このブログ記事は、下記【番組1】と【番組2】の内容を併せて書いたものである。
【番組1】特集「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~」放送2018年9月8日(土) 17:10 ~ 18:00 【NHK総合テレビ】
藤田嗣治。パリで裸婦を描いて画壇の寵児となったものの、日本では、その生涯は長い間厚いベールに覆われてきた。その知られざる素顔とは?
女優・戸田恵梨香さんがフランスを訪ねその魅力を再発見する。
【番組2】日曜美術館「知られざる藤田嗣治~天才画家の遺言~」放送2018年9月9日(日) 9:00 ~ 9:45 【NHK教育テレビ】
フランスに、画家藤田嗣治の肉声の遺言が埋もれていた。「狂乱の時代」のパリでピカソと並ぶ評価を得ながら、日本では厚いベールに覆われてきた天才画家の意外な素顔とは?
パリ郊外、藤田嗣治の自宅に残された録音テープを取材班が分析、中に遺言とも言うべき肉声があることがわかった。
藤田は20世紀前半のパリで、猫や乳白色の肌の女性を描いて、ピカソと並ぶ画壇の花形となった。しかし第二次大戦中画風を変えて凄惨な戦争画を描く。戦後、画壇からの非難にさらされてフランス国籍を取得。二度と祖国に戻ることなく異国で死去、以後日本では実像が厚いベールに覆われてきた。天才の意外な真実とは?
【出演】イラストレータ・宇野亞喜良
【司会】小野正嗣 高橋美鈴
第1章 パリの寵児東京美術学校入学。
《自画像》1910年 卒業制作 東京藝術大学蔵
パリ到着後2日目に、ピカソのアパート(↓)を訪れた藤田は、そこで見せられたピカソ自身のキュビスムの作品やアンリ・ルソーの画に驚愕した。
巴里では、日本で想像する以上の絵画の自由さがあり、新しいかたちに飛びつく革命が進行していた。(藤田嗣治「巴里の昼と夜」)
そこで、藤田は日本の美術学校で習得した作風を全部放棄する決心をした。
僕は美術学校の黒田先生ご指定の道具箱を、いきなり床の上に叩きつけてしまった。
《キュビスム風静物》1914年 ポーラ美術館蔵 ピカソの影響を受けて藤田が制作した作品。
《巴里城門》1914年 アンリ・ルソーの影響がみられる作品。
1914年 第一次世界大戦勃発。藤田は貧しさに耐えながらパリに残った。
藤田は、覚悟の手紙を日本に送っている。
折角この世に生まれて、人真似をしたり、俗人を喜ばせる様な画をかいて・・・。
何れの真似でも無いもので、初めて世界の藤田であって、画が貴い宝となるのである。
1918年に、「第一次世界大戦」が終結した。
パリは「狂乱の時代」に入った。
両大戦間のパリでは、具体的な世界を追求した「
エコール・ド・パリ」の面々(シャガール、パスキン、モジリアーニ、藤田嗣治)が活躍した。
藤田の乳白色の裸婦像は、大好評を得た。
《ジュイ布の裸婦》1922年 パリ市立近代美術館蔵。
ジュイ布(トワル・ド・ジュイ)とは、ドイツ出身のプリント技師、クリストフ=フィリップ・オーベルカンプ(1738-1815年)によってヴェルサイユ近郊の村、ジュイ=アン=ジョザスの工場で生み出された西洋更紗。
藤田は油彩の代わりに墨を使用した。
これは偉大な乳白色の肌 (Grand Fond Blanc)と呼ばれた。
パリ市立近代美術館 ソフィー・クレブス 文化財保存統括監督官(↑)曰く: 藤田のこの画(↓)ほどエロチシズムを強調した裸婦はない。
ソフィー・クレブス氏曰く: 裸婦なんてありきたりと思っていたフランス人を大興奮させた。
ソフィー・クレブス氏曰く: 当時パリには多くの日本人画家が来ていたが、彼らはみな「芸術とは誰かに習うものだ」という固定観念に囚われ、自分のオリジナルのものを見せてみろと云われても、何もできなかった。藤田だけがその壁を乗り越えたから、成功できたのである。
藤田は、カンバスその物が既に皮膚の味を与える様な質のカンバスを考案することに着手した。これは白いタルク(シッカロール)液をカンバスに引くことによって達成された。
藤田は、白抜きの部分を残す浮世絵の技法を参考にしていた。
これによって見事な作品が完成し、1927年の《裸婦》(↓)はベルギー王室買い上げとなり、現在はベルギー王立美術館に所蔵されている。
