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【はじめに】
2018年8月30日(木)の【ラジオ深夜便】で、虎造節を守る 虎造節保存会創立名誉会長 八木健とのインタビュー(広沢虎造節を守る) を聴いた。とても面白かったので、”Wikipedia"で勉強し直してみた。 【来歴】 広沢 虎造。1899年(明治32年)5月18日 - 1964年(昭和39年)12月29日)は、昭和時代の浪曲師、俳優。東京府東京市芝区白金(現・東京都港区白金)出身。本名・山田信一。旧姓は金田。 【入門】地元の初代木村重松や東家小楽燕に弟子入りを志願する。が小音と断られ、どうしてもプロになるべく、冨士月子の手引きで講釈師の旭堂麟生のもとに19歳の時に通ってネタを仕込む。後に「修業(芸を磨くの)は関西で、人気(を上げるの)は東京(関東)で」と(芸界で)よく言われるように関西の浪曲師、当時関西浪曲界の巨頭であった2代目広沢虎吉に弟子入りする。 【修業時代を過ごした広沢館】 とりわけ森の石松を題材にし、特に「呑みねえ食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」の「森の石松三十石船道中」が知られ大ヒットしたフレーズは、ラジオ放送の普及も相まって、戦前戦後を通じて国民的な流行語となった。虎造自身の声は小音で、マイクが無い時代に大きな会場だと後ろから「聞こえん!もっと大きな声を出せ!」とヤジが飛ぶほどであったが、ラジオやレコードの登場に助けられたのである。 【ラジオ放送から戦前の虎造ブーム】 マイクロフォンの導入が声が小さい虎造をバックアップした。さらにラジオ放送が虎造にとって有利に働いた。 1926年(大正15年)5月30日ラジオ初放送。演目は「次郎長と勝蔵」。 虎造を一躍有名にしたのは、既に次郎長伝を皮切りにラジオに出演し、売り出し中のこの時期に、自身も巻き込まれた交通事故である。1933年(昭和8年)、世田谷碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため一行が移動中のタクシーが電車と正面衝突、虎造のマネージャーが即死、運転手の助手も危篤、運転手は2週間の重傷、虎造も瀕死の重傷を負うものの、命は助かった。この事故を新聞各紙が報道する。 で昭和初期に東京の寄席での浪曲出演者を伝えるビラを見ると、虎造など人気者が複数のトリを務めている。 1938年(昭和18年)後楽園球場で独演会を開くなど、その名調子は虎造節として一世を風靡、また戦前は映画にも積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていた 映画出演に関して吉本興業のマネジメントを受けるだけでなく、浅草花月など当時吉本が東京に持っていた多くの劇場にも出演、半ば吉本の専属状態となっていた。当時の出演映画には、出演者として「廣澤虎造(吉本興業提供)」とクレジットされているものもある(『エノケン・虎造の春風千里』など)。 昭和15年晩夏、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい。 【戦後の民放によるラジオ浪曲ブーム】 戦後にも全盛は続き、浪曲の枠を超えた人気者の虎造は、民放の登場により、ラジオ浪曲ブームのけん引役として、連続読み番組(ラジオ東京の俗称「虎造アワー」)を長年持つことになる。 開局翌日1951年12月26日には『次郎長伝』のうち「石松代参」が開始され、戦前のNHKの年数度の放送から、この週1度の連続読み番組で34%、民放で独走トップの高聴取率を獲得する。 当時の銭湯では虎造の「〽旅行けば」と節まねをしてうなる声が頻繁に聞かれたというエピソードが、昭和史の一面として残されている。 【晩年。そして死後も残る虎造ブーム】1959年(昭和34年)に脳溢血で倒れ、言語障害を発症。リハビリに取り組むも回復せず、1963年(昭和38年)の引退興行をもって浪曲界から身を引き、翌1964年(昭和39年)死去した。65歳没。戒名は「松寿院俉道日信居士」。 3代目は弟子の虎之助が昭和41年に襲名。 虎造の死後、浪曲界には虎造に続く図抜けた大スターが生まれず、以降浪曲界は、現在まで続く長い冬の時代を迎えることになる。だが虎造本人に関しては死後50年経って、『清水次郎長伝』を全く知らなかった世代も巻き込んで、未だに再評価されている。 妻は相三味線も務めた曲師の美家好で、三味線の名手だった。 次男の山田二郎は、NHK佐賀放送局、ラジオ東京・TBSの元アナウンサーである。 【代表的な演題∸森の石松三十石船道中】 旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名題なるかな東海道、名所古蹟の多いとこ。なかに知られる羽衣の、松とならんでその名を残す、街道一の親分は、清水港の次郎長の数多身内のある中で、四天王の一人で乱暴者といわれたる、遠州、森の石松の、苦心談のお粗末を、悪声ながらもつとめましょう。 乗合の客 「……やあ、すまねえ客人、いの一番にいわなけりやあならねえ清永一家で一番強いのを忘れていたよ」 石松 「おもしろくなってきたな。おい、これは、今やるんじゃねえよ。お預けだ。後の出ようでみんな呑ましてやる。誰れよ。その強いのは……」 客 「遠州森の生まれだ」 石松 「おお呑みねえ、江戸ッ子だってな」 客 「神田の生まれよ」 石松 「そうだってねえ。……誰れだい、それは……」 客 「こりゃあ強い。大政だって小政だって敵わねエ。左の目が……あッ、いけねエ、どうもすいません」 石松 「いいってことよ。え、誰だい、その強いってのは……」 客 「まずいよ。お前さんとおんなじだよ」 石松 「なにがおんなじだい」 客 「片っぽうがよくねえんで。左の目がネ。この左の目の悪いのが森の石松ってえ男だ。なにしろ、これが清水一家じゃ一番強え」 石松 「呑みねえ、え、オイ。鮨を食いねえ。江戸ッ子だってねえ……」 客 「神田の生まれよ」 石松 「そうだってねえ、いいねえ。……ところで石松ッてのはそんなに強えか」 客 「強いのなんのって、あんな強いのは二人とはいめえ」 石松 「おい、いくらか小遣をやろうか。……なに、あるのかい。そうかい。そうかい。 ふーん、石松ってのは、そんなに強いかえ」 客 「ああ、強え。強えは強えが、しかし、あいつは、少々頭のほうが薄いときてる」 石松 「なに……頭のほうが薄いだと……」 客 「馬鹿だよな。みんないってるぜ。あのへんの子守りでさえもが唄ってるぜ。聞いてみな。東海道じゃ一等バカだ」 石松 「馬鹿だとねエ。べらぼうめ。へッ。どんな唄か聞かねえが、お前さん、その文句知ってるのかい」 客 「知ってるともよ。聞かしてやるか」 お茶の香りに東海道、清水一家の石松はしらふのときはよいけれど、お酒呑んだら乱れ者、喧嘩早いが玉に庇。馬鹿は死ななきあ、なおらない。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-08-30 09:07
| 講演会
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