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「風神雷神図を描いた男 天才絵師・俵屋宗達の正体」BSプレミアム
(初回放送)2017/10/31 21:00~22:29 (再放送)2018/4/19: 16:30~17:59 【番宣】金色の空に2体の神が舞う、国宝「風神雷神図屏風」。描いたのは"琳派の祖"とされる、江戸時代の絵師・俵屋宗達。斬新な発想や独特の技法はそれまでの日本の絵画の常識を覆し、現代のアーティストにも多くの影響を与え続けている。その宗達、実は多くの"謎"に包まれている。いつどこで生まれ、いつ死んだのか?どんな人物か?全く分かっておらず、"日本美術史上最大のミステリー"とも言われているのだ。女優の中谷美紀さんが、宗達が活躍した京都で名作の数々を拝見。最新の研究成果を基に天才絵師・俵屋宗達の正体に迫る。 【ゲスト】河野元昭、奥平俊六、土屋禮一、林進 【出演】中谷美紀 【語り】中山庸介 1.宗達の人生:生年、住所は不明 2.養源院襖絵(重要文化財) ・《白象図》おらかでユーモアに富んだ杉戸絵。 ・光琳の《風神雷神図屏風》(重要文化財)ではすべてが画面内に収まっているが、宗達の《風神雷神図屏風》(国宝)は、養源院の《松図》(重要文化財)と同様に、一部が屏風の外に拡がっていく。 ・平家納経見返絵《鹿図》 4.宗達の自筆書状:宛先の「快庵」という人物は不詳。宗達が醍醐の蒸筍を5本受け取ったことの礼状である。この手紙の筆致は、濃淡のアクセントが目立つ光悦流。 千利休の息子「千少庵」が「妙持老」に宛てた手紙が残っている。妙持老は京都西陣の織物師、井関七郎右衛門(1620没)で、屋号を紋屋といい、井関家二代目宗帖の兄弟ではないかと推測されている。この手紙で注目すべきは「俵屋宗達」の名が見えることである。宗達の伝記を知る文献史料はほとんどないなかで、この手紙は宗達が「俵屋宗達」と記されている唯一の史料なのである。これによって宗達の屋号が俵屋であることも明らかになった。 手紙の内容は、少庵が宗達の振舞に招かれ、妙持老にも同道を呼びかけたものです。「振舞」は「もてなし、饗応」といった意味で、おもに料理を意味するが、少庵を招いた宗達の「振舞」は茶の湯と考えられている。 6.仮名草子「竹斎」 「竹斎」は元和年間(1615~24)に刊行された仮名草子で、藪医者竹斎が京見物した時の話が書かれている。ある寺の上人の装束を述べた箇所に「帯は二条の百足屋、頭巾は三条の唐物屋甚吉、数珠は四条寺町のえび屋」などと並べた後に、「あふぎは都たわらやがひかるげんじのゆふがほの巻えぐをあかせてかいたりけり」とある。俵屋は扇を製造販売する店で、その扇は源氏物語の夕顔の巻を濃彩で描いた」という絵で都で名が高かった。 17世紀は俵屋宗達とその工房の活躍期でもあった。仮名草子「竹斎」 に記された俵屋は、扇絵制作を得意レパートリーとする絵屋であり、その主宰者である宗達自身 によるとみられる扇面画も複数残っている。宗達や俵屋工.房による扇面画、特に扇面屏風類の現存遺例も少なくなく、なかでも.醍醐寺の重要文化財《扇面貼交屏風》二曲一双 が有名である。 書かれている伊勢物語第75段の「大淀の はまに おふてふ みるからに こころはなきぬ かたはらね共」は、「大淀の浜に生えているという海松(みる)ではありませんが、あなたのお顔を見るだけで心は慰みました。親しく語り交わさずとも、これでもう十分です」との意で、男は女からやんわりと断られている。 8.杉本家住宅《秋草図屏風》 9.国宝《源氏物語関屋・澪標屏風》 10.国宝《蓮池水禽図》京都国立博物館蔵 12.重要文化財《舞楽図》醍醐寺蔵 13.門倉素庵と俵屋宗達 父「了以」亡き後、角倉家の家督を継い「素庵」は、幕府より淀川通船輸送管理者や木曽山巨材採運使(尾張藩)、近江国坂田郡代官の任命されるなど隆々たる事業展開を遂げたが、寛永四年(1627)に突然、予期せぬ病ライ(ハンセン病)に倒れ、家業を息子達に譲ることになった。 素庵はこの不運を宿命として受け入れ 嵯峨千光寺跡にひっそりと隠棲した。その後、追い打ちをかけるように素庵は光を失った。 それでも素庵は師・藤原惺窩から託された 「文章達徳録」の増補と「本朝文粋」の校訂を続行するなど、命尽きるまで学術と文化の追求に情熱を注いだ。 そんな姿をみた宗達は、素庵が校訂した「本朝文粋」を古活字版で刊行することで、素庵の大恩に報いることを決心した。それは宗達にとって絵筆活動を辞するほどの決意だった。 素庵が校訂した「本朝文粋」は、寛永七年(1630)に出版された。 すると次いで大名、門跡寺院、町衆などから注文が入り、絵師を辞めることが許されなくなった。 その後、宗達は寛永九年から十年にかけて《風神雷神図屏風》を描き、益田家本《伊勢物語図色 紙》36図を描くなど、親王、公家、僧侶、大名、連歌師、町衆たちから注文が相次ぎ、絵師・宗達の名は都から全国に轟いた。 素庵の墓は角倉家の菩提寺の二尊院ではなく、素庵の遺命により、風水地理に基づき 嵯峨化野念仏寺の竹やぶの中に建てられた。そしてその墓から、角倉一族の繁栄と宗達の活躍を見守っている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-04-19 20:56
| 国内アート
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