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アンカット本
高校時代の友人で、米国や日本の大学で文学の教鞭を取っていた男がいる。彼は、時々自著を送ってきてくれる。私も停年まで大学にいたが、専門が違うため、彼が送ってくれた本を最後まで読むことはきわめて大変である。 もうひとつ大変なのは、彼の最近の著書が「アンカット本」となっていて、読む前に「本のページを切る」操作が必要なのである。実際には、ペーパーナイフを使って本の袋になっている部分(折丁)を切っていくのである。ちなみに夏目漱石の「吾輩は猫である」の初版本は「アンカット本」だったとのことである。 三つの純心物語 今回、暮れに届いた本のタイトルは、「三つの純心物語 鴎外・サリンジャー・カーヴァ―」で、森鴎外の「我百種」1909、J. D. Sallinger<The Catcher in the Rye> 森鴎外の生涯 ・1862年:現島根県津和野町にて出生。代々津和野藩の典医をつとめる森家の嫡男。 ・1872年(10歳):父と上京。 ・1873年(12歳):第一大学区医学校予科入学。 ・1881年(19歳):本科卒業。陸軍軍医副(中尉)として東京陸軍病院に勤務。 ・1884年(23歳):ドイツ留学。 8月24日、横浜港から出国。10月7日にマルセイユ港に到着。 ・1886年3月-1888年4月:ミュンヘン。ミュンヘン大学のペッテンコーファーに師事。 ・1887年4月-1888年7月:ベルリン。北里柴三郎とともにコッホに会いに行き、細菌学の入門講座を経て「コッホ衛生試験所」に入った。ベルリンでドイツ人女性「エリーゼ」と出会った。 ・1888年7月5日:鷗外はベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドンやパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。9月8日横浜港に着き、午後帰京した。 ・1888年9月12日:帰国直後、ドイツ人女性「エリーゼ」が来日して滞在。 ・1888年 10月17日:ひと月ほどで「エリーゼ」が離日し、鴎外は失恋した。鴎外は「エリーゼ」と文通をするなど、彼女を生涯忘れることがなかった。 ・1889年2月(鴎外28歳):「赤松登志子」と結婚。1990年長男於菟誕生。 ・1890年2月:処女作「舞姫」を発表。これは「エリーゼ」との失恋を素材の一つとした作品。 ・1990年10月:「赤松登志子」と離婚。 ・1902年1月(鴎外41歳):「荒木志げ子」と結婚。 ・1909年(鴎外48歳):「我百首」発表。 ・1922年7月9日(61歳):森林太郎として死去。 森鴎外とエリーゼ・ヴィ―ゲルト 1888年9月12日‐10月17日のエリーゼの日本滞在は大変な36日間だった。 森家はエリーゼをドイツに送り返すように、妹婿・小金井良精を代理人としてエリーゼと交渉を始めたのが、来日12日後の9月24日だった。その間、鴎外は職務の合間に築地の精養軒ホテルに投宿中のエリーゼと逢っていたと思われる。 1888年7月、3年半のドイツ留学を終えて帰国する鴎外は、森家が勧める赤松登志子との政略結婚を拒絶するため、エリーゼを日本に連れて行って、結婚しようと考えた。 エリーゼが乗船する日本行きの船が出るブレーメン港に、ベルリンから鴎外の帰国荷物とエリーゼの家財道具を送り、エリーゼは1888年7月25日に出港した。 鴎外は、一緒の船に乗っていた上司の石黒直悳に、エリーゼを後続の船に乗せたことを告白し、善後策を相談した。これに対する石黒の判断は「結婚するなら軍医の職を辞し、3年間の留学費を弁済する必要がある」という厳しいものだった。森家には留学費を弁済する経済力はなく、鴎外は森家を勘当される可能性もあった。船がサイゴンに着くころには鴎外はすっかり食欲を失い憔悴していた。 小金井とエリーゼの話し合いが暗礁に乗り上げた時、エリーゼは理性的な判断を下し、身を引いてドイツに戻ることにした。 悲劇的な過ちを犯した鴎外は、一生エリーゼの「こころ」の償いをしなければならなかった。 鴎外は、数え年29歳のときに「舞姫」を書き、48歳になって「我百首」で若い頃の出来事を総括した。 我百種の構造 三つの純心物語の「第1章:森鴎外-我百首」では、この百首を若い頃の出来事を総括するという見地から、次のように分類している。 A導入部(001-031) 序 a(001-005) 破の序 b(006-012) 破の破 c(013-017) 破の急 d(018-024) 急 e(025 031) B展開部(032-062) 序 a(032-036) 破の序 b(037-043) 破の破 c(044-48) 破の急 d(049-055) 急 e(056 062) C集結部(063-093) 序 a(063-067) 破の序 b(068-074) 破の破 c(075-079) 破の急 d(080-086) 急 e(087 093) Coda f(094-098) Coda g099-100) 我百種の内容 友人の著書「三つの純心物語」には、「我百種」のそれぞれの和歌の意味が、上記の構造別に詳しく解説されている。 私は、ネットに出ている「我百首」をプリントアウトして、その解説を参考にしつつ、読み解いていった。 それはとても面白い作業だった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2018-01-04 21:40
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