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これは現在国立新美術館で開催中の「ルーブル美術館展 肖像芸術-人は人をどう表現してきたか」のメモである。
ちなみに、ぶらぶら美術館・博物館の面々がこの「ルーブル美術館展」を鑑賞した時のブログ記事は「こちら」である。 さらに、1991年に国立西洋美術館で開かれた「肖像表現の展開 ルーヴル美術館特別展」のホームページ(美術散歩)記事は「こちら」を参照されたい。 プロローグ: マスク肖像の起源 ・1. 《棺に由来するマスク》 エジプト 新王国 第18王朝 紀元前1391-1353 木、黒石、白石、青ガラス: 新王国時代以前のエジプトでは、棺内の死者が死後の世界を永遠に生きるために、「理想化された顔」の画が棺に張り付けられた。この例では、眉と眼の周りは派手な青ガラス製である。 1a 自身の像を神に捧げるー信心の証としての肖像 1b 古代の葬礼肖像―故人の在りし日の面影をとどめる ・14.《女性の頭部》 シリア・パルミラ 150-250年 石灰岩 多色彩色の跡: これは「葬礼肖像」の1例と思われる。会場には、女神ディアスとして表された若い娘や、ヘラクレスあるいはエロスとして表された子供の大理石像も出ていた。 古代ローマでは、自分の先祖を崇拝する習慣があり、先祖の姿を表現した肖像は、家の中に大切に飾られていた。この杯の中央の男性は銀を外から叩き出して作ったものであるが、対の杯として中央に女性像が作られているものがある。 これらは、その夫婦あるいは父母の思い出あるいは先祖の崇拝の品として創られたのであろうが、火山の噴火によってはからずも「葬礼肖像」となってしまったのである。 ・23.ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748‐1825)と工房 《マラーの死》 1794年頃: フランス大革命時、ジャコバン党を応援していたダヴィッドが、暗殺されたジャコバン党の指導者・マラーの死を描いた作品。皮膚病の治療浴中のマラーが左手に握っているのは暗殺者ジロンド派支持者シャルロット・コルデーからの手紙。マラーの右手は、コルデーに返事を書くため羽ペンを垂直に握っているが、これはミケランジェロの《ピエタ》に於ける、聖母に抱かれたキリストの右手を暗示している。 2a 男性の権力者―伝統の力 ・26.《クドゥッル(境界石)》 女神ナナヤの前のバビロニア王メリシバク2世と娘 イラン(古代のエラム)、スーサ出土 後期青銅器時代、カッシート王朝時代、メリシバク2世の治世(前1186‐前1172年)黒色石灰岩 クドゥッルの存在意義は、神々が保証するテキストにある。愛と戦の女神イシュタールを象徴する星、月神シンを象徴する三日月、正義の神シャマシュを象徴する太陽円盤、あるいはそれらの神々の属性を動物とこれらの象徴を組み合わせたものが見られる。 関係する人物が石碑上に姿を見せることもあり、ここでは右腕を挙げて祈る「メリシバク2世」が娘の手を握り、香炉の前の玉座に腰掛けている「ナナヤ女神」のほうへ娘を導いている。 このように、境界石は女王の保証下に、父から娘に譲渡された土地の境界に建てられた。 棺にいれられて埋葬された貴婦人の腐敗像。(↓右図)をよく見てみると、蛆虫や蛞蝓も描かれている。 キリスト教においては、「腐敗」は罪の証しであり、腐敗を露わにすることは罪の「懺悔」に他ならず、それによって祈る人の信心を集め、自身の魂の祈願する意図が込められている。 2世紀前半(前340年‐前330年頃)にリシュッポスによって制作されたブロンズの原作に基づく) 大理石(ぺテリコン産) ルイ14歳は、わずか5歳でフランス国王になった。この像は、古代ローマの皇帝ふうに作られているため、5歳とは思えない大人っぽくて堂々さを示している。 グロはパリ生れで、新古典主義のダヴィッドのもとで学んだが、彼もダヴィッド同様波乱の一生を送ることとなった。 彼は皇妃ジョセフィーヌを通じて、ナポレオンの寵愛を受け、ナポレオンの武勲を伝える絵の数々を描いた。