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中国王朝英雄たちの伝説「反逆者 挫折と革命~太平天国から孫文へ~」
[BSプレミアム] 2018年3月21日(水) 午後9:00~午後10:00(60分) 内容佐々木蔵之介が迫る謎。始皇帝以来続く皇帝の時代を終わらせた孫文の辛亥革命。孫文が太平天国の乱を研究していたことが注目されている。何を学び、何を学ばなかったのか? 詳細太平天国の乱の痕跡は清が徹底的に抹消。謎に包まれてきた。ところが近年、新事実が続々と報告されている。住宅の壁の下から発見された巨大壁画には独特のユートピアが描かれていた。 その取材が外国メディアに初めて許された。また、民衆に宛てた「げき文」が見つかり、中国初の「社会主義」とも言える理想を掲げた事がわかった。 その志を受け継いだ孫文は、乱を分析、その失敗を乗り越えようとする。辛亥革命成功の秘密はここに? 【出演】佐々木蔵之介,浅田次郎,【語り】中條誠子 洪秀全の生い立ち 洪秀全(こうしゅうぜん)は1814年、広東省広州の官禄坿の農家の三男として生まれた。洪秀全の家族は客家(はっか)に属していた。客家にはよそ者という意味があり、過去の王朝が滅んだ時などに故郷を追われ流民となった漢民族の人々である。18世紀以降、客家は広東省に多く移住。その大半が大地主のもとで小作農として働いていた。客家の人々は地元の小作農よりも安い賃金で働いたため、働き口を奪う者として敵視されることも多く、自衛のためにかたまって暮らしていた。 家に貧しかったものの洪秀全は幼い頃から勉強熱心だったため、両親は自分たちの食べ物を減らして塾の費用を工面した。全ては洪秀全を科挙に合格させるためだった。 科挙は中国で7世紀から続いてきた官僚の採用試験。主な授業は儒教と詩作。男性であれば身分を問わず受験をすることができた。 洪秀全は7歳から塾に通い、14歳から15年間で4回科挙を受けたものの全て落ちてしまった。洪秀全が通った塾には優秀な教師はおらず、勉強は半ば独学だった。 この頃、科挙の試験制度に深刻な問題が起きていたことが近年分かってきた。科挙を受ける学生の管理をする「学政」と呼ばれる官僚がいて、広東学政だった李泰交が1834年の正月に自殺。自殺をした時の遺書にはこう書かれていた。 答案用紙に記しが書き込まれ、採点監がそれを目印に手心を加えているようです。一目見ただけでは分からない巧妙な暗号が書きこまれたものもあります。こうした不正をする受験者も愚かですが、それを受け入れた採点監も愚かです。こんな不正を取り締まることができなかった私は死をもって詫びるしかありません。石に落ちる一滴の水のようなものですが、誰か私の声に耳を傾けて下さることを願います。 受験者と採点監が共謀した深刻な不正。背景にあったのは科挙の倍率の急激な上昇だった。17世紀には人口8000万人前後だった清は、洪秀全が生きた19世紀には4億に。科挙の試験がますます狭き門になる中、実力での合格を諦め不正を働くケースが増えていた。不正を告発した監督官の自殺。清王朝は公にしなかったが、受験生だった洪秀全には伝わっていた可能性を否定できない。 清王朝の支配に綻びが見え始めた19世紀。この頃、中国の利権を狙い欧米列強が侵出。1840年、イギリスとの間でアヘン戦争が勃発。清は大敗。時代は大きな転換点を迎えていた。 キリスト教との出会い 19世紀、欧米の宣教師たちは積極的な布教活動を行っていた。洪秀全がキリスト教と出会ったのは19歳の時。宣教師が街角で配布していた布教パンフレットを手にしたのがきっかけだった。 儒教は嘘に満ちていませんか?みなさん幼い頃から儒教の勉強を続けてきたのに70~80歳になっても科挙に合格できない者がいるなんて。(布教パンフレット「勧世良言」より) 洪秀全はこのパンフレットをずっと持ち歩いていた。 23歳の時、洪秀全は3度目の科挙の受験に失敗。失意の中で帰宅した自宅で不思議な夢を見た。 夢の中、天にのぼった洪秀全。金髪で黒い服を着た一人の老人と出会った。「洪秀全よ、まずそなたの体を清めよう」そういって老人は洪秀全の内臓を全て取り去り、代わりに新しい真っ赤な臓腑を埋め込んだ。そして老人は剣を渡して「そなたの天命はこの剣をふるい腐敗した世を正しい方向に導くことだ」と言った。