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これは展覧会の第2章「戦国武将/細川幽斎・文化人/細川幽斎」のメモ。第1章「長谷川等伯@永青文庫 その1」はこちらである。
幽斎と足利義昭 細川家初代藤孝(出家後は幽斎、1534~1610年)は、もともと室町幕府13代将軍・足利義輝の側近だった。義輝が暗殺されると、藤孝らは奈良の興福寺に幽閉されていた弟の義昭を救い出し、信長の支援を得て京都に入る。義昭は十五代将軍となった。 いわば連立政権が成立したが、信長が義昭を思いのままに動かそうとしたため、両者は対立した。 ●国宝《柏木莵螺鈿鞍》幽斎が将軍・足利義輝より賜った鞍。 信長と義昭の対立に伴い、藤孝はこのまま義昭に仕えるか、信長側に転じるかの選択を迫られた。 幽斎は、結局織田信長に家臣として従い、永青文庫には「信長からの書状」が59通残された。 そのうち今回の展覧会に出ていたのは、以下の4通である。 ●細川藤孝宛1573年2月26日 重文「織田信長朱印状」 ●明智光秀宛1574年7月29日 重文「織田信長黒印状」 ●細川藤孝宛1580年8月13日 重文「織田信長黒印状」 ●明智光秀宛1581年9月7日 重文「織田信長朱印状」1582年に本能寺の変が起こった際には、細川藤孝は明智光秀の再三の要請を断っている。 印判を朱色で押したものを「朱印状」、黒で押したものを「黒印状」と呼ぶ。領地を与えたり、軍事上の義務を命じたりするときは朱印状が使われ、一回限りの命令や返答には黒印状が使われる傾向があるというが、明確な基準はわかっていない。現存する信長の手紙では黒印状のほうが多い。 幽斎と秀吉 幽斎は、その後、光秀を討った豊臣秀吉に重用された。 ●細川幽斎宛1586年4月1日 重文「羽柴秀吉知行宛行状」 ●細川幽斎宛1586年4月1日 重文「羽柴秀吉知行目録」 幽斎と和歌 幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。一方幽斎は、徳川家康とも親交があり、1598年に秀吉が死去すると家康に接近した。 ●細川幽斎筆「連歌之書」1557年8月 ●細川幽斎筆「秋草図和歌扇面」桃山~江戸時代 ●細川幽斎筆・飛鳥井雅章編「衆妙集」1671年 飛鳥井雅章 の編により刊行された細川幽斎の和歌集。 ●細川幽斎筆「太鞁秘伝抄」1593年7月 ●細川幽斎筆 重文「細川幽斎書状」桃山時代
by cardiacsurgery
| 2017-10-24 14:56
| 国内アート
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