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ぶらぶら美術館・博物館 運慶展のメモ
日本仏像界に革命を起こした天才仏師・運慶が活躍したのは、平安から鎌倉へと移り変わる激動の時代。リアルで迫力のある仏像を生み出し、武士に人気を博した。 この展覧会では、デビューから晩年までの傑作を通して、その生涯を辿っている。 さらに、博物館でのこのような展覧会は、預かった作品の調査研究が行われる貴重な機会でもある。その調査の様子を、今回特別に見せてもらい、普段は見ることができない仏像の内側まで拝見した。説明は、浅見龍介・東京国立博物館研究員。NHKの運慶番組にも登場しておられたが、今回のほうがはるかに面白く、よくわかった。ぶら美の山田五郎さんのほうがウマがあっているのだろう。 平安時代の仏像は定朝様と呼ばれ、京都の貴族に好まれた。平等院鳳凰堂の阿弥陀如来に代表される平安時代の定朝様仏像は、彫りが浅くて体が豪奢でたおやかという特徴を有していた。 これに革命をもたらしたのが奈良仏師で、その中心は康慶・運慶親子が属する慶派だった。その特徴としては、玉眼を入れるなど写実的で実在感のある造形であること、筋肉描写が力強いこと、衣の皺などの彫りが深いことが挙げられる。 初めて玉眼を入れた《勢至菩薩立像》の内部には、制作年と願主名が記されていたが、仏師名は書かれていなかった。この仏像は康慶の若い頃の作品とも考えられている。 康慶作の《法相六祖坐像》1189年 南円堂:玉眼が使われており、彫りも深く、定朝様と決別した仏像である。 四天王像は、持国天・増長天・広目天・多聞天の順に「東・南・西・北」の方位に対応し、「緑・赤・白・青」の身色に塗り分けられている。 康慶作の国宝《四天王立像》(出展番号7)は力強く、邪鬼も見事な出来である。これは現在は仮講堂に置かれているが、南円堂から移されたものである。 この四天王は玉眼ではなく、鎧は装飾的であり、股の間に虎の毛皮を逆さに張り付けられているなど、運慶作とは異なる印象もあるが、これは運慶の息子の一人が担当したためなのかもしれない。今回は、この仏像のX線CTデータを取っているとのこと。 運慶のデビュー作の国宝《大日如来坐像》1176年 円成寺:台座蓮内天板裏に、「大仏師康慶・實弟子運慶」と墨で記されている。そして、この《大日如来坐像は、康慶作の《地蔵菩薩》静岡瑞林寺とまったく同じ造形であることが分かっている。【参考】 運慶作・国宝《毘沙門天立像》願成就院は、東国武士・北條時政の発願による仏像で、武士のように力強く、眼が「瞋目」となっている。 運慶作・重文《毘沙門天立像》浄楽寺は、和田義盛夫妻の注文で作られ、願成就院のそれにくらべ優しい感じがする。これには心月輪の木の札が納入されていた。 運慶作・国宝《八大童子》6躯は、鳥羽天.皇の皇女・八条女院(1137-1211)が願主となり制作された。後の2躯は少し時代が下ってからの仏像で、国宝付とされている。 運慶作・重文《大威徳明王坐像》光明院には、その内部から納入文書は見つかり、源実朝の養育係・大弐局の発願により、建保四年に運慶が制作した旨記載されている。 国宝《天燈鬼立像 龍燈鬼立像》興福寺のうち、「龍燈鬼」は運慶の三男・康弁の作であるが、運慶の指導のもとに制作されたとの説がある。相撲取りの姿を写したものとされているが、背部からみた臀部の筋肉の発達はこのことを納得させる。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-10-16 01:45
| 仏像
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