これは「怖い展」@ぶらぶら美術館・博物館 のメモであるが、長大なものになってしまった。それほどこの番組が面白かったからである。ちなみに、「怖い展」@上野の森美術館のブログ記事は
こちらである。
1.チャールス・シムズ《そして妖精は服を持って逃げた》1918-19年頃
産業革命の反作用で「妖精画」がブームになった
第一次大戦でシムズの息子が戦死
目のあたりにした悲惨な状況がシムズのトラウマになった
その後、シムズは自殺した
コティング・グリー事件:二人の少女が作った合成写真が本物と信じられた騒動
シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルもこの合成写真を本物と信じた
コナン・ドイルの叔父も妖精画家だった
コナンドイルの叔父が描いた「妖精画」は(↓)
いたずら写真の撮影後葯66年経って、「元少女たち」が「偽造写真だった」と告白した
2.ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス《オデュッセウスに杯を差し出すキルケ―》1891年
鏡に困惑気味のオデュッセウスの姿が映っている
魔法の杖で打たれたオデュッセウスの部下の兵士は豚に変えられ、足元に転がっている
前もって毒消しを飲んでいたオデュッセウスは豚に変えられることを免れた
キルケは好意を持ってしまったオデュッセウス「これから行く海にはもっと怖い魔女がいる」と注意した
3.ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー《オデュセウスとセイレーン》1909年
美しい歌声で船乗りを狂わせる魔女セイレーン
部下たちは耳に蜜蝋を詰めて歌声を避けた
オデュッセウスは、歌声を聞きたいとの欲求を押えられず、耳に蜜蝋を詰めず、体をマストに縛らせてセイレーンの歌声を聞いた
部下曰く 親方、言った通りじゃないですか
「音」がすべてを支配している世界が描かれている
4.ジャン・ラウー《ソロモンの判決》1910年
おぎやはぎ(小木博明と矢作兼)の矢作兼が「下のもう一人の赤ん坊は何ですか?」という非常に適切な質問をしたところ、中野京子先生が「もう一人の赤ん坊は既に死んでいるから、その母親のソロモン王に対する願いに心がこもっていた」と慌てて説明を補足した。
このような「大岡裁き」と似た話は世界各国にあるとのこと
脚を持った赤ん坊をまさに刀で切り裂こうとしている部下を制止した「ソロモン王」
5.ウィリアム・ホガース《ビール街とジン横丁》1750‐51年
ジン横丁では、手抜き工事の建物が倒壊
ジン横丁では、客が来ない理髪店の店主が自殺
ジン横丁では、葬儀屋は忙しい。棺桶に若い女性を入れている
ジン横丁では、質屋が繁盛。貴族のような質屋の主人が鍋や釜まで持ち込む客と話している
ジン横丁では、母親がミルクにジンを混ぜて飲ませている
ジン横丁では、ジンに酔った男の籠から「反ジン・キャンペーン」のチラシが出てきている
ビール街の画家が描くのは、皮肉にも「ジンの蒸留の仕方」
6.ウォルター・リチャード・シッカ―ト《切り裂きジャックの寝室》1906-07年
「切り裂きジャックの寝室」には、窓・ドア・ベッドが見える
シッカートの養子 親は切り裂きジャックとテレビで告白
シッカ―トはホイッスラーに師事していた
画家の告白?
当時のイギリスの新聞(1888年):19世紀末のロンドンに、連続殺人魔・切り裂きジャックが突如現れ、5人の娼婦を惨殺した
「シッカ―トのDNA」と「切り裂きジャック本人が書いたとされる手紙(↓)から出たDNA」が一致した。
その他の容疑者としては、①ビクトリア女王の孫、②宮廷侍医、③警察官 などが挙げられている
シッカ―トを切り裂きジャックとする状況証拠としては、次の3点が挙げられる
状況証拠① シッカ―トには、変装癖があった
状況証拠② シッカ―トは、行き先を告げずに突然いなくなることもあった
状況証拠③ シッカ―トが部屋を借りた直後に、周辺で殺人事件が発生した
さらにアパート管理人は「この部屋に切り裂きジャックらしき人が住んでいた」と話している
7・ポール・セザンヌ《殺人》1976年頃
有名になったセザンヌは、《カード遊びをする人々》↓や《りんごとオレンジ》↓↓に見られるように、あらゆる「感情や物語性」を排除しているが、若い時代のセザンヌの画には「感情や物語性」が溢れていた
若い時代のセザンヌは、暴力・殺人・レイプなどを頻繁に描いていた
セザンヌの場合、幼馴染だったゾラとの関係を無視することができない
一緒にパリに出たゾラが一躍ベストセラー作家になったの反し、セザンヌはいつまでたっても売れない画家だった
ゾラの小説「制作」に、セザンヌをモデルとしたと思われる画家が登場している
ゾラはこの画家を「愛する女性を美しく描けないからキャンバスの中でレイプしたり殺したりする画家」とした
このことがセザンヌを激昂させ、二人は絶交した
番組内でも、山田五郎はゾラが好きだと云い、ゾラが嫌いだという中野京子と対立し、「おぎやはぎ」の小木博明が、あわてて「まあまあ・・・」と仲裁に入る始末。ここは面白かった
8.ホール・ドラローシュ《レディ・ジェーン・グレイの処刑》1833年
レデイ・ジェーン・グレイはどうして女王になってわずか9日後に処刑されたのか?
この時代 イギリスでは権力闘争が激化していた。
イギリスで宗教改革を断行した「ヘンリー8世」を継いだ「エドワード6世」が若くして亡くなった時、王位継承権の最有力候補者はヘンリー8世の娘「メアリー1世」だった。
しかしこの時権力を握っていた「ノーザンバランド公」は、息子と結婚させた「ヘンリー7世」の曾孫「ジェーン・グレイ」を女王として即位させた。
ノーザンバランド公は、プロテスタントであり、厳格なカトリックであるメアリーが王になることを恐れていたのである。
しかしジェーンは、在位9日で「メアリ派」に囚われ、夫とともにロンドン塔で処刑された。
メアリ―1世は、レデイ・ジェーン・グレイに「カトリックに改宗すれば命は助ける」と話したとのことである。
カトリックへの改宗を拒絶したレデイ・ジェーン・グレイは、兵を挙げたメアリー1世によって拘束された。
そしてレデイ・ジェーン・グレイは16歳の若さで処刑された。
レデイ・ジェーン・グレイを傍にいるのは皮肉にもカトリックの司祭である。
レデイ・ジェーン・グレイの手は自分の首を載せる台を探っている
ドラローシュが描いたレデイ・ジェーン・グレイの「若さ・無実・無垢」が、今も人々の心をとらえてやまないのである
美術散歩 管理人 とら