これは8月12日の日曜美術館「“夢のようなあまさ” をこえて~画家・いわさきちひろ~」の視聴メモである。

東京ステーションギャラリーで開催中の展覧会「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」については、その内覧会レポ⊷トを『
こちら」に書いている。

(↓)は、展覧会会場で番組の司会者・小野正嗣と高橋美鈴に説明する東京ステーションギャラリー学芸員・成相肇。

ちひろの絵は、気持ちを読み取ろうという 気分にさせる力を持っている(↓)。

すなわちちひろの絵は、見る人に感じさせる、考えさせる絵(↓)なのである。

みんなに愛されるいわさきちひろ。今夢中になってる子どもも、大切な思い出になっている大人も、誰もが心の中にしまっている、愛にあふれた絵はどのように生まれたのだろうか。
30年近くの画家生活の中で九千点近くの作品を残したちひろ。そのほとんどが子どものための絵である。
いわさきちひろの代表作の絵本「小鳥の来る日」は、日本だけでなく、世界で読まれ、その一枚一枚が「額に入れるべき絵画である」と高く評価されている。


(↓)は『子犬と雨の日の子どもたち」。

(↓)は【枯葉の中の少年」。

(↓)は、いわさきちひろの絵本たち。「ゆきのひのたんじょうび」、「ぽちのきたうみ」、「となりにきたこ」、「あかちゃんのくるひ」、「あめのひのおるすばん」、「ことりのくるひ」。

しかしみんなが知っているこのような作品は、いわさきちひろが画家になってだいぶたってからのものである。
いわさきちひろは、満州でつらい経験をし、戦後は働きながら絵を描き、子育てをしながら、少しずつあのような画風に迫っていった。
ちひろはこんなことを語っている。
・「自分の絵にもっと泥臭さがなければ生けないのではないかと、ずいぶんなやんできたものでした」。

・「ドロンコになって遊んでる子どもの姿が描けなければほんとうにリアルな絵ではないかも知れない」。

・「その点、私の描く子どもはいつも夢のような甘さがただようのです」。
しかしその絵に感動した人たちは何を感じたのか。
番組に出てきたのは、
女優・黒柳徹子。いわさきちひろ挿絵の「窓際のトットちゃん」の思い出。


漫画家「ちばてつや」(千葉徹彌)はちひろのファンである。

彼が好きなちひろの作品は《母の日》↓。

ちひろは、スイカの種みたいな目を描くのですね。普通、表情描く時に白目と黒目。白目が大きかったりあるいは黒目が大きかったり、そういう目の表情をいろいろ描くのだが、だいたいちひろの目というのはスイカの種。それでいてなんか嬉しそうな表情の目だなとはが、しっかりと伝わってくる。

「手がね。柔らかい手がお母さんの首に抱きついて、体を預けてね、信頼しきっている子どもの顔。お母さんの顔は見えないんだけど、お母さんの微笑。ぬくもりを感じますね」
千葉は自分の作品であり、ボクシング漫画の金字塔でもある「あしたのジョー」の最終回・最後のコマで、ちひろの絵に似た表現をしていた。

強敵との試合ですべてを出し切ったあとの主人公ジョー。千葉は説明的な描写を極力省いた。「あれはリングの上だから、リングの柱とロープだけは描いたけど。あとは座っている椅子ね。それは描いたけれどあとは何も描かなかった。それこそ感じてほしかった。燃え尽きてなんにも残ってない。ただそこにすべてを出し切った男の満足感、重実感を描きたかったのである。描きすぎると、うるさくなって目が疲れてしまう。
いろんな情報を入れて描かずに感じさせるという技術に長けていたのがいわさきちひろだと千葉はいう。
「いわさきの場合はできるだけ余白を残して、できるだけ描かない。ぽつっと描くだけで世界観や季節感を出すところがすごいなと思う。描かないで感じさせるというところが、いわさきの絵を見てすごく勉強になった。
そして千葉はこの作品も気になるという。ちひろの自画像。このとき27歳。「どちらかというと白っぽい。明るいハイトーンの絵が多いのに自画像になるととたんに暗くなる。

いわさきちひろは1918年陸軍で働く父と女学校の教師をしていた母との間に長女として生まれた。裕福な家庭でクリスマスを祝うほどモダンな暮らしぶりだった。そんな少女が目にし、胸がキュッとなってドキドキしたというのが「コドモノクニ」。底に描かれた愛らしい子どもたちの姿。ちひろは絵の世界に心を奪われた。

12歳になり女学校に入学。二年生の頃から本格的に絵を学び始めた。めきめきと腕を上げ、17歳のとき女流画家グループの展覧会に最年少で入選。その祝いの席には審査員だった藤田嗣治の姿もあった。ちひろはいつか巨匠たちと肩を並べることを夢見ていた。

しかし両親の強い勧めにより結婚。

そして夫の転勤先である旧満州へ向かった。大連。はじめて訪れた満州だったが気持ちは沈んでいた。愛していない夫との生活。二年後に夫は精神を病み自死した。そして1941年帰国。

ちひろは絵に没頭した。描くことで過去を忘れようとするかのように。そんな中ふたたび満州行きの話が持ち上がった。ちひろは開拓団の女子たちに習字を教えるよう頼まれたのである。ちひろは絵の道具を持って満州へ向かい、途中、東洋のパリと呼ばれたハルビンにも立ち寄り、スケッチをするなど画家としての時間を楽しんだとのことである。

