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8月23日(木)深夜便特選アーカイブスで、早稲田大学教授・千葉俊二の「わが心の人 谷崎潤一郎」を聴いた。初回放送は2015.11.20である。
そこでこの機会に、「谷崎潤一郎」について復習することにした。 wikipediaの「谷崎潤一郎」には、次のように記されている。 【概要】 谷崎 潤一郎1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。 初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。 【来歴】 谷崎倉五郎、関の次男として東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。長男・熊吉は生後3日で亡くなったため、潤一郎の出生届は、「長男」として出された。次男として誕生した弟の谷崎精二は、のちに作家、英文学者(早稲田大学教授)となる。 母方の祖父・谷崎久右衛門は、一代で財を成した人で、父は江澤家から養子に入ってその事業の一部を任されていた。しかし、祖父の死後事業がうまくいかず、谷崎が阪本尋常高小四年を卒業するころには身代が傾き、上級学校への進学も危ぶまれた。谷崎の才を惜しむ教師らの助言により、住込みの家庭教師をしながら府立第一中学校(現・日比谷高等学校)に入学することができた。散文や漢詩をよくし、一年生のときに書いた『厭世主義を評す』は周囲を驚かせた。成績優秀な潤一郎は「神童」と言われるほどだった。 1902年(明治35年)9月、16歳の時、その秀才ぶりに勝浦鞆雄校長から一旦退学をし、第二学年から第三学年への編入試験(飛級)を受けるように勧められる。すると合格し、さらに学年トップの成績をとった。本人が「文章を書くことは余技であった」と回顧しているように、その他の学科の勉強でも優秀な成績を修めた。卒業後、旧制一高に合格。一高入学後、校友会雑誌に小説を発表した。 一高時代、校長の新渡戸稲造と(1908年〈明治41年〉)1908年(明治41年)、旧制一高英法科卒業後に東京帝国大学文科大学国文科に進むが、後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』(1909年)を発表。早くから永井荷風によって『三田文学』誌上で激賞され、谷崎は文壇において新進作家としての地歩を固めた。以後『少年』、『秘密』などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって物語の筋を重視した反自然主義的な作風で文壇の寵児となった。 大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた。 関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する。 太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)。同作の登場人物である二女「幸子」は松子夫人、三女の「雪子」は松子の妹・重子がモデルとなっている。 同戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』(1955年)を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』(毎日芸術賞)といった傑作を発表。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで7回にわたって選ばれ、特に1960年と1964年には最終候補(ショートリスト)の5人の中に残っていた。最晩年の1964年(昭和39年)6月には、日本人で初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出された。 【略年譜】 •1886年(明治19年)東京市日本橋区蛎殻町二丁目14番地(現・東京都中央区日本橋人形町一丁目7番10号)に誕生。父・谷崎倉五郎、母・関の長男として育つ。 •1889年(明治22年) 父の経営する日本点灯会社が経営不振のために売却される(明治二十一年九月七日付で井染得佶を発起人総代として、他倉五郎とさらに2人、合計4人連名で有限責任日本點燈会社設立御届を定款と共に神田区長に提出し、株主を募集。その40日後、明治二十一年十月廿四日付で解社御届を神田区長に提出している)。 •1890年(明治23年) 父、米穀の仲買人をはじめる。 •1892年(明治25年) 日本橋阪本小学校尋常科へ入学(一年繰上げの変則入学)。お坊ちゃん育ちの内気な性格のため、乳母の付添い無しでは学校に行けない。 •1893年(明治26年) 出席日数不足のためもう一度一年生をやり直し、首席で進級する。生涯の友人・笹沼源之助(日本初の「高級」中華料理店倶楽部偕楽園の御曹司)と知り合う。 •1894年(明治27年) 6月20日、明治東京地震に自宅で被災。 •1896年(明治29年) 母と歌舞伎『義経千本桜』を観劇し、生涯にわたる影響を受ける。 •1897年(明治30年) 同小学校尋常科卒業、高等科に進む。稲葉清吉先生の影響で文学に目覚める。 •1898年(明治31年) 先輩や級友と回覧雑誌『学生倶楽部』を行う。 •1899年(明治32年) 京橋区築地明石町の欧文正鴻学館(通称サンマー塾)に通い英語を習う。日本橋亀嶋町の貫輪秋香塾で漢文の素読を受ける。 •1901年(明治34年) 同高等科卒業。このころ家産傾き、奉公に出されるはずだったが、才能を惜しむ稲葉先生らの援助により東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)へ進む。 •1902年(明治35年) 家業いよいよ逼迫し廃学を迫られるが、漢文教師の渡辺先生や北村重昌(上野精養軒主人)の篤志によって住込みの書生で家庭教師となり、学業を行う。 •1903年(明治36年) 一中校誌『学友会雑誌』の会幹となる。一中では、大貫雪之助(岡本かの子の兄)、土屋計左右、恒川陽一郎、吉井勇、辰野隆らと知り合う。 •1905年(明治38年) 同校卒業、第一高等学校英法科に進む。 •1907年(明治40年) 一高文芸部委員となり『校友会雑誌』に文章を発表する。北村家の小間使いの穂積フク(福子)との恋愛事件により北村家を追い出されて学生寮に入る。この頃から学資は伯父と笹沼家より援助を受ける。 •1908年(明治41年) 同校卒業、東京帝国大学国文科に進む。 •1909年(明治42年) この頃、文壇に出られない焦りから神経衰弱となり、転地療養先の偕楽園で、永井荷風の『あめりか物語』を愛読。 •1910年(明治43年) 小山内薫、和辻哲郎、大貫晶川、小泉鉄、後藤末雄、木村荘太らと共に第2次『新思潮』を9月に創刊。戯曲『誕生』を投稿(創刊号は手続き不備のため発売禁止)。『刺青』、『麒麟』を発表。 •1911年(明治44年) 『新思潮』は廃刊に。一時『スバル』同人に参加。授業料未納により退学。『少年』『幇間』『飈風』『秘密』を発表。作品が永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立する。 •1912年(大正元年) 1月に初恋の穂積フクが肺炎で死去。京都旅行をはじめ各地を放浪、神経衰弱が再発する。徴兵検査を受けるが脂肪過多症で不合格。『悪魔』を発表。 •1915年(大正4年) 石川千代と結婚。『お艶殺し』『法成寺物語』『お才と巳之介』 を発表。 •1916年(大正5年) 長女・鮎子生まれる。『神童』『恐怖時代』を発表。 •1917年(大正6年) 母・関が死去。妻と娘を実家に預ける。『人魚の嘆き』『異端者の悲しみ』を発表。芥川龍之介、佐藤春夫との交流が始まる。千代の妹・せい子を好きになる。 •1918年(大正7年) 朝鮮、満洲、中国に旅行。『小さな王国』を発表。 •1919年(大正8年) 父・倉五郎死去。神奈川県小田原十字町に転居。『母を恋ふる記』を発表。 •1920年(大正9年) 横浜の大正活映株式会社脚本部顧問に就任。せい子を芸名・葉山三千子で女優にする。『鮫人』『芸術一家言』を発表。 •1921年(大正10年) 妻・千代を佐藤春夫に譲るという前言を翻したため、佐藤と絶交する(「小田原事件」)。 •1923年(大正12年) 9月1日関東大震災。当時箱根の山道でバスに乗車中で、その谷側の道が崩れるのを見る。横浜山の手の自宅は頑丈に造られており無事だったが、類焼してしまう。震災後、京都市上京区等持院中町や、左京区三条東山通要法寺を経て、兵庫県武庫郡六甲苦楽園(現・神戸市灘区)に移住。『肉塊』を発表。 •1924年(大正13年) 武庫郡本山村北畑(現・神戸市東灘区本山町)に転居。『痴人の愛』を発表。 •1926年(昭和元年) 再び中国の上海へ旅行。郭沫若と知り合う。帰国後、佐藤春夫と和解する。『上海交遊記』、『上海見聞録』を発表。武庫郡本山村岡本好文園(現・神戸市東灘区岡本)に転居。 •1927年(昭和2年) 根津松子と知り合う。『饒舌録』を連載し、芥川龍之介との間で「筋のある小説、ない小説」論争が起こるが、後日、谷崎の誕生日に芥川が自殺する。 •1928年(昭和3年) 兵庫県武庫郡岡本梅ヶ谷(現・神戸市東灘区岡本)に新居(「鎖瀾閣」)を築く。『卍』を発表。 •1929年(昭和4年)妻・千代を、和田六郎(後の大坪砂男)に譲る話が出て、それを元に『蓼喰ふ蟲』を、前年から連載するが、佐藤春夫の反対で話は壊れる。 •1930年(昭和5年) 『乱菊物語』前編を発表。