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NHKで、再放送「古代中国 よみがえる英雄伝説:伝説の王・禹~最古の王朝の謎~」を視聴した。
![]() ![]() ![]() 司馬遷の「史記」には、「夏王朝」や「禹王」について、次のように記されている。 遥か昔、この世は洪水が相次ぐ激しい時代だった。王たちがどのような手を講じても、荒れ狂う大河を制することは出来ず、人々は貧しい生活を余儀なくされていた。 ある日、一人の若者に白羽の矢が立った。禹という男である。この男が全国の治水に邁進した。厳しい自然との戦いで、若々しかった肉体は老人のように不自由になったが、それでも禹は歩き続けることを止めなかった。 そして13年後に、禹は中国全土の治水に成功し、生まれ変わった土地で民の暮らしは一変した。周囲から押された禹は王となり、夏を大いに繁栄させた。 中国各地には、禹にまつわる伝説がたくさん残っている。「羌族」では、祭りの際に「禹歩」という歩き方をする。はるか昔、片足を引きずりながら治水に回った禹と土着信仰が混ざったもので、洪水等の災難から守ってくれると信じている。 ![]() ![]() ![]() そんな中、考古学上の大発見があった。1928年殷墟の発掘で。である。殷の発見により、夏王朝の遺跡の発見が期待されたが、日中戦争が始まり、文化大革命が起こり、中国の考古学は、長い停滞期に入った。 しかし、20世紀の終わりに国家的研究プロジェクト「夏商周王朝断代工程」が発動された。 ![]() 紀元前3000年から2000年、中国には別々の文化圏が分立していた。 その場所の一つである長江河口の「良渚」には5300年から4300年前に作られた全長7キロの巨大な城壁がある。地質や鉱物を研究した結果、城壁は数キロ離れた山から運ばれた材料で作られていることが分かった。 ![]() ![]() ![]() 強力な王の存在を示す「玉器」も出てきた。 ![]() ![]() 他方、内陸部の山西省にも別な国ができていた。 ![]() ![]() このように、古代中国には強大な力を持つ王の文化圏があったが、繁栄を謳歌していたしていた集落が衰退していった。 その原因は繰り返し襲う洪水だった。紀元前3000年から2000年にかけて、気候変動によって、中国全土を寒冷化、干ばつ、長雨による洪水などが襲い、農業に頼っていた集落を直撃した。 ![]() 黄河上流にある青海省「喇家遺跡」は、中国のポンペイとも呼ばれている。発掘調査によると、高い文化を持っていた集落が、洪水などで一瞬にして土砂に埋もれてしまっており、人々は逃げる間もなく犠牲になっていた。 ![]() 中国大陸の厳しい自然は、古代集落の黄河文明を破壊し、また新たな黄河文明を生み出していった。そこに禹を信仰する伝説の生まれる余地があった。人々は「国を治めるには、まず黄河を治めること」と信じており、治水によって自然を制した禹王のような人物が、神のように信仰されていくようになった。 自然が多くの文化圏を崩壊させていった一方で、河南省「二里頭村」だけが繁栄していった。 ![]() ![]() ![]() 他の地域が衰退していく中、二里頭文化だけがどうして急速に発展・繁栄したのだろうか。土を採取した結果、五穀(粟・黍・小麦・大豆・水稲)が見つかった。まだ多くの地域が限られた作物しか栽培していなかった時代に、5種類もの作物が作られていたのである。 二里頭村の人たちだけが、気候変動に対応できたようである。その鍵となるのは川であり、二里頭村周辺には、中国の主要な河である黄河・長江・伊河・洛河の支流が流れていた。この川の流域から、二里頭村の礼器が発見されている。ここに身分の高い人々を常駐させ、情報を得ていたのではないかと言われている。 ![]() 二里頭以前の古代集落が相次いで崩壊した原因は、環境が激変する中、王が権力を維持できなくなっていたからだった。 山西省の「陶寺村」では、歴史の意外な事実が発見された。高い文化を持っていた陶寺遺跡は、たくさんのバラバラな状態で出てきた人骨を残していた。