記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
中井貴一出演の「古代中国 よみがえる英雄伝説・始皇帝と乱世の名臣たち~春秋戦国・天下統一への道~」の再放送を視聴した。
![]() ![]() ![]() 秦の国を大改革して強大な軍事国家にしたのは「商鞅」や祖国の楚が秦に敗北するなか、悲劇の生涯を閉じた「屈原」など今よみがえる英雄たちの物語がそこにあった。 強大な始皇帝の陵墓の一角で見つかったのが兵馬俑。この兵馬俑は、死後も始皇帝の魂を守るために作られたもの。兵馬俑の身長は、180㎝で、大きいものになると200㎝もある。当時の人も、これくらいあったとのことである。 ![]() ![]() ![]() このように多様な人々を統一したのが始皇帝である。それ以前の時代は、群雄割拠の覇権を争う戦乱の時代だった。 紀元前2000年ごろに誕生した最古の王朝・夏王朝であるが、その後の殷・周など初期の国は、黄河周辺の中原一帯に栄えた。 しかし、春秋戦国時代に入り、複数の国が乱立するようになった。 ![]() ![]() 司馬遷の記した「史記」にも次のように記されている。昔、非子という者があった。馬や家畜を好み、その者は王の為に馬を育てることになる。馬は見る見るうちに増え、これを喜んだ王は、この非子に秦という土地を与えた。始皇帝からさかのぼること37代目の非子の時代、秦の国は誕生したのである。秦の始まりは、当時このあたりにいた「西戎」だったとされている。秦は、戦争に欠かせない馬の飼育に長けていたことから力をつけてきたのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 例えば「呉越同舟」は、呉と越がライバルだったところからきている。呉王夫差と越王勾践は積年のライバルで、呉王夫差の父は、越王との戦いに敗れ、その傷がもとで命を失った。呉王夫差はその恨みを忘れまいと薪の上に寝、体に痛みを感じる度に、復讐を誓い、呉王夫差は越を攻め大勝する。敗北した越王は、食事のたびに苦い獣の肝をなめて雪辱を誓い、呉の国を滅ぼす。「臥薪嘗胆」である。 ![]() それに対し中原の国々は「同盟」して結束を固めた。その儀式を「会盟」と呼ぶ。 ![]() ![]() この夏が中と一緒になって「中夏→中華」となったとされている。そして、その他の国々を「夷・蛮・戒・狄」と呼んで蔑んだ。 ![]() ![]() ![]() 秦の始皇帝は陝西省「西安」に都をおいた。その後も、いくつもの王朝が西安を都とした。西安は、12.3㎞四方、城壁に囲まれている石の街。この城壁は、明の時代に整備されたものである。西安の街には至る所に遺跡の遺産がある。陽陵(漢の皇帝の陵墓)・大雁塔・鐘楼。 古都・西安の発展の秘密は、西との交易にあった。シルクロードの玄関口だったのである。兵馬俑もギリシャ彫刻の影響を受けたともされている。 商鞅による改革で、軍事大国となった秦。始皇帝より5代前の恵文王の時代には、その圧倒的な力を背景に領土拡大に乗り出した。 しかし、これによってそれとともに難題も抱え込んだ。それは支配した国々にも文化やしきたりが根強く残っていたことである。 紀元前316年秦は南へ侵攻し、巴・蜀の国を占領した。巴・蜀は、船の形をした船棺に埋葬されている。人は死んだら船に乗ってあの世へ行くという言い伝えを信じていた。当時、川が近いこの地域では、船は大切な生活用具・交通手段だったのである。船棺の多くには、青銅の武器が埋葬されていた。秦が進出した巴・蜀の地には、独自の文化があったのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() そんな文化の違う人たちを、秦は法律で管理しようとしたが、各地で反発が生まれた。反発の原因は秦がその地の生活体系を否定したことにあった。 力で抑えるのには無理があると悟った秦は、自らを「夏」であると定めた。秦はそもそも夏から野蛮だったと思われていたが、「秦は夏だった」と話に作り変えた。秦だけではなく、秦に従った国をも夏だとした。 ![]() 始皇帝は、それだけでは満足せず、北と戦い、南と戦った。統一したとはいえ、常に敵に対して注意を払っていた。外に敵を作ることによって、中をまとめ、維持しようとしたのだともいわれている。巨大な国家でいることは、始皇帝の願いであり、不安だったのである。 このため統一を維持するための壮大な計画を考えた。安房宮の一角に、金や塩を集めていた場所は、史記に記されていた「極廟」で、北極星をかたどっているといわれている。始皇帝は、北極星という権威によって、国を統一しようとしたのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-09-02 10:07
| 東洋アート
|
ファン申請 |
||