これは2018年6月20日放送の「森鴎外 潔癖症はつらいよ」のメモである。

果物もしっかり加熱する。

【番宣】森鴎外には作家とは別に医者というもうひとつの顔があった。ドイツで初めて細菌を目にした鴎外はショックのあまり極度の潔癖症になってしまう。
細菌を徹底的に排除する鴎外の生活は現代医学で見るとどうなのか?
さらに鴎外が死ぬまで家族にすら明かさなかったある深刻な病とは?鴎外の残した作品を手がかりに鴎外の人生の選択と病との向き合い方を考える。
【出演】関根勤
カンニング竹山
堀ちえみ

跡見学園女子大学名誉教授・山崎一穎

北里大学名誉教授・檀原宏文
【司会】渡邊あゆみ
【放送内容】
1.若き日の森林太郎1862(文久2)年、島根県津和野で誕生

1881(明治14)年、史上最年少19歳で、東京大学医学部卒業して軍医に
2.鴎外の留学と潔癖症鴎外の極度の潔癖症は、ドイツ留学時代の自らの体験に基づいている。

鴎外は自室をキチンと整理しており、子供たちにもそのように指導していた。

1887(明治20)年、鴎外は衛生学を学ぶために、ドイツ(ベルリン)へ留学

ベルリンでの指導者は。細菌学者のロベルト・コッホだった。

鴎外はコッホから、下水道水の細菌調査を命じられた。

これは糞尿の下水道水なので、

鴎外が顕微鏡で見た時には、ショックがあった。

鴎外が見たのは、多数の各種細菌(らせん菌・コレラ菌・チフス菌)である。



森鴎外と北里柴三郎が、コッホの研究室で使った顕微鏡の倍率は1000倍であった。


これは日本で使われていた200倍の顕微鏡の5倍模様見えるものだった。

面白いことに、衛星学者の森鴎外は「菌を除外しよう」と考えたのに対し、細菌学者の北里柴三郎は「菌を飼ってやろう」と考えていた。

1888(明治21)年、26歳の森鴎外は日本に帰国した。

当時の日本は衛生状態が悪く、雨が降ると便所の汚水が井戸に流れ込む状態であり、帰国後の鴎外は「消毒」を広めることのの重要性を認識した。

ちなみに「消毒」として鴎外が重要視したのは、「加熱」と「抗菌」である。後者としては、便所の扉に触る場合、触った後でハンカチで拭うのではなく、触る前に別な紙で扉を拭いて、その紙を焼くように子供を指導していた。

