これは府中市美術館で開催中の「長谷川利行展 七色の東京」のまとめ。
《青布の裸婦》1937年 個人蔵
《夏の遊園地》1928年 個人蔵
関東大震災から太平洋戦争の直前まで、昭和初期の東京を歩き回り、怒濤のように描きまくった画家がいた。近代化が進む荒川・隅田川沿い、千住のガスタンクやお化け煙突。隅田公園にできたばかりの屋外プール。あるいは浅草の神谷バー、カフェ、地下鉄の駅の賑わい。その街に暮らす、カフェの女給や浅草の芸人、質屋の子守といった無名の人々。復興進む大東京の光と影を、七色に輝く絵の具で描きとめた。 長谷川利行(1891-1940)、通称リコウ。京都に生まれ、20代は短歌の道を志し、30歳を過ぎてから上京。ほとんど独学と思われる油絵が二科展や1930年協会展で認められた。しかし生活の面では、生来の放浪癖からか、浅草や山谷、新宿の簡易宿泊所を転々とするようになり、最後は三河島の路上で倒れ、板橋の東京市養育院で誰の看取りも無く49年の生涯を閉じた。
《水泳場》1932年 板橋区立美術館蔵
この絵からは、隅田川沿いのプールに集まる人々の話し声やざわめきが聞こえてくる。速描きで、踊るような線の重なりと色彩から、このざわめきが生まれているようだ。困窮を極めていた利行は、この絵を描いた1932年は山谷の簡易宿泊所や知人宅を転々としていた。そこでは大きい絵は描けないので、この絵も隅田川のほとりの友人画家のアトリエで30分で描かれたという。
利行の絵はその壮絶な生き様からは想像できないほど、明るい輝きに満ちて、時に幸福感さえ感じさせる。奔放に走る線、踊るような絵の具のかたまりが、行く先々の現場で描いた利行の目と手の動きをそのまま伝えている。
本展では、近年の再発見作《カフェ・パウリスタ》と《水泳場》、約40年ぶりの公開となる《夏の遊園地》、そして新発見の大作《白い背景の人物》など、代表作を含む約140点で利行の芸術の全貌を紹介する。
《カフェの入口》1930年 府中市美術館蔵
《白い背景の人物》1937年 個人蔵
《カフェ・パウリスタ》1928年 東京国立近代美術館蔵
《靉光像》1928年 個人蔵
【参考】
長谷川利行 @日曜美術館
ブログこれは今朝、2017/03/12(日) 09:00〜09:45の日曜美術館「今が いとおし〜鬼才 長谷川利行〜」のメモ。
【要旨】1930年代、東京中を歩き回り、機関車庫やガスタンクなどの風景をはじめ、盛り場の踊り子やウエイトレスなど名もなき人々を描き続けた画家、長谷川利行。街角やカフェなどの現場で猛烈なスピードで描く利行の絵は、独創性に溢れていた。簡易宿泊所などに寝泊まりしながら、描いた絵を惜しげもなく宿代や、酒代として売った利行。長谷川利行の破天荒な暮らしぶりを浮かび上がらせ、その独創的な絵の秘密と魅力を探るのがこの番組のねらいである。
【出演】美術評論家・原田光,星裕典,大衆演劇研究家・原健太郎,不忍画廊会長・荒井一章,福井龍太郎,伊東敏恵昭和初期の東京を誰にもまねできない独創的なスタイルで描き留めた画家がいた。その名は、長谷川利行。通称「利行」と呼ばれていた。利行はこんな短歌を残している:妻もなく子もなく家もなくただ絵を描く。利行が絵のモチーフに選んだのは、関東大震災からの復興に取り組む「大東京」を支える目新しい造形物。
《タンク街道》
隅田川沿いの東京ガス千住事業所の円筒形のガスタンクをな正面に見据えた光景。親しい友人だった詩人で画家の矢野文夫は、利行がこの画を描く姿を見ていた。利行は台風のような凄まじさでチューブのまま絵具をビュッビュッとなすりつけ、ナイフで削り、咆哮しながら描き続けた。紅朱緑の原色、爆発するような筆勢の激しさ、見ている矢野は圧倒された。
《赤い汽罐車庫》
昭和初期既に環状運転を始めていた東京の山手線。その駅の一つ田端駅付近の風景も利行のお気に入りだった。構内には機関車の車庫があり、たくさんの蒸気機関車が並んでいた。長谷川が描いたのは、赤茶けた地面と機関車、その前にかたまりうごめく真っ黒な機関車。
渥美清は戦後この絵を展覧会で見て魅了された。渥美曰く:仕事が思うようになかったあの頃西日のさし込む田端の下宿の赤ちゃけた畳に寝転んでアー金があったら仕事にありつけたらと鬱々としていた。不図した事で魅かれる様に観た《田端汽罐車庫》と言う絵があった。この人がこの絵を描いた時田端は寒かったのかお腹が空いていなかったのかあの仕事のなかった田端の夕暮れを思い出すといつかそれが長谷川利行の田端風景となって浮かんでくる。私に絵などわかるわけがない。ただいつまでも忘れられない絵がこの世にあるものだと思う。
