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以下は、2018年7月13日(金)に、東京ステーションギャラリーで開かれた「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」の内覧会のレポ。この展覧会の会期は、2018年 9月9日(日)まで。
2018年12月15日、いわさきちひろ(1918-1974)は生誕100年を迎える。にじむ色彩で描かれた子どもたち、花々、そして大きく空けられた余白。絵本、挿絵、カレンダーなど、さまざまなメディアを通じてその絵は生活の隅々にまで浸透し、没後40年を超えてなお膨らみ続ける人気は世界に広がっている。 一方、その作品に関しては、「子ども、花、平和」などのモティーフ、あるいは「かわいい、やさしい、やわらかい」といった印象が注目されやすい。 「いわさきちひろ、絵描きです」――のちの伴侶と出会った際に自己紹介したちひろの言葉をタイトルに掲げるこの展覧会は、「絵描き」としてのちひろの技術や作品の背景を振り返るもの。 第Ⅰ章 私の娘時代はずっと戦争のなかでした *以下、各章のタイトルはちひろの言葉からの引用。 冒頭では、終戦までの揺籃期のちひろを追い、画家としての原点と感性の形成を探る。 1918年に生まれたちひろ(岩崎知弘)は、陸軍築城本部の勅任技師であった父・正勝と、女学校教師の母・文江、そして二人の妹とともに、恵まれた家庭環境で少女時代を過ごした。 幼い頃から絵を得意とし、絵雑誌「コドモノクニ」に憧れた少女は、第六高等女学校におけるモダンな教育、岡田三郎助に学んだデッサンと油画、小田周洋に学んだ書など、幅広い文化に触れていく。 この章では、少女期のちひろが出会った出来事や事物を立体的に再構成し、ちひろがいかなる時代に育ち、何に出会い、何を吸収したのかを通覧する。 ・岩崎家両親の昭和天皇即位記念式典出席記念写真 1928年 ちひろ美術館蔵 左より、5歳のちひろ、父・正勝、妹・世史子。妹・準子、母・文江 第Ⅱ章 働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい ちひろがかねてから抱いていた宮沢賢治への共鳴は、日本共産党入党という形で具体化する。 疎開先から上京したちひろは、新聞記者として活動する傍ら、丸木位里・丸木俊(赤松俊子)夫妻のアトリエを訪れて技法を学んだ。 そして、1947年に手掛けた紙芝居『お母さんの話』(1950年出版)を皮切りに、画家の道を選び、童画家として駆け出した。 第Ⅱ章では、ちひろが誇りとしていた家庭生活と作家活動の両立の様子などを追いながら、同時代の文化史における位置づけも探った。プロレタリア美術に連なる紙芝居や幻灯、まとまって見られる機会の少なかった油絵など、これまで掘り下げられていなかったちひろ像に迫った。 みどころ 紙芝居、幻灯、ポスター、油絵、多メディアのちひろ! ・《ヒゲタ醤油広告》 1950年代前半 ちひろ美術館蔵 描く内容に制限のある広告を積極的に手掛けることはなかったちひろだが、ヒゲタ醤油の広告の仕事は1952年から晩年まで20年余りも続いた。ちひろが描いたこの都市の市民像は大衆の目に留まり、訴求する図を描く修練となるとともに、この仕事が駆け出しの時期のちひろを経済的に支え、その名と絵を広める助けともなった。 第Ⅲ章 私は、豹変しながらいろいろとあくせくします ちひろの原風景、そして時代や文化状況との呼応関係を追う本展の前半部を踏まえて、後半では作品の魅力に分析的に迫る。 いわさきちひろといえば子どもや花の絵、という多くの人々に抱かれている定型の印象をより細密にするべく、画面に凝らされた技術に焦点を当てる。 ちひろはどのように体を使っていたか。座って描いたか、立って描いたか。どんな道具や素材を、いかなるスピードで、いかに操作していたか。 本章では特にちひろの絵における「線」の現れ方に注目することで、図に囚われがちなちひろの作品の見え方が、他の作品と接続して広がっていくことにもつながっていく。 ・《帽子の少女》 1970年 ちひろ美術館蔵 雑誌『こどものしあわせ』1970年8月号 草土文化 パステル・水彩 鉛筆・墨によるモノクロ習作とパステルによるカラー習作も出展されていた。 最終章では、明るく輝く水彩画の数々によって、ちひろの開放的な色彩の魅力が示されている。 