」にした《泉》を含むレディメイド、映像、写真や、豊富な関連の文献・写真資料など、フィラデルフィア美術館が誇る世界有数のデュシャン・コレクションが一堂に会する。 生涯を通じてデュシャンは「決して繰り返さない」「同じことをしない」よう、常に新しい表現方法を模索し続けた。一方、その根底に流れるコンセプトや表現モチーフは一貫している。このある種の矛盾と、それぞれの時期の彼の制作物・行為がつながっていることを、作品と資料で明らかにしてゆく。 第 1 章 画家としてのデュシャン 1902年に絵画制作を始めた後、デュシャンは印象主義から象徴主義、そしてフォヴィスムにいたるまで、さまざまな前衛的な様式に実験的に取り組んだ。 この章では、通常の「絵画」制作を止めたデュシャンがその後どのように進んだか、1912年から1917年までの活動をたどる。この時期デュシャンは、伝統的に理解されていた絵画の枠を押し広げ、そこから飛び出した。彼の最も重要な傑作の一つ、《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称《大ガラス》)(1915-23)を構想したのはこの時期で、その制作に取り掛かったのは、彼がニューヨークへ移住した後である。 また、いわゆる「レディメイド」*と呼ばれる一連の作品の制作をはじめたのもこの時期だった。「レディメイド」は、ある機能をもった物品を本来の日常的な用途から切り離し、「作る」という概念に相対するものとして、「芸術作品」として「意味づける」ことである。 *レディメイドデュシャンは1913年以来12のレディメイド作品を制作しているが、フィラデルフィア美術館はそのうち6点を所有している。 今回は、その中から《自転車の車輪》、《瓶乾燥器》、《泉》↓の3点が出品される。 泉 マルセル・デュシャン 1950年(レプリカ) 1917年(オリジナル)。 自転車の車輪マルセル・デュシャン1913/1964 Philadelphia Museum of Art. Gift of Galleria Schwarz, 1964-175-1 1913年 自転車の車輪 マルセル・デュシャン 1964年(レプリカ/オリジナル1913年) このセクションでは、1920年代および1930年代のパリ滞在、そして第二次世界大戦中に亡命者として過ごしたニューヨークでのデュシャンを取り上げる。 1921年、彼は職業を芸術からチェスへ転換しようといい始め、プロのチェス・プレイヤーであるかのようにチェスへと没頭した。 また、1920年代には自らの分身として「ローズ・セラヴィ」と名付けた女性に扮し、この人格のもと、ダジャレや語呂遊びなどの言葉の実験を試み、新たな制作に取り組んだ。 また、遠近法や視覚に関する長期間の研究の蓄積に基づいた、機械的な仕掛けに取り組んだのもこの時期である。 一方、デュシャンは、ニューヨークでの反芸術活動「ダダ」と活発に交流していた。こうした活動・交流は、フィラデルフィア生まれの写真家で、デュシャンがたびたび共作した、「ダダ」の中心人物の一人であるマン・レイ(1890 -1976)の協力を得て1926年に制作した前衛的な短編映画『アネミック・シネマ』に結実する。 作品(TABLEAU DADA MARCEL DECHAMP)は、「L.H.O.O.Q.」(1919年)である↓。 これは 「モナ・リザ」に、ひげを書き加えた作品で、デュシャンの作品の中では、もっとも有名なものの一つである。 マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの、または、による(トランクの中の箱)1935-1941, 1963-1965 (中身); Series F, 1966 edition Philadelphia Museum of Art: Gift of Anne d'Harnoncourt, 1994 第 2 部 「デュシャンの向こうに日本がみえる」 第 1 章 400年前のレディメイド 「竹一重切花入」は、千利休が天正18年の小田原攻めに同道し、伊豆韮山の竹をもって作った3作の内の1作。真竹の二節を残し,一重の切れ込みを入れた簡潔な作であり,以後,竹花入の流行を生む最初期の古典として名高い。園城寺の銘は子息の千少庵が名付けたもので,表面の干割れを「園城寺の破れ鐘」にちなんだもの。 利休は陶工など職人が精巧に作った器や花器ではなく、傍らにあった竹を花入に用いて絶大な価値を持たせた。これは、究極の日常品(レディメイド)である。 日本の絵巻物は、独自の発展をとげた。特に「異時同図」という描写方法は、同じ風景や建物のなかに、同一人物が何度も登場して、時間や物語の経過をあらわす。絵巻物をひも解き、開きながら絵を鑑賞することで、絵巻を見る人は、登場人物たちが生き生きと動き出すように感じるのである。絵巻物は、まさにアニメーションの祖先ともいえる。 国宝 平治物語絵巻 六波羅行幸巻(部分)国宝 平治物語絵巻 六波羅行幸巻(部分) 鎌倉時代・13世紀 東京国立博館 作者が独自に考え抜いて作り上げた、世界に唯一無二の「一点」にこそ、芸術としての価値があるものと考えられている。 しかし近世以前の日本では前例に則り、まさに「模倣」が当然のように行われていた。400年の歴史を誇り、日本の画壇に君臨した狩野派の絵師たちは、連綿と描き続けられた手本をもとに多くの絵画を制作していた。 龍図 俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 東洋において書は、造形の最上位に置かれたのですが、日本では絵画や諸工芸とも密接に関わりました。 能書家の光悦は、自らの書を俵屋宗達など一流の絵師に下絵を描かせ、その上に文字を書いた。その文字の形は、字の示す意味だけでなく、文字そのものの形と配置が美と直結したものだった。 桜山吹図屛風 書=伝本阿弥光悦筆、画=俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵[展示期間:2018年10月2日(火)~28日(日)] 古来、日本の絵画は、記号化された形象によって事物を表現していた。つまり視覚的なリアリズムが、ほとんど求められていなかったが、江戸時代の浮世絵師・写楽は伝統的な絵の描き方を学ばなかったため、女形を演じる役者を男として描くなど、歌舞伎役者を見たままに描こう(リアリズム)として非難されたのだった。 重要文化財三代目大谷鬼治の江戸兵衛 東洲斎写楽筆 江戸時代・寛政6年(1794)東京国立博物館蔵 [展示期間:2018年10月2日(火)~28日(日)]
by cardiacsurgery
| 2018-11-06 17:56
| アート一般
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