明治24年京都に生まれた長谷川利行は、もともと文学青年で20代は絵よりも短歌に打ち込み歌集も出している。上京していた利行は大正12年に起きた関東大震災を経験している。利行が本格的に絵を描きだすのはこの大震災の後からで、30代になり画家として活躍を始めた。その頃利行は、田端駅に程近い建物の離れの物置小屋で暮らしていた。利行は、大東京の盛り場の新しい風景を次々絵にしていった。
《地下鉄道》
日本で初めて本格的に走った地下鉄の光景も描いた。これは、浅草駅の構内改札口付近の人だかり。高い天井の下を大勢の人たちが行き交っている。和服姿の女性や法被を着た職人たち。都会にうごめく群衆の姿である。当時二科展などで受賞していた利行には、絵の理解者からの資金援助もあったが、それだけでは足りず自ら絵を売り込み生活費を稼いだ。
フランス留学を経て後に二科会の重鎮となった画家東郷青児の思い出:私の家の玄関に座り込んで絵を買わなければ金輪際動かなかった。根負けして僅かばかりの小銭を掴ませると最敬礼して引きさがるのだが四五日すると絵に加筆したいからといって持ち出し売り飛ばすということをやった。その手口はまことに言語道断で、長谷川が来ると女房も鳴りをひそめて玄関に出ようとはしなかった。
《岸田国士像》
新劇運動を指導した劇作家岸田国士。岸田も利行の被害に遭った。親友の矢野文夫の紹介で利行は岸田の肖像画を描いた。ネクタイをして胸にハンカチーフがのぞく正装の岸田国士。手を組みどこかかしこまった表情である。利行はこの肖像画をきっかけに何度も岸田に金を強要した。あるとき「先生ほどの大家が私にくれる小金の無い筈はない」と居直り「それではそこの書棚の本を持って行き給え」とつっぱなすと「ああそうですか一寸大風呂敷を貸して下さい」と云い利行は書棚の本を片っ端から大風呂敷に投げ込んで悠々と立ち去った。
《前田夕暮像》
定型にとらわれない短歌を唱えた歌人前田夕暮は肖像画を押し売りされた。夜の十時頃突然三十号大の画布を担ぎこんで来て前田に肖像を描かしてくれというので少し驚いた。明日にしてくれといったがぜひ今夜描くといってきかない。書斎にあがってみると画布を壁に立てかけてじっと待っていた。そして藤椅子に腰を下ろした私の顔を暫く凝視していた彼は忽ち嵐のように画布に絵具をなすりはじめた。前田はこの時彼の凄まじい原動力を持った縦横無碍の霊ある手を見た。彼の手はただ狂暴に暴れ回り狂い回った。そして約一時間半で描き上げてしまった。それから前田は全く彼を不気味なる天才と呼ぶようになった。
《靉光像》
肖像画の傑作の一つ後輩の画家だった靉光の肖像。利行は靉光の古いキャンバスとパレットを使って僅か30分で描いた。無造作に見える筆さばきで画家デビューしたばかりの若者の希望と不安とをあわせ持つ表情が見事に描き出されている。
《カフェ・パウリスタ》
昭和初期銀座にはデパートが建ちしゃれた洋装のモダンガールいわゆる「モガ」が目抜き通りをかっ歩した。華やかなネオンがともる夜の盛り場ではカフェやバーが賑わっていた。利行はカフェに通いこうした新たな風俗を描いた。「カフェ・パウリスタ」は、銀座をはじめいくつもの店舗を持っていたカフェ。開店前だろうか。客の姿はなく給仕する女性たちばかりが並んでいる。
《カフェの女》
利行が現場で素早く描いたエプロン姿のカフェの女性の肖像。
《酒祭り・花島喜世子》
当時東京で最先端の歓楽街だった浅草には、映画館や劇場などが軒を連ねていた。浅草で一躍人気芸人に躍り出ようとしていたのが榎本健一(エノケン)などが中心となって結成した劇団「カジノ・フォーリー」は、歌や踊りにギャグやコントを織り交ぜ人気を博した。カジノ・フォーリーの花形スターの一人がエノケンの妻となった花島喜世子。派手な衣装を着て頭を飾り、どこか古代ギリシャの女神を思わせる。
《大和家かほる》
エノケンが浅草で活躍していた昭和の初め、カジノ・フォーリーの隣は「木馬館」という名前の劇場で、演じる方が若い美人だったので、男たちが劇場に押し寄せた。利行も熱狂した。安来節のスターの一人が大和家かほる。この絵を描いた時も、利行の傍らには親友の矢野文夫がいた。利行はカブリ付きに陣取り、小型のスケッチ箱を開き、安来節を口ずさみながら酔いも手伝って烈しい筆勢で筆を走らせたという。
《少女》
