「怖い絵展」に行ってきました。
大変な行列でした。
今回の目玉作品は《レディ・ジェーン・グレイの処刑》ポール・ドラローシュ画・1833年・ ロンドンナショナル・ギャラリー蔵 である。
これは王座に坐ったのはわずか9日間、16歳という若さで処刑されたイングランド史上初の女王を描いた作品。
【註1】1902年にこの絵がH・W イートンの子息チェールズモア卿によってナショナル・ギャラリーに遺贈され た時、ドラローシュの作品はすでに価値の低いものとみなされ はじめており、絵は当時ナショナル・ギャラリーの管轄下にあったテート・ギャラリー に展示された。その後テート・ギャラリーの独立に伴いこの絵の管理責任はテートに移ったが、1928年のテムズ川の氾濫によって損傷を受け、「修復不能」とされてしまった。その後約半世紀近くの間、この絵は非公開のまま放置され、人目に触れなかった。しかし1973年にその損傷が比較的軽微であることが判明したため、ナショナル・ギャラリーに返還され、 修復の上展示されることとなった。
この画のパネル展示を見た「夏目漱石の美術世界展 @東京藝術大学大学美術館」の
ブログ記事では、次のように記している。
イギリス留学中に夏目漱石は、ミレイの《ロンドン塔幽閉の王子》↓やドラローシュの《レディ・ジェーン・グレイの処刑》や《ロンドン塔の王子たち》↓↓を見ている。
【註2】 夏目漱石(夏目金之助 1867─1916)は、1900年、国費留学生としてイギリス留学を命ぜられた。ロンドン到着3日後に、最初に訪れた名所がロンドン塔だった。
【註3】幻想的な紀行文「倫敦塔」は、1905年1月、雑誌「帝国文学」に文学士夏目金之助の名前で発表された。同時期には「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」と話題作の発表が続き、1907年には東京帝国大学を辞して朝日新聞社に入社、創作に専念することとなった。このように「倫敦塔」は作家としての出発を飾る傑作のひとつなのである。
「倫敦塔」では、文末近くに
”二王子幽閉の場とジェーン所刑(処刑)の場については有名なるドラロッシの絵画がすくなからず余の想像を助けている事を一言していささか感謝の意を表する” と記されている。
漱石がロンドン塔内で「ジェーン」という小さな字を見つけた時の文章は以下の通りである。
銃眼のある角を出ると滅茶苦茶に書き綴られた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画で、小さく「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。
英国の歴史を読んだものでジェーン・グレーの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙を濺がぬ者はあるまい。
ジェーンは義父と所天(おっと)の野心のために十八年の春秋を罪なくして惜気もなく刑場に売った。
蹂み躙られたる薔薇の蕊より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を繙く者をゆかしがらせる。
希臘語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。
余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。空想の幕はすでにあいている。
始めは両方の眼が霞んで物が見えなくなる。やがて暗い中の一点にパッと火が点ぜられる。その火が次第次第に大きくなって内に人が動いているような心持ちがする。次にそれがだんだん明るくなってちょうど双眼鏡の度を合せるように判然と眼に映じて来る。次にその景色がだんだん大きくなって遠方から近づいて来る。
気がついて見ると真中に若い女が坐っている、右の端には男が立っているようだ。両方共どこかで見たようだなと考えるうち、瞬たくまにズッと近づいて余から五六間先ではたと停る。
男は前に穴倉の裏で歌をうたっていた、眼の凹んだ煤色をした、背の低い奴だ。磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。
女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。台の前部に藁が散らしてあるのは流れる血を防ぐ要慎と見えた。
背後の壁にもたれて二三人の女が泣き崩れている、侍女ででもあろうか。白い毛裏を折り返した法衣を裾長く引く坊さんが、うつ向いて女の手を台の方角へ導いてやる。