また、2017年に開催された「高畑勲がつくるちひろ展」の成果を踏まえ、《子犬と雨の日の子どもたち》と《落書きする子ども》2017年においては、原画の拡大によってちひろの作品の中に没入する空間を作り出し。絵本を読むときの距離感覚と展示空間の融合と、みずみずしい彩りが、本展のフィナーレを飾っていた。 さらに、映像番組「黒柳徹子さんと『いわさきちひろ』」のダイジェスト版も見ることができた。 みどころ 拡大原画の空間が来場者を包み込む! ・《小犬と雨の日の子どもたち》 1967年 水彩・クレヨン ちひろ美術館蔵 1918 大正7年 0歳 12月15日、岩崎正勝・文江の長女として母の単身赴任先・福井県武生(現・越前市)で生まれる。本名知弘。父・正勝は陸軍築城本部の建築技師、母・文江は女学校の教師(博物家事・理科)。 1919 大正8年 0歳 現在の東京都渋谷区道玄坂に移る。 1920 大正9年 1歳 妹・世史子生まれる。 1922 大正11年 3歳 東京・渋谷の四反町(現・東)に移る。 1923 大正12年 4歳 妹・準子生まれる。 1925 大正14年 6歳 東京・渋谷の向山町(恵比寿・南)に転居。渋谷町立長谷戸小学校に入学。 1927 昭和2年 8歳 学芸会等で席画をよくする。岡本帰一、初山滋、武井武雄らの絵を好む。 1931 昭和6年 12歳 東京府立第六高等女学校(現・都立三田高校)に入学。 1933 昭和8年 14歳 目黒区目黒に移る。岡田三郎助に師事。デッサン、油絵の勉強を始める。 1936 昭和11年 17歳 3月、府立第六高等女学校卒業。同補習科に入学。5月、朱葉会女子洋画展に入選。 1937 昭和12年 18歳 3月、府立第六高等女学校補習科修了。コロンビア洋裁学院に入る。女性書家:小田周洋について藤原行成流の書を習い始める。 1939 昭和14年 20歳 4月、婿養子を迎え「結婚」。6月、夫の勤務地である旧満州大連(中国遼寧省大連市)に渡る。 1940 昭和15年 21歳 母・文江、府立第六高等女学校を退職し、「大日本連合女子青年団主事」となる。 1941 昭和16年 22歳 3月、夫の「自殺」により帰国。書家をめざし、再び小田周洋のもとで書を学ぶ。このころ、文化服装学院で習字を教える。中野区千代田町(現・本町付近)に移る。 1942 昭和17年 23歳 中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。 1944 昭和19年25歳 4月、女子義勇隊に同行して、中谷泰、妹・世史子らとともに旧満州勃利(中国黒龍江省)へ渡る。夏、戦況悪化のため「帰国」。 1945 昭和20年 26歳 5月、東京・山の手の空襲で中野の家を焼かれ、母の実家(長野県松本市)に疎開、ここで終戦を迎える。秋、両親が長野県北安曇郡松川村で開拓を始める。 1946 昭和21年 27歳 長野県松本市で日本共産党に入党。春、上京し、人民新聞の記者となる。日本共産党宣伝部・芸術学校に入る。赤松俊子(丸木俊)に師事。このころ、日本美術会、日本童画会のメンバーとなる。 1947 昭和22年 28歳 4月、前衛美術会創立に参加。5月、初めての単行本『わるいキツネそのなはライネッケ』(霞ヶ関書房)の挿し絵を描く。日本民主主義文化連盟の依頼により、紙芝居『お母さんの話』を描く。このころ、画家として立つことを決意する。 1948 昭和23年 29歳 新聞等のカット、挿し絵、絵雑誌、教科書の仕事を数多く手がける。油絵もよく描く。神田・神保町のブリキ屋の二階に下宿。 1949 昭和24年 30歳 日本共産党の活動のなかで松本善明と知り合う。 1950 昭和25年 31歳 1月、松本善明と「結婚」。紙芝居『お母さんの話』を教育紙芝居研究会より出版、この作品で文部大臣賞受賞。 1951 昭和26年 32歳 4月、長男・猛「誕生」。6月、経済的事情のため、やむなく息子を長野県松川村の両親に預ける。この間、息子に会うため、頻繁に松川村に通い、多くのスケッチを描く。 1952 昭和27年 33歳 東京都練馬区下石神井に家を建て、家族3人で暮らし始める。以後22年間、この地で制作活動を行う。 1953 昭和28年 34歳 1月、父・正勝死去。 1956 昭和31年 37歳 絵雑誌等に発表した作品を対象に、小学館児童文化賞受賞。絵本の仕事として初めての『ひとりでできるよ』(福音館書店)を描く。 1958 昭和33年 39歳 至光社の月刊絵雑誌「こどものせかい」に描き始める。