その理由は、人々の反乱で、貴族たちに復讐し、遺体をうち捨てたのだった。 「良渚」でも、食糧難の中、王が求心力を失っていった。良渚の玉琮には不純物の鉛が含まれるようになっていくが、これは良質な材料の不足によるものと考えられる。また、この地の玉琮は次第に大型化していったが、これは質的な低下を補うものであった。ここに、王の権威が失墜していったことが伺える。古代中国の集落は、脆弱なシステムしか持ち合わせていなかったのである。 中国人が愛する玉文化。それは永遠に色あせることのない、朽ち果てることのないものだった。玉は長い権力者の歴史の中で愛されてきた。春秋戦国時代には、一つの玉が15の城と同じ価値だとされたほどである。 数千年を経た現在の中国でも、玉は高価である。好景気な現在、飛ぶように売れている。古代から名産地とされてきた新疆ウイグル自治区・ホータンの山々では、今も採掘がおこなわれている。 「玉石混合」という言葉も、この玉からきている。玉は中国人にとって、ただの美しい鉱物ではなく、政治や歴史のシンボルとして、崇拝の対象になっている。 多くの文化圏が崩壊していった古代中国で、夏王朝の禹に対しては、民の信望が篤かったと思われる。禹に対して人びとはそれぞれの地元の名産物を献じたが、こうした土地は五千里の彼方まで広がり、はるか遠くまで及んでいた。 王に即位した禹がどのような政治を行ったのかについての記述は残っていない。しかし二里頭遺跡からの出だ土器には、大きな特徴がある。大切な儀式や祭事に使われたと思われる「酒器」が非常に多いことである。そこに夏王朝の秘密が隠されているのではなかろうか。 宮殿の構造にも、他に見られない大きな特徴がある。「一号宮殿」は回廊に囲まれた建物で、中には1000人以上も収容できる広場がある。 ![]() ![]() 「宮廷儀礼」は、夜明け前に行われた。宮殿に入ることが出来るのは、貴族と近隣の集落の首長で、参加者は献上品を持って参上した。 そこには王の権威を象徴する工夫がなされていた。最後に入場する王の手に握られているのは貴重な石でできた「玉璋」である。玉璋は他の地域の神聖なシンボルで、これを持つことで王の権威を高めていた。 さらに取り出したのは、まだ誰も見たことのない青銅の酒器「銅爵」である。 ![]() 身分の高い貴族は壇上に上げられ、全ての文化の頂点に立った王から酒を賜ることになる。下から見守る参列者たちは、人びとは、王との身分の違いを痛感し、王を崇めるようなった。軍事力だけでは、長く権威を維持させることは不可能なので、このような「宮中儀礼」というシステムを編み出したと考えられる。 広大な範囲から銅が集められている。遠くは1000キロ先から銅を集めることが出来たのは、周辺地域と何らかの同盟関係があったからと思われる。 ![]() ![]() ![]() 今からおよそ4000年前の二里頭から多様な人々を治めるシステムが生まれた。その二里頭の文化的な影響力は広がっていった。これは武力によってではなく、文化の力によって成し遂げられたもので、歴史上初めて現れた文化の革新だったのである。 厳しい自然や荒ぶる人々を治めた「禹王」や「夏王朝」は、二里頭に存在したのだろうか。 紀元前1600年ごろ、第2の王朝「殷王朝」が台頭してきた。殷は青銅器で夏王朝を徹底的に破壊した。夏王朝に関する遺跡からは、殷に虐殺されたであろう人々の骨がたくさん発見されている。 ![]() それを最大限に利用したのは、秦の始皇帝。禹を祀った山を参拝することで、始皇帝は自分こそが夏王朝の後継者であることを示そうとした。 「中華」と呼ばれる世界観や「華夏」とよぶ歴史観によって、国を一つにまとめようとする時、古代の英雄伝説はこれから先も生き続けるのだろう。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-09-15 00:24
| 東洋アート
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