(「太平天日」より) その後、もう一度科挙を受験するも不合格に終わった洪秀全。ついに、夢の教えに従うことを決意した。 洪秀全は独学でキリスト教を学び始めた。その新しい価値観こそが腐敗した世を変える力だと信じたのである。 上帝教設立 洪秀全は30歳の時に上帝教という教団を設立。当初は聖書に基づく不況をしていたが、信者がなかなか集まらなかった。 洪秀全は上帝以外は神ではないとし、儒教や道教の寺院を仲間と共に破壊。さらに、そこに神のお告げが下り、洪秀全は神の息子でありキリストの弟だと言い出した。異端ともいえる教えだったが、多くの人々が洪秀全の言葉に耳を傾け崇めるようになった。3年で信者の数は2万にもおよびました。その信者のほとんどが貧しい客家の人々だった。 客家の人々が加わった背景には清への強い不満があった。アヘン戦争で破れ、巨額の賠償金を背負った清は土地の税を増額したが、その負担が小作農だった客家の人々に重くのしかかった。 太平天国の乱 1851年、37歳の洪秀全は兵を挙げた。太平天国の乱の勃発である。突然起きた反乱に清が後手にまわる中、洪秀全たちは南部の都市を次々攻略していった。 太平天国軍のことを清は「長髪賊」と呼んだ。国が決めた髪型・辮髪を結っていなかったからである。辮髪は清を支配する少数民族、満州族独特の風習で、17世紀に清王朝ができて以来、国の大多数を占める漢民族を始め全国民に強制されてきた。 しかし、ほとんどが客家、すなわち漢民族だった太平天国軍の兵士は腐敗した清の支配に反発し、辮髪をほどいたり切り落としたりした。太平天国の乱は満州族を倒し漢民族を復興させる「滅満興漢」の戦いでもあった。 太平天国軍が陣頭に掲げていた旗には、「専斬臨陣退縮」と書かれている。「陣にのぞんでもし下がればもっぱら斬る」すなわち「敵前逃亡者は即座に殺す」ということである。 ![]() 2001年、太平天国の意外な遺品が見つかった。発見者は地元の歴史研究者・李強。見つかったのは「太平王洪秀全檄文」。これは洪秀全が人々に反乱への参加を呼び掛けたビラである。 檄文の発見は大々的に報じられた。太平天国の乱に関する記録は、清王朝が燃やしてしまったため極めて貴重なもの。ビラは反乱の初期に出されたものだが、強調されているのはキリスト教の教えでも満州族への反発でもなく、どんな新しい国を築くかということだった。 我々は一つでも優れた技能がある者は身分を問わず千人のリーダーにします。富める者が分け与え貧しい民が決して見捨てられないようにします。もし権威をかさに貧しい者から略奪する者があれば、誰であろうと即刻処刑します。 身分を問わずに人材を登用する、貧富の差をなくす。洪秀全は全く新しい平等な世の中を築くことを宣言していた。 太平天国の軍事行動 翌1851年1月11日、拝上帝会は本格的に軍事行動を始めた。太平天国という国号もこの年から使っている。 ![]() ここから南京へと進路を変えた太平天国軍は、2年で南京を陥落させ、天京と改名して太平天国の首都とした。意外なことに洪秀全は皇帝の椅子を望んだという。 ![]() 雑草を食べなければならないほどの状況で兵が暴徒化し、もはや敵と戦うどころではなくなった太平天国軍は清軍に敗退した。洪秀全自身、1864年に餓死同然の状態で病死を遂げた。 そして洪秀全の死からおおよそ50日後に、天京が陥落し太平天国の乱は終った。 このときだけで、天京にいた一般人を含めた20万人が虐殺された。洪秀全の遺体は掘り出されて焼かれたといわれている。 孫文 太平戦後2年で生まれた 第二の洪秀全とも呼ばれた孫文は「太平天国戦史」日本で出版した。この本の中で、孫文は洪秀全には戦う準備が不足していたとしており、具体的には①外交力の不足、②革命資金の不足の2点を挙げている。 孫文は、1911年辛亥革命に成功し、最後の皇帝・溥儀が退任させ、清朝は滅亡した。孫文は「五族共和」を唱え、額には「天下為公」と書いた。 ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-03-22 12:55
| 映画・写真
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