女は雪のごとく白い服を着けて、肩にあまる金色の髪を時々雲のように揺らす。ふとその顔を見ると驚いた。眼こそ見えね、眉の形、細き面、なよやかなる頸の辺りに至るまで、先刻見た女そのままである。思わず馳け寄ろうとしたが足が縮んで一歩も前へ出る事が出来ぬ。
女はようやく首斬り台を探り当てて両の手をかける。唇がむずむずと動く。最前男の子にダッドレーの紋章を説明した時と寸分違わぬ。やがて首を少し傾けて「わが夫ギルドフォード・ダッドレーはすでに神の国に行ってか」と聞く。肩を揺り越した一握りの髪が軽くうねりを打つ。
坊さんは「知り申さぬ」と答えて「まだ真との道に入りたもう心はなきか」と問う。女屹として「まこととは吾と吾夫(おっと)の信ずる道をこそ言え。御身達の道は迷いの道、誤りの道よ」と返す。坊さんは何にも言わずにいる。
女はやや落ちついた調子で「吾夫が先なら追いつこう、後ならば誘うて行こう。正しき神の国に、正しき道を踏んで行こう」と云い終って落つるがごとく首を台の上に投げかける。
眼の凹んだ、煤色の、背の低い首斬り役が重た気に斧をエイと取り直す。余の洋袴の膝に二三点の血が迸しると思ったら、すべての光景が忽然と消え失せた。
【註4】画家は実際には屋外で行われたジェイン処刑の場を太い円柱のある薄暗い屋内にしつらえられた処刑台の上に設定し、純白の繻子のドレスを纏ったヒロインに上方から光をあてて背景から浮かび上がらせることで劇的な効果を生み出している。
【註5】漱石は、ジェインの右隣に立ち、手さぐりで首を載せる台木を探すヒロインの身体にそっと手を添えて彼女を導こうとしている人物をジェインの最期に立ち会ったメアリ付きのフェケナム司祭と考えて「坊さん」としているが、ナショナル・ギャラリーや他の解説では、この人物はロンドン塔副官サー・ジョン・ブリッジズであるとする。
1章 神話と聖書《オデュッセウスとセイレーン》ハーバート・ジェイムズ・ドレイパー 1909年
船を漕ぐ男たちの怯えは、見る者をも巻き込まずにはおれない。暁の空、うねる波、風を孕んでいっぱいに膨らむ帆、マントがはためき、女の髪の毛が真横に流れる。マストに縛りつけられた古代ギリシャの英雄オデュッセウスは、彼だけ蜜蝋の耳栓をしていなかったために、セイレーンの歌声を聞いて狂乱し、海へ飛びこもうと身をよじる。サイレンの語源となった海の魔女セイレーンは、半人半鳥または半人半魚の姿と考えられ、美声によって船乗りたちを惑乱させ、船を沈めたという。ドレイパーが描くセイレーンは、当時のイギリス人が理想とする若い美女そのもの。口を大きくあけ、歌いながら寄ってくる。彼女らの下半身は海中では魚なのに、船べりによじのぼる時には白いエロティックな脚となり、腰には海藻が巻きつく。さらに船内へ入ると藻は布へ変わり、あたかも男を破滅させる運命の女・ファム・ファタールの正体は、人間ならざる異界のものだといわんばかりだ。実際、この頃にはセイレーンという言葉が娼婦の代名詞として使われていた。
《飽食のセイレーン》ギュスターブ=アドルフ・モッサ 1905年
ギリシャ神話に登場する海の怪物セイレーンの上半身は女性の身体、下半身は古い伝承に従って鳥の姿とされている。ギュスターブ=アドルフ・モッサ(Gustav-Adolf MOSSA)の「飽食のシレーヌ」では、溺死者を喰う残酷なセイレーンは、鮮血によって唇を染めている。鋭い鉤爪の先端は血にまみれ、羽毛にも血痕が飛び散っていて、寸前の惨劇を想像させる。奇妙なことに、背景はセイレーンが棲む地中海の孤島ではなく、画家の故郷のニースとなっていて、座礁した赤い帆船の周りには、駅舎や大聖堂が水没している。
《オデュッセウスに杯を差し出すキルケー》ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1891年
魔女キルケ―の背後の大きな鏡には、オデュッセウスの姿が映し出されている。オデュッセウスが探しに来た彼の部下たちは、キルケ―の美貌に惑わされ、勧められるままに薬草を煎じた魔酒を飲んで豚に変えられて、彼女の足下にうずくまっている。キルケ―は、オデュッセウスと恋に落ちて、1年以上もともに暮らすが、別れにさいして「セイレーンから身を守るため、蜜蝋で耳栓をすべし」とオデュッセウスに忠告するのであった。
《ソロモンの判決》ジャン・ラウー 1710年