この画では、素朴な線で思春期の少女の初々しい体と優しげな顔が描き出している。利行には、義理堅いところがあって、人に何かさせると必ず画を与えた。例えば、これから絵を売りに行くのだがそこまで行く電車賃がないから貸してくれという。貸してやると、ではこれをとってくれと他の絵を差し出すのだった。利行は自らの画を僅かな金で人に与えたが、描き捨てた作品はすでに彼にとってなんらの魅惑でもなかったのである。さまざまな人の手に渡った利行の絵。近年になってからも思わぬところから発見されている。福井龍太郎さんの家には長谷川利行のものと言われる絵が長い間物置部屋に放置されていた。福井龍太郎さん曰く:父親の代に家は間貸しをしていて一時部屋を借りた利行が宿代として絵を置いていったと聞いていました。その絵が前述の《カフェ・パウリスタ》。
どのぐらい家賃ためたか分からないのですが。払ってくれないので出てってもらったわけですね。その精算の時に、お金の代わりにその絵を置いていった。この画はテレビの鑑定番組で本物とされ、現在は美術館に収蔵されている。
《水泳場》
不忍画廊の荒井一章さんは、数十年来行方が分からず「幻の作品」と言われていた絵を関西のある家で見つけた。それが隅田川近くに造られた東京市の水泳場の画。この水泳場は関東大震災の復興事業の一つだった。荒井さん曰く:泳いだり飛び込んだり、大勢の人々のざわめきが聞こえてくるこの画は、庶民の喜びをうたい上げた生命賛歌である。
《新宿風景》
震災後に急成長した新興の繁華街新宿は、私鉄が次々に開業し西へ西へと膨張する東京の中心地となった。利行は昭和12年ごろ新宿の木賃宿に住み着き、新宿の街と人々を描いた。新宿の大通りの風景には、ビルが立ち並び電柱や看板などが目につく。黒く小さな人々の群れがうごめいている。利行が新宿に来たのは一人の人物との出会いからだった。新宿に画廊を開いた天城俊彦。利行の才能を見込んで絵を描かせ次々に個展を開いた。
《ノア・ノア》
画廊近くの喫茶店ノア・ノアの店員だった女性。天城はこう思い出をつづっている:ノア・ノアの少女は午前中はタイプを習いに学校へ行き午後は働いて老母を養っていた。ある日朝から店に出て来て彼のモデルとなった。彼は憑かれた人のように鋭く深くモデルを凝視しつつ画筆を握った。筆は対象をつかんで走る。筆を捨てるといきなり絵の具を指につけてこするチューブが筆のかわりに赤黄ブラックの原色を奔流させた。画は一時間にして成った。このころ利行は天城の庇護もあって精力的に風景・静物・ヌードなど多彩な絵を描いた。
《青布の裸婦》
青い布と黄色い背景の間に女性が気持ちよさそうに横たわっている。
《伊豆大島》
これは伊豆大島の風景。幾筋もの波の線そしてその上に一本だけ引かれた山の線。生き生きとした簡素な線だけで風景が鮮やかに浮かび上がる。新宿の画廊はやがて閉鎖され、利行はまた隅田川に程近い簡易宿泊所に寝泊まりするようになる。利行の一日朝八時には宿を追いたてられる。小さな絵具箱を抱えて即興的に写生し制作し巷を彷徨しその日の糧を得るために友人知人を訪ねる。利行はそうした日々を死ぬまで続けた。
《荒川風景 ガラス絵》
利行が矢野文夫と共に頻繁に訪れたのが荒川付近だった。これは利行が数多く手がけたガラスに絵を描くガラス絵。荒川にいくつもの船が浮かび、白と青の水面が鮮やかである。
《荒川風景》
このあたりには昭和30年代まで火力発電所の4本の煙突がそびえていた。見る場所によって一本になったり二本になったり三本四本にも見えるあの「お化け煙突」は荒川と荒川放水路の作る三角州の中に聳えていた。お化け煙突は利行の好みのモチーフだった。荒川の向こうに遠く4本の煙突が見える。手前には煙突に呼応するかのように電柱が立っている。もう夕暮れなのだろう。空も川もほんのり赤く染まっている。実際このころ利行の胃はがんに侵されていた。昭和12年日中戦争が始まり、戦争は泥沼化し、人々の暮らしは厳しさを増していった。胃がんは容赦なく利行をむしばみ、昭和15年ついに路上で倒れた。
《矢野文雄氏肖像》
利行が生涯つきあい続けた親友の矢野文夫の肖像。激しく吹きすさぶような筆のタッチである。病に倒れた利行は矢野に葉書を出した。利行が入院したのは東京・板橋の養育院。矢野はお土産を持って見舞いに訪れた。「庭に出よう」と利行は云いよろよろ立ち上がった。白衣から三四寸露出した利行の脛が蚊のように細かった。花畑には白いマーガレットの花が一面に咲いていた。利行はこの養育院でひっそりと亡くなった。享年49歳。
美術散歩 管理人 とら