さらに、藤田の「偉大な乳白色の肌」の作品のいくつかは「サロン・デ・チュルリ―」に出品された。《タピスリーの裸婦》1923年 京都国立美術館蔵(↓) ならびに《舞踏会の前》1925年 大原美術館蔵(↓↓)がそれである。
ロイド眼鏡にオカッパ頭の藤田 Fougita は、パリではお調子者 Fou Fou(お調子者)とからかわれていた。
しかし、日本での藤田の評判はひどいものだった。
熊岡美彦氏は「百鬼夜行の巴里、藤田嗣治氏の反省を促す」の中に、「芸術家としての真の悦びを忘れ、ひたすら人気取りの一つの為に全力を注ぐ有様」と記している。
さらに氏は、「男性としての近代的気節を守り得る者でない限り、よき芸術を産む事など出来る筈はない」とも書いている。
新聞は「藤田氏は宣伝屋」としている始末である。
実際には、藤田はまったく酒を飲まず、パーティーから帰ってすぐに画筆を握っていた。
普通 十四時間、仕事を励む際には十八時間位筆を持つ勤勉さだったのである。
第2章 戦争を描く1929年の世界恐慌は美術品の価格下落をもたらし、画家を直撃した。藤田の乳白色の画には買手が付かなかった。
そこで藤田はフランスを離れ、色彩豊かな中南米の絵画を学び、日本に帰国して《秋田の行事》を描いた(全体↓、部分↓↓、部分↓↓↓)。
そして「画家はいたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕もかんがえなければならないと思う」という意見を自著「地を泳ぐ」の中に書き記している(↓、↓↓)。
1937年7月から日中戦争が始まった。
日中戦争が始まると、「陸軍美術協会」は「戦争画の必要性」を云いだした。
戦争という事態に藤田も敏感に反応している。1941年の《自画像》の頭を見ると、パリ時代のオカッパではなく、ロイド眼鏡も通常の眼鏡になっている。
「戦争画」は「前期戦争画」と「後期戦争画」に分けられる。日中戦争の《武漢攻撃」は「前期戦争画」であり(↓左)、「太平洋戦争」の《アッツ島玉砕》は「後期戦争画」である(↓右)。
《武漢進撃》1938~40年 東京国立近代美術館蔵(無期限貸与)
《アッツ島玉砕》昭和18年1943年 東京国立近代美術館蔵(無期限貸与)
藤田嗣治「日本にドラクロア、ヴェラスケスの様な戦争画の巨匠が生まれなければならない」(戦争画について」より。
ドラクロア《民衆を導く自由の女神》1930年 部分。
ソフィー・クレブス氏、「歴史画の非写実性」について説明。
ソフィー・クレブス氏: 藤田は、ルーブル美術館の「偉大なる歴史画」に連なる傑作を描きたいと真剣に願っていた。
1945年8月、終戦。
第3章 美の国へ
藤田、美の国(ニューヨーク⇒パリ)へ。
1949年、藤田ニューヨークへ出発。
藤田が言い残した言葉:「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」
《カフェ》1949年 ニューヨークにて制作 現在ポンピドー・センター蔵
カフェの店内で黒い服の女性が卓上に便箋を置いたまま物思いに耽っている。窓の外に見えるカフェ「ラ・プティト・マドレーヌ」は、藤田が1920年に制作した銅版画《煙突のある風景》からの転用で、懐かしく物悲しいパリの景色の一角である。額縁も藤田の手製、
(↓)《カフェ》部分、19世紀に流行った帽子を被った紳士。
背景(窓の外)に描かれた「ラ・プティト・マドレーヌ」は、藤田が1920年に制作した銅版画《煙突のある風景》からの転用。懐かしい《カフェ》である。
「マドレーヌ」LA PETITE MADERENE は、プルーストが19世紀末を描いた小説「失われた世界を求めて」の冒頭に象徴的に登場する。
お菓子の「マドレーヌ」とも考えられる。
ソフィー・クレブス氏:いずれにしても、あの絵は彼が体験した20世紀の辛い現実を描いたものではない。藤田は、純粋に絵を描くことに専念出来た19世紀末のような環境に戻ることを願っていた。
第4章 再びパリへ1950年、藤田は、ニューヨークからパリへ向かった。
戦後のパリには藤田の知る戦前の面影は残っていなかった。1950年、藤田はモンパルナスの「ホテル・エドガー・キネ」を制作しているが、その前景には「黒犬を連れた赤い帽子の子供」が「一人の亡霊」のように描かれている。