今回展示されている《アルコレ橋上のボナパルト》もその一つ。 この作品は、ルーヴル美術館以外にエルミタージュ美術館にも収蔵されており、最終作はベルサイユ宮殿に収蔵されているものである。 ナポレオンが失脚し、ダヴィッドがブリュッセルに亡命してからは、グロは男爵の称号を得たが、その栄誉の代償として新古典主義を背負って立つという立場に立たざるを得なくなった。 元来、グロ自身にはロマン主義的な資質が内包されており、両者の芸術的葛藤に悩み、 最後はセーヌ川での入水自殺に追いやられた。 ナポレオン1世は、頭には古代ローマ皇帝のように黄金の「月桂冠」を頂き、「緋色の天鵞絨」、フランス王室象徴の「金色の蜜蜂文」を散りばめた「白貂」の毛皮マントを身につけており、自身が創設したレジオン・ドヌール勲章が胸元を飾っている。 アンヌ=ルイ‣ジロデ・ド・ルシー=トリオゾンは、戴冠式の正装をしたナポレオンの肖像を36点も制作するという注文を受けている。これは、皇帝の絶頂期の広大な帝国に置かれ数多くの事務所に飾るためだった。 ナポレオン1世の頭には、ローマの月桂冠、身体にはフランス王室特有の「蜜蜂文(下部説明画中の矢印参照)」を垂らした「白貂の毛皮」。 褐色のべっ甲、金、エマイユ: ナポレオン1世と王妃ジョセフィーヌの肖像のある嗅ぎタバコ入れ。ポータブルな二連肖像画である。 【ナポレオン1世のデスマスク物語】 1.ナポレオン セントヘレナ島で51歳で死去。 2.イギリス人医師バートン ナポレオンの死後2日目にデスマスク制作。 3.イタリア人医師アントンマルキ デスマスク持ち去る。 4.イタリア人医師アントンマルキ バートンの死後のデスマスクの販売予約。5.国王フィリップ1世 石膏製デスマスク25個、ブロンズ製デスマスク5個購入。 これは評判の良かったオルレアン公が、自らアングルに注文した作品。出来上がった際には、公はこの世を去っていた。 ・64.《肖像画と絵画のアルバム(画帖)》インド、デリー(?)1750-1760年頃 水彩、金、紙、絹(裏打ち)、革(装丁) ムガル朝インドの絵画は、手で持ち運べる大きさの写本に描かれた。肖像画(↓右)は、皇帝アフマド・シャー【在位1748‐1754)。(↓左)は、皇帝ムハンマド・シャー(在位179‐1748)。西洋の肖像作品とは雰囲気が違っていて面白い。 ・66.《クレオパトラ2世、またはクレオパトラ3世の肖像》エジプトで制作 前2世紀後半 大理石 アレクサンダー大王の死後、後継者たちによって帝国は分割され、王朝が開始した。エジプトはギリシャ人の支配にもかかわらず、土着の伝統が残った特殊な世界だった。ラゴスの息子で、アレクサンダー大王の将軍だったプトレマイオスの名を取って付けられた「プトレマイオス朝」も土着の習慣を尊重しないわけにはいかなかった。 こうした両義性によって、ファラオの継承者となったラゴスの息子一族では、男性・女性を問わず、その肖像が頻繁に制作された。このため各肖像の同定は容易ではなく、混乱したものとなっている。概して、構図はギリシャ様式とエジプト慣習の折衷となっている。 クレオパトラ2世はプトレマイオス6世の妻であったが、後にプトレマイオス8世と再婚した。このプトレマイオス8世は、彼女の連れ子を后としたが、これがクレオパトラ3世である。陰謀と暗殺が日常的な政争のさなかで、この2人の女王は権力への渇望と意思を貫いた。そのことがこの肖像の容貌から見て取れる。 大革命後にギロチンに架けれれることが信じられないような美人。人間の外面は内面を表さずということなのだろう。 ・72.《ホメロスの架空の肖像》イタリア・ローマ、メルラーラ通りのヴィラ・カエターニの擁壁の中から1704年に発見。イタリア・ローマで制作された原作に基づく 大理石(ベンチリコン産) 二大叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の作者に帰されているギリシャ詩の父・ホメロスは、盲目の老人と考えられてきた。 3.コードとモード 3a 男性の権力者―伝統と刷新 3b 女性の権力者―伝統と刷新 ・91.