しかしいざ開拓団の拠点につくと物資も食糧も不足し、習字の教室どころではなかった。あまりの酷い環境に体調を壊したちひろは知人の軍関係者のはからいで帰国した。教え子たちをその地に残したまま。

実は、ちばてつやも少年時代旧満州にいた。敗戦のあと命からがら引き揚げてきた。引き上げる途中、仲良かった二つ上の兄が、一年間旅をして船に乗った瞬間亡くなった。
・ちばてつや《満州からの引揚げ》

生き残ったということはとてもつらい。なにか負い目を感じる。生徒たちを守るべきだったはずちひろが、知らず知らずのうちに生徒たちを見捨てていた。
この経験がその後のちひろの歩みに大きな影響を与えたと黒柳徹子さんは言う。「自分が気づいていなかったことをとても恥ずかしく思っていただろうと私は思います。子どもを描けば描くほど、子どもたちを泣かせないようにしたいと思ったに違いない。
アニメーション監督・高畑勲もいわさきちひろのファンである。


古今東西の美術や文学に通じ、独自の審美眼を持ってアニメーションづくりの第一線で活躍してきた高畑勲が創作のうえで深い洞察を得てきた画家のひとりが、いわさきちひろである。
高畑曰く:ちひろさんは、子どもがしっかりと内面をもって懸命に生きている自立した存在であることを私たちに気づかせ、見事に子どもの「尊厳」をとらえた稀有な画家です。
1.カーテンにかくれる少女《あめのひのおるすばん》至光社より 1968年

高畑勲が初めて、ちひろの絵本に出会ったのは今から約50年前のこと。当時、高畑の長女が保育園から家に持ち帰った絵雑誌に「あめのひのおるすばん」が掲載されていた。詩のような短いことばと水彩のにじみを生かした絵で子どもの心をとらえたちひろの絵本に心を奪われた。ちょうど、劇場用長編映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」を初監督し、アニメーション表現の模索をしていた高畑にとって、ちひろのみずみずしい表現はインスピレーションの源となった。初めてちひろの絵本を見たときの驚きは、今も高畑のなかに大事なものとして残っている。
2.絵本『戦火のなかの子どもたち』と映画「火垂るの墓」
ベトナム戦争が激化するさなか、ちひろは戦火にさらされるベトナムの子どもに思いを寄せて、絵本『戦火のなかの子どもたち』に取り組み、体調を崩し入退院を繰り返しながらも、1年半を費やして習作を含む44点の作品を描き上げた。折に触れてこの絵本を開くという高畑は、自身の戦争体験に重ねて次のように語っている。僕は、この絵本をはじめて見たとき、描かれた子どもたちが、まさにあのときの自分だ、姉だ、と思わずにはいられなかった。11歳と9歳の私たち姉弟は、1945年6月29日、岡山空襲の火の中を逃げまどい、傷つき、黒い雨に打たれながら余熱さめやらぬ朝の焼け跡にたたずんでいたのだった。
・焼け跡の姉弟《戦火のなかの子どもたち》岩崎書店より 1973年

1973年高畑は、映画「火垂るの墓」(野坂昭如原作1988年公開)を監督するにあたり、若い制作スタッフにちひろの絵本《戦火のなかの子どもたち》を見せて、想像力を高めてもらい、迫真の表現を追求した。
戦後、ちひろは親元を離れて、画家としての道を歩み始めた。
ちひろ、油彩、紙芝居、広告など幅広い表現に挑戦・「ほおづえをつく男」

「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい」では、戦後に日本共産党に入党し新聞記者として働く傍ら、丸木位理、丸木俊(赤松俊子)夫妻のアトリエで絵の技法を学んでいく中で描かれたデッサンやスケッチ、油彩画や、童画家として歩むきっかけとなった紙芝居作品などが並ぶ。鉛筆の力強い線や、油彩の重たい表現などは、後の軽やかな水彩画からは想像できない。
・「昼寝をする夫・善明」

1950年。ちひろ31歳。二度目の結婚をします。親が決めた相手ではなく、自ら恋に落ちた人でした。彼女はこう自己紹介します。「いわさきちひろ。絵描きです」

翌年には長男が誕生。もともと子ども絵が好きだったちひろは絶好のモデルを得てさらに筆を走らせた。

・「ハマヒルガオと少女」(油彩)1950年代中頃の作品では、「暗くなりがちな油絵の具を使いこなし、後の水彩画を特徴づける優しげな印象をうまく引き出している」というのが担当学芸員の成相肇の談である。

・「となりにきた こ」1970年。
ちひろがちひろになった頃の作品。ちいさな二人が少しずつ仲良くなっていく物語。ちひろは当初鉛筆と墨によるモノクロームの作品として構想していた(↓)。しかしすべてを描き直した。鉛筆ではなくパステルで(↓↓)。


松本春野はいわさきちひろの孫娘である。ちひろの絵を見て育った春野も、絵描きになった。

番組では、春野に実際に描いてもらうことでちひろがなぜパステルで描くようになったのか探ってもらった。春野はちひろの技法の本態が「水」の滲みを使うことであるということを見出しつつ、「ちひろは偶然の技法を必然的に組み合わせている」と結論づけた。

成相肇曰く「淡く滲んだ水彩絵の具でちひろが伝えたかったのは”絵具のストーリー”だった」。

【ゲスト】
黒柳徹子
漫画家・ちばてつや
東京ステーションギャラリー学芸員成相肇
絵本作家・松本春野
【司会】
小野正嗣
高橋美鈴
美術散歩 管理人 とら