紙芝居『お月さまいくつ』(童心社)を描き、翌年、厚生大臣賞受賞。 1960 昭和35年 41歳 『あいうえおのほん』(童心社)を描き、翌年、サンケイ児童出版文化賞受賞。 1962 昭和37年 43歳 最後の油絵作品「こども」を描く。教科書の絵の再使用に対して、太田大八、久保雅勇らとともに抗議、以後解決に至るまでねばり強く戦う。 1963 昭和38年 44歳 雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙を描き始める。3月、「ぐるうぷ堊(かべ)」を、赤羽末吉、遠藤てるよ、柿本幸造、中尾彰、渡辺三郎、丸木俊らと結成。6月、世界婦人会議参加のため、ソビエトを訪れる。 1964 昭和39年 45歳 「童画ぐるーぷ車」を、安泰、遠藤てるよ、久米宏一、滝平二郎、東本つね、箕田源二郎らと結成。10月、日本児童出版美術家連盟(童美連)発足。理事として画家の著作権擁護に積極的に取り組む。 1965 昭和40年 46歳 『りゅうのめのなみだ』(偕成社)『おはなしアンデアルセン』(童心社)を刊行。 1966 昭和41年 47歳 母・文江をともなってヨーロッパ旅行。帰国後、アンデルセンの『絵のない絵本』(童心社)を描く。長野県の黒姫高原に山荘を建て、以後毎年ここで絵本制作を行う。『おやゆびひめ』(ひかりのくに昭和出版)『つるのおんがえし』(偕成社)を刊行。 1967 昭和42年 48歳 『わたしがちいさかったときに』(童心社)を描く。夫・善明が衆議院議員となる。『しらゆきひめ』(集英社)『りこうなおきさき』(講談社)『にんぎょひめ』『うらしまたろう』(ともに偕成社)を刊行。 1968 昭和43年 49歳 絵で展開する絵本を試みた最初の作品『あめのひのおるすばん』(至光社)を描く。以後、至光社の武市八十雄とともに意欲的に絵本を制作する。自伝的絵本『わたしのえほん』(みどり書房・現在は新日本出版社)を描く。 『はくちょうのみずうみ』(世界出版社)『あかいふうせん』『あかいくつ』(ともに偕成社)『愛かぎりなく‐デカブリストの妻抄』(童心社)を刊行。 1969 昭和44年 50歳 『おにたのぼうし』(ポプラ社)『あかちゃんのくるひ』(至光社)『花の童話集』(童心社)などを描く。『ふたりのぶとうかい』(学習研究社)『あおいとり』(世界文化社)『鯉のいる村』(新日本出版社)を刊行。 1970 昭和45年 51歳 パステルで『となりにきたこ』(至光社)を描く。現存するパステル画のほとんどは、この年に描く。『あかちゃんのくるひ』(至光社)『おふろでちゃぷちゃぷ』『もしもしおでんわ』『万葉のうた』(ともに童心社)『にじのみずうみ』(偕成社)を刊行。「ベトナムの子供を支援する会」主催の反戦野外展に出品。前年脳血栓で倒れた母・文江を、下石神井の自宅にひきとる。 1971 昭和46年 52歳 『ことりのくるひ』(至光社)を描き、1973年ボローニャ国際児童図書展にてグラフィック賞を受賞。この頃から十二指腸潰瘍をわずらう。『あかちゃんのうた』『たけくらべ』(ともに童心社)『ゆきごんのおくりもの』(新日本出版社)を刊行。 1972 昭和47年 53歳 『ひさの星』(岩崎書店)『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)などを描く。夏、代々木病院に入院。 1973 昭和48年54歳 3月、静養のためハワイ旅行。帰国後、『ぽちのきたうみ』(至光社)、 『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店。翌年ちひろの没後、ライプチヒ国際書籍展銅賞受賞)を描く。雑誌「子どものしあわせ」(草土文化)の表紙絵をまとめた『こどものしあわせ画集』(岩崎書店)出版。秋、ガンのため代々木病院に入院。小康を得て退院。 1974 昭和49年 55歳 3月、病状が悪化し、再入院。6月、あかちゃんの絵を描き絶筆となる。8月8日、肝臓ガンのため「死去」。 1975 昭和50年 未完のまま遺作となった『赤い蝋燭と人魚』(童心社)を刊行。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-07-14 11:09
| 近代日本美術
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