ヴェロネーゼ(本名バオロ・カリアーリ)(1528-1588)《女性の肖像》、通称《美しきナーニ》1560年頃 この作品がナーニ家にあったことは知られているが、この女性が何者なのかについてはまったく知られていない。ただ、左手の中指に金の指輪を嵌めていることと、右手を胸に当てていることなどは、男性に対するロイヤリティの現れだろうと思われる。 私がこの作品を見たのは、1991年に国立西洋美術館で開かれた「ルーヴル美術館特別展ー肖像表現の展開」であり、この画像は展覧会図録の表紙となっていた。 レンブラントは、聖書や神話を主題にした歴史画のほか、肖像画・自画像によって名声を博した。 この作品は一見、愛の女神ヴィーナスとキューピッドを描いた神話画に見えるが、ヴィーナスは、内縁の妻として後半生のレンブラントを支えたヘンドリッキェをモデルとして描かれ、またキューピッドも、彼らの娘のコルネリアがモデルと考えられる。 最初の妻サスキアを1642年に亡くしたレンブラントは、息子ティトゥスの乳母ヘールチェを愛人としたのちに、家政婦として雇ったヘンドリッキェと真の愛情を育み、彼女の肖像画を何点も手がけた。ヴィーナスの優しげな微笑みは、ヘンドリッキェの穏やかな人柄をしのばせる。 1789年のフランス大革命によってフランスを離れざるを得なくなったヴィジェ・ル・ブランは、イタリア、オーストリア、ロシア、プロシア、イギリス、スイスと欧州諸国を転々とせざるを得なかったが、この旅のお陰で、彼女は多くの顧客を獲得し、その名を国際的に高めることができた。 作品のモデルは、美貌と優雅な雰囲気で名高かったスカヴロンスキー伯爵夫人(1761-1829)だが、女帝エカテリーナ2世の女官長、ポチョムキン皇太子の姪で恋人だった。1781年に、1793年、スカヴロンスキー伯爵と結婚し、病勝ちの夫が亡くなると、ペテルブルグの宮廷に戻り、イタリア人リッタと再婚した。 ・106.フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・マルティネス(1746-1828)《第2代メングラーナ男爵、ルイス・マリア・デ・シストゥエ・イ・マルティネス(1788-1842)の肖像》1791年 ルイス=マリア・デ・シストゥエの肖像は、モデルの衣装の深みのある青色のために《青い服の子供》とも呼ばれ、ゴヤによる子供の肖像画の最も美しい作例の一つとされている。銘によれば、モデルは当時2歳8ヵ月である。 モデルは第3代メングラーナ男爵であり、スペイン国王カルロス4世と王妃マリア・ルイサを名付け親に持ち、のちにスペイン独立戦争の英雄として知られるようになる。この絵はルイス=マリアの唯一現存する肖像画であり、1928年までシストゥエ家に受け継がれ、その後アメリカの実業家ジョン・D・ロックフェラーJr. のコレクションに、次いでイヴ・サン=ローランとピエール・ベルジェのコレクションに収蔵されるという華々しい来歴を持っている。 控えめで親密な雰囲気の構図は、この幼いモデルに強い存在感を与え、無地の背景に浮き立つシルエットを包む光輪がモデルの存在感をいっそう強めている。深い青色と幅の広い飾り帯のばら色との組み合わせによる、非常に洗練された色使いは、イヴ・サン=ローランが1983年にデザインしたドレスにインスピレーションを与えた。 ・108.フランツ・クサファー・メッサ―シュミット(1736-1783)《性格表現の頭像》1771-1783の間 鉛錫合金 モデルは作者本人。心の病(うつ病)に悩んでいたメッサーシュミットは、このような顰め面を作品にすることで、病に打ち勝とうとした。 ・111.ジュセッペ・アルチンボルド(1526-1593)《春》1573年 アルチンボルドは。人の顔を動物や植物で表現する名人で、当時から人気があった。
by cardiacsurgery
| 2018-07-12 10:29
| 国外アート
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