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2017・9・2(pm9:00~10.30) NHKテレビで「盗まれた長安」という番組をメモを取りながら視聴した。
【番組の構成】 1. 楊彬の盗掘物語 序説 2. 西安市内で発掘された遺跡 3. 楊彬の盗掘物語 その1 4. 二つの墓誌 5. 楊彬の盗掘物語 その2 【ブログ記事の構成】2→4→1→3→5 2.西安市内で発掘された遺跡 2-1 西市:唐の都・長安には、「西市・皇城・東市」が並んでいた。現在、そのうちの東市の遺構が発掘中であり、ここには酒店・手工業・印刷業があったことが判明している。 2-2 含元殿(参考) 大明宮遺跡は西安市の北東部。大明宮遺跡内の大明宮正殿・含元殿の遺跡には、東西約200メートル、南北約100メートル、高さ約15メートルの巨大な基壇が残っている。634年の創建からすでに1300年以上を経つが、かつては規模、構造ともに壮大で華麗なものであったと想像できる。 ●第二回の考古発掘調査:1995年か~1996年。含元殿の柱の配置、基壇の構造、龍尾道の位置、建殿時の煉瓦の窯跡、宮殿前広場、含元殿と朝堂の相対位置などの問題に関する発見、両翼の回廊曲がり角に角楼発見、含元殿の東と西から含耀、昭慶の二つの門に通じる閣道確認。 ●含元殿遺跡の基壇の復元:2003年。 ●番組では「儀殿図」や「鴟尾」についても触れられた。 2-3 天壇の遺跡:下町。199年発掘。冬至の日に皇帝だけが天壇に登って天に祈る。天壇の4段は四季、上から見ると東西南北の間に二本の境界線がみえる。天壇は漆喰で白く塗られていた。 4.二つの墓誌 4-1 安元寿の墓誌:「李世民の腹心として城門を守った」と記されている。安元寿は騎馬軍団を持つソグド人の一人。李世民はその後唐の第二代皇帝となった。 盗掘者の間前は楊彬(ようひん)。11年前(2006.2.14)に逮捕されたが、脱走した。ハードディスクに壁画や石槨(石棺)の画像ファイル多数保存していた。 楊彬のハードディスクに残されていた壁画に描かれていたのは豊満な女性たちであったが、このことはこの女性が玄宗の時代の女性であることを示唆していた。 番組では石槨の主の特定に話が移った。 「寵留村」では、夜間に爆発音が聞こえ、見かけぬ男たちが集まっていた。2006年1月5日、西安の警察の専従組織と陝西省歴史博物館この古墳に対し9カ月間の発掘を行った。現場に穴を掘って調べると、そこは空っぽの墓であり、壁画の一部だけが残っていた。この壁画は楊彬の画像データ内に保存されていたため、楊彬が盗掘したものと推定された。 現場に残っていた「哀冊(あいおう)の破片」には「貞順」という文字があり、「類編長安誌」を調べると「貞順」とは玄宗が楊貴妃の前に寵愛した「武恵妃」であると判明し、この古墳が消えて久しい「唐敬陵」であると確定した。 問い詰められた楊彬はこの墓の盗掘を自白した。2004年5月12日に彼は唐敬陵に撮影のために入った。 楊彬は、写真撮影しネットで買手を見つけた後に墓から持ち出していた。彼の画像ファイルがカタログとなっていたのである。 実際には1ヶ月後に買手が見つかったので、 楊彬たちはその後1年間かけ、都合5回にわたって古墳に入り、27トンにも及ぶ石槨を分解して運び出した。彼が盗掘した際には副葬品は既に盗まれていたとのことである。 楊彬の画像データには、鳳鳥形金歩揺・陶傭・金走龍・獅子紋銀碗・伎楽紋八角銀杯などが含まれていた。 行方不明だった石槨は、香港のブローカーから米国の古美術商へ売却されていた。 2009.12.29、米国の古美術商の代理人マイク・テーラーと香港で交渉がなされた。代理人が買値(一億円以上)で買い戻すという条件を提示したため交渉は不調に終わった。 1月後に、西安で第2回交渉が行われたが、その前に公証人を現場へ案内したところ、その規模の大きさに驚いていたとのことである。2009年1月15日に、中国とアメリカの双方が署名していた「旧石器時代から唐末期までの考古学材料、250年以前の古跡・彫像・壁画に係る美術品輸入制限実施の覚書」のお陰で、米国側は無条件で返還することならびに海外輸送費を負担することに合意し、2010年3月に石槨(石棺)がヴァージニアから西安へ334個の荷物として届いた。これを組立てた後、石槨(石棺)は「陝西省歴史博物館地下特別展示室」に移送保管された。 石槨(石棺)の外面には、正面に「窓・扉・窓」が並び、彩色されていた。線画やレリーフが多く、ギリシャ神話の人物・動物図、宗教のモチーフ(仏教・道教・ゾロアスター教)、西域のモチーフが描かれていた。 石槨の内部には女官たちの線画が描かれていた。 2011年には、壁画も天津の税関を通り、返還された。その一部は、現在陝西省歴史博物館で展示されている。 ハードディスクの画像の中に今まで見たことのない壁画があることを追及された楊彬は2013年に告白し、刑務所から手錠をかけたままで麦畑に案内した。 ここを掘ると墓が出てきた。 50メートルの墓道(車輪の跡は残存)が墓室に続いていた。 これは玄宗皇帝時代の韓俅の墓と判明した。 墓室には「楽舞図」(唐の楽団・胡人の楽団、両者の闘舞)の他に「山水図」が残っており、「宋を先立つ200年前の唐で山水図が成熟していた」という大発見となった。 壁画は切り出して「壁画保護修復センター」に運搬・保管され、修復されており、現場には大きな穴が開いているだけである。 壁画保護修復センターの担当者によると、「現在修復中の壁画が楊彬の画像ファイルの写真に比べ劣化がすすんでいるのは、墓室を閉じる前に火を焚いて無酸素状態としていた墓室が、盗掘で開けられた際に、酸素が入ったためである」とのことだった。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-09-06 15:40
| 東洋アート
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