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Ⅰ.ノモンハン 責任なき戦い @NHK(総合)
【放送時間】2018年8月15日(水) 午後7時30分~8時43分 【放送内容】 しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちはその後復帰させ、同じ失敗を重ねていった。 今回NHKは、ロシアで2時間に及ぶソ連軍の記録映像を発掘。4Kで精細にスキャンした映像を「AIによる自動カラー化技術」で鮮やかに着色し、戦場の実態を現代によみがえらせた。 1939年(昭和14年)4月に「満ソ国境紛争処理要綱」が布告された。これは作戦参謀の「辻政信」(↓)が起案し関東軍司令官・植田謙吉大将が通達したものであった。 満ソ国境では、当時国境線が明確に決定されていなかった地点において、現地司令官が自主的に国境線を認定し、衝突が発生した際には兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。「侵さず侵しめざることを満州防衛の根本とする」、「万一侵されたら機を失せず膺懲する」などの記述を辻は拡大解釈し利用することになった。 5月11日、外蒙古と満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。戦後の著書『ノモンハン』において辻は次のように記している。 この記述は『ノモンハン』の出版当時、紛争に深く関わった辻政信の無責任さをよく表しているとして強い批判の対象となった。 ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもゲオルギー・ジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官には代理の規定が存在せず、辻の行動は明らかに陸軍刑法第37条の擅権の罪に該当する重罪であった。紛争はジューコフによる攻勢によってソ連軍優位に進み、8月31日に日本軍は係争地域から撤退、9月16日に日ソ間で停戦協定が成立した。 ノモンハン事件の和平交渉は12月7日から25日までソ連のチタで、続いて翌年1月7日から30日まではハルビンで行われた。1月30日には全ての交渉が終わり署名を残すのみとなっていたが、ソ連・蒙古代表団は合意を覆して1月30日に帰国してしまった。当時、満州国代表団に補佐官として加わっていた北川四郎は、当初「ロシア人は全く信用ができぬ」と憤慨していたが、会議において満州国代表を務めた外交部政務司長の亀山一二から戦後になり、辻が白系ロシア人を使って、会議が合意した場合、ソ連代表ボグダーノフ少将と外蒙古代表ヂャムサロンを殺害すると脅したことが原因であると聞いている。 戦後、辻は「戦争は負けたと感じたものが、負けたのである」「外交もまた、負けたと思うものが、負けるのである」と記している。 ノモンハン事件では第23師団捜索隊長井置栄一中佐や歩兵第七十二連隊長酒井美喜雄大佐など、辻によって自殺を強要された将校がいた。 辻は捕虜交換によって戻ってきた将校たちにも自殺を強要した。 大谷敬二郎も、捕虜から帰還した将兵に辻が自殺を強要していたとの噂があったと述べている。 事件収束後、辻と、関東軍作戦課を取り仕切っていた主任参謀・服部卓四郎中佐は、辻は第11軍(漢口)司令部付、服部は歩兵学校付・教育総監部付に左遷された。 Ⅲ.藤田嗣治《哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘》の2ヴァージョン 東京国立近代美術館で藤田嗣治の《哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘》に遭遇した。これは藤田が戦争画にのめりこむきっかけとなった有名な画である。(↓)はクリックで拡大します。 草原の彼方でも黒煙が上がり、戦車に数人の兵士がよじ登り、銃剣を突きつけている。実際には、日本軍はこの人対戦車の戦いに惨憺たる敗北を喫したとされているが、ここには勇敢な兵士の姿だけが描かれている。 もちろんこの画からこの戦いの最終的な勝敗が分かるわけもないが、軍部は国民に対して敗北の事実をひた隠しにしていたという。ところが、近藤史人著の《藤田嗣治「異邦人」の生涯》によると、藤田は、この戦いに参加した陸軍中将・荻州立兵から「ノモンハン事件」の実相を聞かされ、戦死した部下の霊を慰めるために画を描いてくれと依頼された。 このため藤田は満蒙国境を訪れて、この画を描き、1941年7月の第二回聖戦美術展に出品し、非常に高い評価を受けた。 ところが藤田は同名の画をもう1枚描いていたという。それを実際に見た荻州中将の息子・荻洲照之によると、それはソ連の戦車からは発射される銃弾によって、死体が累々と積み重なっていく画だった。 その絵は残念ながら終戦の混乱の中で失われてしまったが、しばらく荻洲家に飾られていたという。若い照之の心に鮮烈な印象を焼きつけられていたその絵には、すさまじい光景が描かれていた。巨大なソ連の戦車から絶え間なく銃弾が降り注いでいる。阿鼻叫喚の声を上げる日本兵。死体は累々と積み重なっている。 その死体の山を踏みつぶしていくソ連の戦車。凄惨きわまりない戦争の実像である。それは、聖戦美術展に出品したものとは全く異質な、もう一枚の「哈爾哈河畔之戦闘」であった。 当時まだ十代だった照之は、父親の荻洲中将から絵の制作の詳しい経緯を聞かされていたわけではない。だが、自宅を訪ねてきた藤田と父親が二人だけで話し込む姿を、よく目にしていたという。「父が、たくさんの命を失わせてしまったと嘆いていたことを強烈に覚えています。父と藤田は、二人で何か一緒に表現したかったのではないかと思います」 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-08-15 23:10
| アート一般
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