千代と離婚。離婚および千代の佐藤再嫁の旨の挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として騒がれる。 •1931年(昭和6年) 古川丁未子と結婚。借金のため一時期高野山にこもる。『吉野葛』『盲目物語』『武州公秘話』を発表。 •1932年(昭和7年) 武庫郡魚崎町横屋(現・神戸市東灘区)に転居する。隣家は根津松子一家だった。松子との不倫が始まる。『倚松庵随筆』『蘆刈』を発表。 •1933年(昭和8年) 丁未子と別居する。弟・精二と弟妹扶助のことで揉めて絶交。『春琴抄』『陰翳禮讚』を発表。 •1934年(昭和9年) 『夏菊』を連載するが、モデルとなった根津家の抗議で中断。丁未子と正式離婚。『文章読本』を発売、ベストセラーとなる。 •1935年(昭和10年) 根津清太郎とは離婚した森田松子と結婚する。『源氏物語』の現代語訳に着手。『摂陽随筆』を発表。 •1936年(昭和11年) 『猫と庄造と二人のをんな』を発表。武庫郡住吉村反高林(現・神戸市東灘区)に転居。5月、住田多蔵(歌舞伎の笛方総家元)が志賀直哉を訪問し、谷崎への紹介を喜ぶ。 •1937年(昭和12年) 創立された帝国芸術院会員に選ばれる。 •1938年(昭和13年) 阪神大水害起こる。このときの様子がのちに『細雪』中に映されることになる。源氏物語の現代語訳脱稿する。 •1939年(昭和14年) 弟・精二と和解。『潤一郎訳源氏物語』刊行されるも、皇室にわたる部分について何箇所かを削除した。長女の鮎子が竹田龍児(佐藤春夫の甥)と結婚(媒酌人は泉鏡花)。 •1941年(昭和16年) 初孫・百百子が誕生。 •1942年(昭和17年) 熱海市西山の別荘を購入。 •1943年(昭和18年) 『中央公論』誌上に連載開始された『細雪』が軍部により連載中止となる。以降密かに執筆を続ける。 •1944年(昭和19年) 『細雪』上巻を私家版として発行。一家で熱海疎開。 •1945年(昭和20年) 岡山県津山、ついで真庭郡勝山町(現・真庭市)に再疎開。 •1946年(昭和21年) 京都市左京区南禅寺下河原町に転居する(前の潺湲亭)。 •1947年(昭和22年) 高血圧症の悪化により執筆が滞りがちとなる。『細雪』中巻を刊行。松子の長女・木津恵美子を次女として入籍。毎日出版文化賞受賞。 •1948年(昭和23年) 『細雪』下巻が完成する。 •1949年(昭和24年) 朝日文化賞受賞。左京区下鴨泉川町に転居(後の潺湲亭)。第8回文化勲章受章。『月と狂言師』、『少将滋幹の母』を発表。 •1950年(昭和25年) 熱海市仲田にふたたび別荘を購入(前の雪後庵)。 •1951年(昭和26年) この年以降再び高血圧症悪化、静養を専らとする。文化功労者となる。『潤一郎新訳源氏物語』を発表。 •1954年(昭和29年) 熱海市伊豆山鳴沢に新たに別荘を借り転居(後の雪後庵)。•1955年(昭和30年) 『幼少時代』『過酸化マンガン水の夢』を発表。 •1956年(昭和31年) 京都の潺湲亭を売却し、熱海伊豆山に定住。『鍵』を発表。 •1958年(昭和33年) 11月に軽い発作を起こし、医者から3か月の静養を勧告される。 •1959年(昭和34年) 右手に疼痛や麻痺が起こり、以降口授(口述筆記)によって執筆する。『夢の浮橋』を発表。NHKテレビ『ここに鐘は鳴る』に出演。 •1960年(昭和35年) 養女の恵美子が観世栄夫と結婚。狭心症発作で入院。『三つの場合』を発表。 •1961年(昭和36年) 『瘋癲老人日記』を発表。 •1962年(昭和37年) 『台所太平記』を発表。 •1963年(昭和38年) 『瘋癲老人日記』により毎日芸術賞受賞。熱海市西山(吉川英治別邸)に転居。新宅造成のため東京都文京区関口町のアパートに住む。『雪後庵夜話』を発表。 •1964年(昭和39年) 全米芸術院・アメリカ芸術文学アカデミー(英語版)名誉会員となる。神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜字蓬ヶ平の新宅に転居(湘碧山房)。『潤一郎新々訳源氏物語』を刊行。 •1965年(昭和40年)東京医科歯科大学附属病院に入院。退院後、京都に遊ぶ。7月30日腎不全に心不全を併発して79歳で死去。8月、青山葬儀所にて葬儀。戒名は「安楽寿院功誉文林徳潤居士」。絶筆は『にくまれ口』『七十九歳の春』。京都市左京区鹿ヶ谷の法然院に納骨。百日法要で、東京都豊島区染井墓地慈眼寺にある両親の墓に分骨。芥川龍之介の墓と背中合わせとなる。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-08-24 10:30
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