1955年、フランス国籍取得。1959年、洗礼(72歳)。日本の新聞は「日本見捨てた藤田画伯、フランスに正式帰化」と報じた。
藤田は、日本に生まれて祖国に愛されず、又フランスに帰化してもフランス人としての待遇も受けなかった。
藤田は、自分のアトリエ県住居を郊外の「ヴィリエ・ル・バクル」に移した。現在、ここは「エソンヌのメゾン=アトリエ・フジタ」と呼ばれている。
フランス・エソンヌのメゾン=アトリエ・フジタは、藤田のアトリエ兼住居(
参照)。
メゾン=アトリエ・フジタでは、アン・ル・ディベルデル館長が対応してくれた。
ここには藤田が制作した磁器製の小物などが多数陳列されていた。
藤田が聞いたと思われるレコード(廣沢虎造の講談・森の石松)も置かれていた。
藤田はここで妻・君代と暮らしていたのである。
藤田のアトリエの一部。
藤田が製作した「眼鏡置き」。
第5章 藤田の肉声
テープレコーダーには、亡くなる2年前の藤田の肉声が録音されていた。
今日は1965年夏のある日。フランスの寒村で 放送は隠居の藤田がいたします。
もう私も来年はちょうど満80歳になりますので、私が生きている間にどんな声をしていたか残しておいて、後世の人に。聞かせておくというのは無駄ななことじゃないと思います。
今日北斎や歌麿の声が残っていたらどんなでしょう。画には永久に生きている魂があると思っております。最近私は私の声もこれと同時に残しておきたいと思いだしたのでございまして、私の絵もこの私の声も。永久に残るように思っております。
それではまたいつももいたずらをいたします。
♪ここはフランス片田舎。
(扉をトントン叩く音)
藤田 ハイハイ ただいますぐ開けますから。
藤田 どなたさまでございますか? またどちらから またどんな御用で お越しになりましたか?
藤田 さてはあの世からのお迎えでございましたか。
死神 その通りだ! 俺ぁ 死神様だ。
死神 やっと分かりやがったなあ。
藤田 しばらくおまちくださいませ。
死神 おいとっつぁん 未練がましいわ。
死神 なんだと? まだ仕事がしたい? いい加減にあさらばしたらどうだ。
藤田 いえいえ 名声とか財宝とかいうものは もう私には興味も未練もござりませぬ。
藤田 もう少し仕事をしてみたいのでございます。
死神 おいとっつぁん 未練がましいわ。
藤田 どれだけのちからがあるかを1つまとめて試したいのでござります。
この80年に戦火を逃れ 人の誹謗にもめげず。
藤田 こうやっていきてきたのは 何でございましょう。
藤田 全く天の神様のおかげだと信じております。
藤田 その神様へ お礼の気持ちで。
藤田 小さなお御堂を捧げたいのでござりまする。
死神 そんならあばよ! とっつぁん 風邪なんかひくなよ 元気でいろよ。
藤田 ご親切な死神もあるもんだ。
藤田 これでこの爺やも少し働けるかなあ ああ良かった良かった やれやれ。
藤田 あとはね 早くね 2人で寝ましょうかね。
ばあさん そうしましょうよ お爺さん。
幕が閉まりました。
首尾よく 死神を追い払いまして これからこの爺さんも仕事に励むそうでございます。
めでたいお話でございました。これで今日の放送は終わります。
第6章 ノートルダム・ド・ㇻ・ペ礼拝堂ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ礼拝堂は、日本語で「平和の聖母」と名づけられた聖堂。1965年から計画され、1966年10月に完成して、一般公開された。デザイン、ステンドグラス、彫刻などすべてを藤田が計画し、自身は内装を手掛けた。
それほど広くない内部の四方の壁一面に、フレスコで「キリストの誕生から十字架に架かるまで」の歴史が描かれている。藤田はこれを3ヶ月で仕上げ、この仕事を最後に、1年と数ヶ月後に亡くなった。
礼拝堂内部に描かれたフレスコ画《磔刑図 ゴルゴダの丘》。
フレスコ画《十字架の道行き》。
《十字架の道行き》を描く藤田。
礼拝堂に描かれている聖職者姿の《藤田の自画像》。
藤田嗣治曰く:私(藤田)が一生かけて描いた数々の絵については、
(私の絵を見た人が)その絵を描いた当時の生き生きした生命とともに、
絵からお受け取りになることが出来ると思います。
【参考1】藤田嗣治展 @ぶらぶら美術・博物館 ⇒
こちら【参考2】藤田嗣治展 @東京都美術館 ⇒
こちら美術散歩 管理人 とら