なま物は口にせず、食材はすべて「加熱」する。

野菜は必ず皮をむく。

果物もしっかり「加熱」する。

鴎外が好んだ食べ物は、加熱消毒されている「焼芋」だった。
【近年の常識】「加熱」により、大切な細菌も死んで、健康を損なう。

「加熱」によって、糖質や脂質分解する「酵母菌」も死滅する。

これを防ぐには、生きたままの「酵母菌」を補充する必要がある。

これが発酵食品である。

「みそ」のような「発酵食品」では、「発酵菌」を生きたまま腸に届ける工夫が必要である。

具材を煮立てから、「みそ」を入れると、すぐに発酵菌が死んでしまう。

「みそ汁」などは、すぐに食べきることが大切である。
3.軍医・森鴎外と脚気
日露戦争の最中、兵士がある病気に罹り、それによる死者は約9万人に達した。

この疾患は「かっけ」と呼ばれていた。

患者の脚の特徴的な様子から「脚氣(かっけ)」と呼ばれていたのである。

これは陸軍軍医・森鴎外にとって見逃せない事態だった。

当時、脚気の原因は「細菌による伝染病」だと教えられていた。

そこで鴎外は、原因となる細菌を探そうとした。

ところが、「主食を白米からパンや麦飯に変えたところ、脚気患者が激減した」との報告がなされた。

これについて「白米はタンパク質が不足」「脚気病は窒素の容量の不足」という海軍軍医・高木寛の論文要旨も付いてきた。

そこで鴎外は、1889(明治22)年、「兵士食検査」を実施することとした。

群分け: 被験者の兵士を各6名をずつの3群に分け、それぞれ米食群、麦食群、洋食群とした。

方法: 各群の「たんぱく質摂取量」を比較した。

結果: 各群の「たんぱく質摂取量」は「米食群1」:「麦飯群2」、「洋食群3」だった。

42歳の鴎外は、1904(明治37年)年「日露戦争に第二軍軍医部長として従軍する」こととなっていた。

時間のない鴎外は、明治天皇への直訴に及んだ。

明治天尾は、1908(明治41)年これに応えて、5月30日に「臨時脚気病調査会官制の裁可文書」を公布させられた。

臨時脚気病調査会のメンバーとしては、広く研究者・軍医・民間の開業医などが選ばれていた。

この臨時脚気病調査会で「米ぬか」の「脚気の予防・治療効果」が発表された。

後から考えれば、「米ぬか」にはビタミンB1が含まれており。玄米を白米に精米する過程でビタミンB1が失われていたのである。


都築甚之助は、研究報告書の中で、フンクが発見した「ビタミン」について述べている。


ポーランドの化学者カシミール・フンクが新しい「生命の維持に不可欠な物質」を見つけ「ビタミン」と命名した。フンクは脚気の原因について研究し、1911年に米ぬかに含まれる化学物質が欠乏することによってこの病気が起ることを発見したと発表すると、1912年にこれを「重要な生命活動をつかさどるアミン」という意味の造語で「ビタミン」と名づけ、ビタミン摂取の重要性を主張した。これはビタミンB1であったが、その後ビタミンB2、ビタミンC、ナイアシン、チアミンなどを発見している。


ビタミンB1は、栄養を「神経や血管を動かすエネルギー」に変えるもの。

このビタミンが不足すると「神経や血管が正常に動かなくなり」、心不全に陥るのである。

その後、1915(大正4)年に「ビタミンA」、1919(大正8)年に「ビタミンC」、1922(大正11)年にビタミンDおよびEが発見された。

鴎外は、軍医を退任した後もこの「調査会」に出席して、脚気の原因がビタミンであることだけは確認していた。
4.秘められた森鴎外の結核
鴎外は多忙で余裕のない陸軍軍医の職務の他に、自宅では作家の仕事に打ち込んでいた。

鴎外が「舞姫」などの著作に打ち込んだのはこの頃である。

1907(明治40)年、40歳の鴎外は突然喀血した。


鴎外には、19歳の時に「胸膜炎」を患った既往がある。

20年以上たって、再発したのである。

当時「結核菌の感染者」にとって、大きな問題があった。

結核は、「みんながそのことを非常に恐れていた病気」すなわち「社会から差別を受ける病気」だったのである。

鴎外は、自分の子どもたち(於莬・茉莿・杏奴)に知られることを恐れていた。

鴎外は「何が何でも病気を隠し通さなければ」と思っていた。

鴎外の戯曲「仮面」は、このことが主題になっている。


大学生・山口栞。

意志を強くして、貴族的に、高尚に、寂しい、高い処に、身を置きたいというのだ。

その高尚な人物は「仮面」を被ってゐる。


足のむくみ。

8ヶ月後

僕の左胸に何物かがある。寒ごとにちくちく痛む。

今これを医者に見せる。胸も腎も健全だと云わぬことは明白である。

ここにどんな名医にも見てもらわないという結論が生ずる。

三男・類と次女・杏奴への感染を恐れた鴎外は、二人を家庭教師に預けた。


ドイツ留学中の長男・於莬への手紙には「腎不全になったが、心配ないので帰国するな」と書かれている。

1922(大正11)年7月0日、森鴎外・永眠、享年60。

森鴎外記念館

自宅と観潮楼

自宅の庭に立つ鴎外の父(左)と弟(右)。
美術散歩 管理人 とら