ソロモンは旧約聖書の「列王記」に登場する古代イスラエル王国の王。ある日、ソロモンの元に二人の女性が現れた。彼女たちは一緒の家に住んでおり、ほぼ同時に子供を産んだ。しかし、一方の子供は死んでしまい、もう一方の子供は助かった。死んだ子供の母親は生きている子供を取り上げ「私のだ」と言い張り、本物の母親と喧嘩になった。仲介役になった人がソロモンに審判を頼んだ。ソロモンは二人の母親を見くらべ、隣に立っていた兵士に「その子供を真っ二つに切り裂け」と告げた。すると、偽物の母親は「あの女にあげるくらいなら裂いて」と叫んだのに対し、本物の母親は「あの女にあげるから助けて」と叫んだ。こうして子供は本物の母親に返された。
《スザンナと長老たち》フランソワ=グザヴィエ·ファーブル 1791年
旧約聖書からとられた人気の画題。貞淑な人妻スザンナに言い寄る長老たちを描く。他の画家は長老たちが遠くから水浴中のスザンナを覗き見るシーンなどを描くことが多いが、この画ではスザンナに手をかけて、衣服をはぎ取ろうとしている。このようにスザンナを襲った2人の長老は、スザンナに拒まれたため姦通罪をでっちあげて死刑にしようと企てた。しかし後に真相が明らかとなり、逆に長老たちが死刑になった。
2章 悪魔 地獄 怪物《夢魔》ヘンリー・フューズリ 1800-10年頃
眠りはある意味、こま切れの死だ。夜がその黒々とした翼を拡げるたび、幾度も幾度も自我を完全喪失させねばならない。そして眠っている間「何か怖ろしいことが我が身の上で営まれているのではないか」と疑い続けねばならない。眠りのそんな恐怖の一面を、妖しくエロティックに表現して強烈なインパクトを与えるのが、フューズリの《夢魔》である。仰向けに眠る女性の腹の上にいるのは、夢の中でレイプする男の怪物インクブス(「上に乗る」の意)。ちなみに男性の夢にあらわれるのは、スクブス(「下になる」の意)。どちらも淫靡な夢をみせ、快楽を与えるとされる。ならばもっと人間に近い美形の夢魔として描いてもよさそうなのに、画家はそうしなかった。そこにいるのは、彼女が夢で感じている恍惚を裏切る異界の醜い魔物なのである。
《聖アントニウスの誘惑》アンリ・ファンタン=ラトゥール 1897年
オーブリー・ビアズリー ワイルド「サロメ」より《踊り手の褒美》1894年(1906年 出版)
英国の作家、ワイルド(1854‐1900)が書いた戯曲「サロメ」の退廃的な美学は、このビアズリー(1872‐98)の挿絵とセットで広められたといってもいい。サロメが持つのは自分が愛した男、ヨカナーン(ヨハネ)の首。義父、ヘロデ王の前で見事な舞いを踊った褒美に所望したのが、自分の愛を拒んだ男の命というのが、いかにも耽美的なワイルドらしい発想だ。その唇に口づけをしたいからと手に入れた生首からしたたる血、前髪をつかむサロメの顔。鬼才・ビアズリーは倒錯した狂おしい恋情を、シャープな線と黒インクで生々しく描いた。一見、テーブルにみえるのは実は大皿で、地下の古井戸から伸びた黒鬼のごとき毛むくじゃらの腕に支えられている。
3章 異界と幻視《そして妖精たちは服を持って逃げた》チャールズ・シムズ 1918-19年頃 ジョセフ・ライト 1775年頃
イギリスのヴィクトリア朝時代には、産業革命による急激な都市化や功利主義のいわば反動で、超自然的なものへの憧れが高まった。妖精や幽霊の存在を信じる者がそれまで以上に増え、妖精画も黄金期を迎えている。シャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルでさえ、少女たちがいたずらで制作した合成写真を本物と信じ込んだ(有名なコティングリー妖精事件)。ちなみにドイルの父も伯父も妖精画家だった。本作のシムズも多くの妖精を描いている。ここでは、森の中で憩う母子のところへ小さな妖精たちが現れて、服をどこかへ運び去ろうとしている。不思議な出来事のわりに母子の反応は静かで、妖精自体への驚きは少ない。だが背景の無気味な森の描写に注目し、シムズの人生とリンクさせる評論家もいる。順調な画家生活を送っていたシムズは、第一次世界大戦で長男を失い、自身も戦争画家として戦地で悲惨な状況を目の当たりにした。帰郷同年に描いたのが本作で、この後徐々に精神を病んでゆき、53歳で入水自殺した。
《老人と死》「妄(ロス・ディスパラテス)」より《(4)大馬鹿者》フランシスコ・デ・ゴヤ 1815-24年
大男の出現に怯える老人は人形のようなもので対抗しようとしているが、所詮無理。大男はスペイン人らしくカスタネットを手にして、踊っている。 大男の背後に浮かび上がる2つの顔は死者の亡霊だろうか。老人もこの亡霊に加わるのだろう。タイトルの大馬鹿者(bobalicon)というのは、老人の蒙昧さへの軽蔑。
「エドガー・ポーに」より《 (3)仮面は弔いの鐘を鳴らす》オディロン・ルドン 1882年
下方の仮面と上方の骸骨が合体した「死神」が鐘を鳴らしている。下方で鐘の綱を引いている仮面には、哀愁のようなものが感じられる。
