「西太后」の 初回放送 2017/1/25
「西太后」 再放送 2017/8/26
「西太后」再々放送 2017/12/26
「西太后」の
ブログ記事「楊貴妃」の
ブログ記事 「趙 姫」の
ブログ記事以上のように、「西太后」については再放送時に一度ブログ記事を書いているが、不十分と思われる記述もあったので、ここに再々放送時の画像を中心とした記事を残しておきたい。
ナビゲーター:戸田恵梨香
後宮
隔離された場所
礼記「男子居外 女子居内」 Such concepts of inner and outer had their origins in the classic Liji 礼記(Book of rites): “The men occupied the exterior; the women the interior”男子居外、女子居内; “The men should not speak of what belongs to the inside (of the house), nor the women of what belongs to the outside”男不言内、女不言外.
悪女:以下の4人のうちの3人を「三大悪女」と呼ぶ。
・呂雉(呂后)・武則天(則天武后)・西太后・妲己
これに毛沢東夫人の江青を加えて中国四大悪女と呼ぶ向きもある。
西太后は、悪女だった!?
西太后は、権力を独占していた!?
西太后は、美食三昧だった!?
西太后は、反対者を皆殺しにした!?
戊戌の政変(1898年)
新事実 光緒帝の髪から毛髪から多量のヒ素が検出された。
西太后は光緒帝をヒ素で毒殺!?
伊藤博文
伊藤博文と西太后 戊戌の政変前日、光緒帝が日本侯爵伊藤博文と面会。浅田次郎の「蒼穹の昴」によると、光緒帝と伊藤博文の謁見を西太后がこっそり御簾から聞いていたとのこと。
国際的な謀略:李提摩太
西太后の秘宝
浅田次郎
「西太后=大母」と書かれた文書が西太后陵から出土。浅田次郎曰く「西太后は清も国母だった」と云える。
悪女たちの真実:西太后は!?
篇額
篇額の数 他の皇帝に比べ西太后が圧倒的に多数の篇額を作っている。
当時の清の状況 ①アヘン
当時の清の状況 ②アヘン戦争
当時の清の状況 ③日本の台湾出兵
当時の清の状況 ④太平天国の乱
咸豊帝+西太后⇒同治帝 1875年、同治帝は19歳の若さで早世した。子供が無かったため、次の皇帝には従弟の光緒帝が擁立された。
西太后48年の治世
暢音閣:西太后の趣味である京劇の舞台。
閲是楼:暢音閣の向いに位置する観客席を有する建物。
頤和園
光緒帝
光緒帝の方針:西洋の学問に精通した実力者を取り立てる。
光緒帝が抜擢した大臣たちに対する保守派の風当たりは強く、光緒帝の親政に協力しなかった。
光緒帝の詔:国事多難に付き、西太后に政権を戻す。
西陵:光緒帝の陵。
光緒帝の毛髪から多量のヒ素を検出
文化的な素養を有していた西太后の書と画
台湾師範大学・雷家聖博士の説
戊戌の政変前日
戊戌の政変前日、光緒帝が日本侯爵伊藤博文と面会。西太后がこっそり御簾から聞いていた。
イギリス人宣教師・李提摩太による国際的な謀略(外交資料)
洪汝冲李提摩太
改革のリーダー康有為:明治日本やロシアをはじめとする西欧各国の現状についての理解が深まるにつれ、それまでの改革すなわち洋務運動を形式的だと非難して、徹底した内政改革による洋務運動つまり変法による改革を主張するようになった。その後、時の皇帝・光緒帝に立憲君主制樹立を最終目標とする変法を行うよう上奏を幾度となく行い、1898年6月、ついに光緒帝から改革の主導権を与えられることとなった(戊戌の変法)。ところが康有為の改革は当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革は9月、わずか100日あまりで西太后のクーデターにあって失敗に終わった(戊戌の政変)。康有為自身は一旦上海のイギリス領事館に保護され、その後香港を経由して日本に亡命している。
康有為の日記:李提摩太の謀。
改革派官僚・楊深秀
李提摩太
李提摩太
李提摩太
伊藤博文
光緒帝幽閉
満州族の西太后は、漢族を満州族と同様に扱うとともに、漢族女性の纏足を禁止した。
西太后の食事を任されていた女性の子孫曰く「高齢の西太后は、栄養管理に非常に気を配っていた」。
西太后は、光緒帝が行いたかったことを実行した。①陸軍創設
②鉄道敷設
③学校設置
エドモント・バックハウス著「西太后治下の中国」
著者エドモント・バックハウス
西太后は私財を増やすしか興味がなく、政治には参加していなかった。
権力欲を阻むものは必ず死を命じられた。
ヒュー・トレーバー・ローバー「隠された人生~エドモント・バックハウスの謎」
エドモント・バックハウスはイギリスの秘密工作員だった。
西太后没後、清の大臣は満州族出身者のみとなり、漢族との融和が失われ、清は滅亡の道を辿った。