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これはNHK総合本放送(2017/9/1 20:00~20.43)防災の日スペシャル 江戸百万人が見た!富士山大噴火のメモ。
エピソード1 その時、一体なにが? 百万人が見た巨大噴火 1707(宝永4)年11月23日の「宝永噴火」は、平安時代以来の富士山の大噴火。その激しさを、多くの人々が文章や絵で記録していた。予兆の地震から、噴火後の黒雲や雷、大量の火山灰に謎の振動まで。リアルな証言を第一線の科学者が分析、巨大噴火の実像に迫る。 江戸百万人が見た富士大噴火 ![]() ![]() 御師 土屋伊太夫 富士登山の案内人 噴火前の異変を記録 ![]() 火山学者・小山真人さん曰く 富士山の内部だけで有意地震がおき 里には感じなかった ![]() ![]() ![]() 富士山大噴火 人々は見た 記録した ![]() ![]() 「降砂記」には寺には人々が訪れどうせ死ぬなら苦しまずに死なせてくれと御仏にすがっていたと書かれている。 静岡県小山町の富士浅間社には避難した人々がかぶっていた鍋が残っていた。家の半数が焼け村は廃墟と化した。 火山学者・小山真人さん曰く 火山雷とは、火山灰などがぶつかり合い電気を帯びて生じるカミナリ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() エピソード2 恐るべき火山灰 見放された村と伝説の代官 ふもとに降り注いだ火山灰の厚さは3メートル、田畑も壊滅。村人は飢えに苦しむ。幕府は被災地救済の名目で巨額の資金をあつめるも別の用途に流用してしまう始末。「復興」にあたる関東代官・伊奈忠順(いなただのぶ)は、義憤から農民と共に前代未聞の決死の行動に出た。 5代将軍 徳川綱吉 生類憐みの令 各藩は百石につき金三両を拠出「御触書寛保集成」より ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 伊奈忠順はその後も御厨の人々に慕われ続けた。静岡・小山町には復興に力を尽くした忠順を顕彰する石碑が建てられ、忠順の最期にまつわる言い伝えが記されている。 石碑によると、忠順は独断で幕府の米蔵を解放し、飢えに苦しむ農民らに米を振る舞い、責任をとって切腹したとのことである ![]() 神奈川・秦野市には江戸時代の農民らが行った土壌改良「天地返し」の跡が今も残されている。 これは火山灰の下にもともとあった地面を掘り下げることで溝を作り、その溝に火山灰を埋め、隣に再び溝を作り、その土を火山灰の上に盛り重ねるという作業を繰り返すもの 8000平方mほど進んでいる発掘調査の約半分で天地返しの跡が見つかっているという ![]() エピソード3 終わらぬ苦闘 三次災害「大洪水」 富士山噴火は火山災害はもちろん、火山灰のたい積で河川の水位が上昇し“洪水”も引き起こした。時の将軍・徳川吉宗によって民間から起用された田中丘隅(たなかきゅうぐ)は、画期的な方法で治水に成功。疲弊した農村の救済策も次々打ち出した。復興は実に80年におよんだ。 足柄平野を酒匂川の大洪水が襲った(↓) ![]() ![]() そうした中、幕府が行う復興事業の実態を鋭く告発する人物が現れた。声をあげたのは東海道沿いの街の名主・田中丘隅。農民出身で苦労して身を立てた丘隅は大商人が復興をだしに大儲けする様に強い怒りを覚えていた。 幕府の過ちを糾弾するこの意見に目を止めたのが8代将軍・徳川吉宗。それほどまで言うならば自らやってみせよと、吉宗は丘隅を工事の責任者に抜擢したのである。この抜擢の実務は大岡忠相が担当した。 将軍吉宗による民間人・田中丘隅(?-1729)の抜擢 ![]() ![]() ![]() 丘隅が工事を指揮した堤防の大口土手が、南足柄市に今でも残っている。この大口土手が崩れると酒匂川の流れが足柄平野に行ってしまうため、洪水対策に非常に重要な土手になっている。 大口土手を丘隅は4ヶ月で修復し、土手を万全にするために水の流れを分散する弁慶枠を開発した。 しかし流域の村々が修復の終わった堤防の維持・管理を巡って諍いを始めた。この時丘隅が村それぞれの役割を決め、負担の公平化を図った。さらにこのルールがずっと続いていくために毎年春に堤防の上に流域の村人を呼び、祭りを催した。その狙いは人々の交流を深めるためのものだった。この祭りの費用には将軍吉宗が出した100両を使用した。また祭りに参加資格を設け、堤防を補強するための石を祭りの参加者に持ち寄らせた。なんとこの習わしは昭和に入っても続いていたという。 古くから穀倉地帯とされてきた奈川・足柄平野。恩恵を与える酒匂川は富士山麓に源を発していた。宝永噴火後、酒匂川は上流から運ばれた火山灰で川底が上昇。噴火の翌年からは洪水が頻発し、家や田畑は濁流に飲み込まれた。農民らは住み慣れた家を捨て、足柄平野は荒れ果てていった。 しかしこの土地は穀倉地帯であるだけでなく、東海道の通る要衝。幕府としても放っておくことはできなかった。今も酒匂川の堤防にいくつも残るお地蔵様もこの場所に人を呼ぶ秘策で、丘隅は人々が防災に目を向けるように様々な工夫を凝らした。丘隅たちが手を尽くした足柄平野の復興、被災地に落ち着いた暮らしが戻ったのは噴火から80年後のことだった。 火山学者・小山真人さん曰く 忘れてはならない富士山大噴火 いつ噴火してもおかしくない火山 ![]()
by cardiacsurgery
| 2017-09-04 17:41
| 国内アート
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