4章 現実《殺人》 ポール・セザンヌ 1867年頃
本作における最大の意外性は、描き手がセザンヌという点である。絵画からあらゆる意味や情感を取り払い、色・構図・タッチといった絵の要素自体を主題にしたセザンヌは、いわばメロディを排除した現代音楽のような絵画を樹立した画家である。それがこの絵では、凄まじいメロディが溢れ流れ、見る者の感情を揺さぶる。闇に沈む岸辺・打ち寄せる仄白い波・生々しい殺人現場。豊かな金髪の女性が身動きを封じられ、今まさに生命を断たれようとしている。ナイフを振り上げる男、逞しい両腕に全体重をかけて抑えつける共犯者。強い殺意だけが明瞭に伝わってくる。男の上着の裾が翻るのは風のせいではなく、殺意の強さがそうさせている。セザンヌは20代後半から30代前半にかけて、こうした暴力的でエロティックな作品をかなりの点数描いた。多くは後年になって自ら廃棄し、またセザンヌのイメージと合致しないからと意識的に触れずにきた美術評論家たちのせいで、これら作品群は一般にはあまり知られていない。だが凶暴さ剝き出しの本作は、むしろセザンヌの新たな魅力を教えてくれる。
「ビール街とジン横丁」より《ジン横丁》ウィリアム・ホガース 1750-51年
オランダ総督で名誉革命後にイングランド王に即位したウィリアム3世によって、ジンはイギリスにもたらされた。絵の中の人々はストレートで飲んでいる。イギリス国内では、ジンは原料も安く、無税で安く手に入ったが、牛乳・お茶・ビールは高いため、貧民街に住む人々はジンを飲むしかなかった。当時のジンは安かろう悪かろうの粗悪品で大勢の健康をそこね、廃人を産み、犯罪も激増した。作者のホガースは、反ジン・キャンペーンとしてこの作品を制作した。
対になったもう1枚では、豊かな《ビール街》が称えられている。
《発見された溺死者》ジョージ・フレデリック・ワッツ 1848年頃
産業革命の結果、女性は職を失い、道路で娼婦をするしかなくなるった。そして娼婦となった女性は、妊娠すると、堕胎できなかったために、テムズ川へ身を投げた。
《不幸な家族(自殺)》オクターヴ・タサエール 1852年
すでに亡くなっていると思しき娘、生気を失っている母の目。一片の救いもない、そんな絶望感に満ち満ちた雰囲気がにじみ出ており、見ていて辛い。この絵が描かれた当時は、貧しい労働者階級の人々の高い自殺率が社会問題になっていた。本作の画家自身も同じく苦しい生活を送っており、絵と同様に自殺を遂げた。
《切り裂きジャックの寝室》ウォルター・リチャード・シッカート 1906-07年
部屋には誰もいない。描かれているのは窓・ドレッサー・ベッド。しかし、不気味に人の気配が伝わってくる。タイトルの《切り裂きジャック》は19世紀末のロンドンで、街娼ばかりを狙って5人を惨殺し、忽然と消えた猟奇殺人事件の犯人。その犯人捜しは当時から盛んに行われたが、容疑者には王族・宮廷侍医・弁護士など社会的地位の高い人も多かった。この絵を描いた画家・シッカート(1860~1942)もその一人。彼は「ジャックがかつて住んでいた」という噂を聞いて、この部屋を借りたのだという。そしてこの事件に強い関心を抱き、触発された作品も残している。米国のミステリー作家・コーンウェルは7億円の私費を投じて調査を行い、シッカートを真犯人として名指しした。真実ならば、背筋も凍る絵だ。
5章 崇高の風景《ドルバダーン城》ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 1800年
廃墟に美を見る視点は現代人には自明だが、風景画の誕生自体が遅かったヨーロッパにおいては、それまでにない新しい発見だった。過去の栄光、荘厳、崇高、ある意味、恐怖と結びついた圧倒的な美が見出されたのだ。ターナーの本作もその代表例の一つ。ここにはウェールズの暗い歴史が仄めかされている。13世紀、兄弟間での熾烈な戦いのすえ勝利した弟ルウェリン・アプ・グリフィズが、兄オワインを20年以上もドルバダーン城に幽閉した。だがそのルウェリンもエドワード一世軍に敗れ、ついにウェールズはイングランドに征服されるに至った。画面前景では、オワインが後ろ手に縛られ兵士らに引き立てられているが、それはむしろ点景でしかない。絵の真の主人公は、荒涼たるウェールズの山頂に建つドルバダーン城の無気味な廃墟だ。窓の少ない石造りの円筒形キープ(要塞)が見る者を血なまぐさい中世へと誘い、時の無常や滅びの美学をいやでも感じさせる。
《ポンペイ最後の日》フレデリック=アンリ・ショパン 1834-1850年
実際にベスビオ火山の噴火により地中に埋もれたポンペイを想像した絵。炎で空は赤く染まり、大地が揺れるなか火の粉や有毒ガスから逃げ惑う人々の姿はまさに地獄絵図。
《ソドムの天使》ギュスターヴ・モロー 1885年頃
堕落した男達の行いが神の怒りを買い、天から硫黄と火の雨が降り注いで壊滅させられる悪徳の都市・ソドム。埃にまみれた空、垂直に切り立つ赤焦げた大地。灰と化した町の光の差さない上空には、長剣(正義の象徴)を握った異様なまでに巨大で色の無い天使が浮遊している。まるで洞窟の中にいるような、奥行きの見えない世界である。旧約聖書における天使は、いつでも人間を助けてくれる優しい存在ではない。
《森へ》エドヴァルド・ムンク 1897年 この二人は心中のために森に入っていく。
6章 歴史《メデューズ号の筏(テオドール・ジェリコー作品の模写) 》 ジャック=エドゥアール・ジャビオ 1854年
フランス王政復古期に起こった、無能な貴族艦長による弱者切り捨ての大スキャンダルがメデューズ号事件だ。わずかの水と食料だけで筏に放置された150人近い乗員たちは、炎天下のアフリカ海域を13日間も漂流し、生き地獄を味わった。飲み水をめぐる争い、殺し合い、病死、溺死、自殺、発狂、餓死、果ては人肉嗜食。最終的にサバイバルできたのは、10人に満たなかったと言われる。政府は事件を揉み消そうとしたが、ジェリコーの傑作がそれを許さなかった。作品は模写され、版画になり、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。そのダイナミックな構図とドラマティックな表現法は、さらに現代のハリウッド映画にまで影響を与え続けている。
《クレオパトラの死》ゲルマン・フォン・ボーン 1841年
紀元前1世紀のエジプト女王クレオパトラは、弟から王位を追われた後、ローマのシーザー(カエサル)を籠絡し、その愛人となり、王位を奪還。シーザーが暗殺されると今度は次の権力者アントニウスと結婚したが、彼の失脚とともに命運尽きて自殺する。自殺の手段は、アスプコブラ(別名エジプトコブラ)に噛ませてのものだった。本作でも、ベッドのシーツに茶色い蛇がのたくるように這っている。神経性の猛毒なので、クレオパトラの身体はぐったり弛緩し、眠るかのようである。クレオパトラは、生きたまま敵の手に落ちることだけは避けたい、見苦しくなく美しいまま死にたいと、早い段階から毒蛇を飼っていたという。さらにクレオパトラは、この毒蛇に至るまで何人もの奴隷や死刑囚にさまざまな毒を試したとも伝えられている。
《チャールズ1世の幸福だった日々》フレデリック・グッドール 1853年頃
チャールズ1世は、1625年3月、父の死去に伴い王位を継承した。6月にはフランス王アンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアと結婚した。しかし、カトリック信徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。
チャールズ1世は王権神授説を信奉し、議会と対立した。1628年、課税に議会の承認を得ることを求められたが、翌年議会の指導者を投獄して専制政治を行った。
チャールズは、国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。スコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。1640年、11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった。1642年、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した(ピューリタン革命)。内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、王党派が各地で打ち破られた。
1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告され、1月30日、ホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で斬首により公開処刑された。
《マリー=アントワネットの肖像》作者不詳(フランス派) 18世紀
1793年1月、革命裁判はマリー=アントワネットの夫・ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンにより斬首された。マリー=アントワネットも、革命裁判で死刑判決を受け、1793年10月16日、コンコルド広場においてギロチンによる斬首刑に処された。
美術散歩 管理人 とら