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2017年8月29日 午前9時~11時、NHK BSプレミアムで、 Pカフェ選「世界遺産 姫路城 ~白鷺の迷宮・400年の物語~」を見た。
ハイビジョン特集 世界遺産 姫路城 ~白鷺の迷宮・400年の物語~(初回放送:2004年)日本で最初に世界遺産に登録された姫路城。そのユニークな設計や歴史にまつわる物語をひも解く。出演:中越典子、中村梅雀ほか これには、千姫・お菊・富姫・高尾太夫という女性たちが登場した。 1.千姫の化粧櫓: 2.お菊井戸: 3.富姫: 播州姫路城の天守には、伝説の「金の眼の獅子頭」とその不思議な力で生きる魔性の女たちが住んでいた。ある晩、100年の間、誰も近寄ったことのない姫路城の天守に一人の若侍が上がって来た。 彼は鷹匠の図書之助といい、城主・播磨守の命令で逃げられた鷹を探しに来たのだった。そこで富姫に会った図書之助は、彼女の姿を見ても臆せず涼やかな態度を保ったことから、本来なら生きて帰れぬところを無事生還した。 だが、途中で明かりを失った図書之助は、再び天守へ戻らざるを得なくなった。今度ばかりは命を奪おうと思う富姫だったが、図書之助の話を聞くうち、人間界の理不尽さに同情した。やがてそれは恋へと転じ、富姫は彼を帰したくなくなってしまった。 図書之助は富姫に惹かれつつも、城主の命令に背くことは出来ないと下へ戻ることを懇願した。富姫は今回もそれを許し、さらに天守に上った証拠として武田ゆかりの兜を持たせてやった。 ところが、それが原因で図書之助は窃盗の容疑をかけられてしまい、あまりの理不尽さに城主への忠誠心もなくなった図書之助は、同じ命を落とすなら富姫によって殺されたいと三度天守へ参じた。富姫は図書之助を「獅子頭の母衣」の中へ匿った。 図書之助を追って、追っ手の者たちが天守へ上がって来た。富姫は獅子頭を暴れさせ彼らを退散させようと試みたが、獅子の眼を傷つけてしまった。すると富姫も図書之助も視力を失うことになり、もはやこれまでかと二人が死を覚悟した時、獅子頭を彫った「老工・近江之丞桃六」が現れて、獅子の眼を彫り直した。獅子の眼が直ると二人の視力も回復し、桃六に救われた富姫と図書之助は永遠の愛を誓い、いつまでも抱き合った。 4.高尾太夫: 榊原家は、本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、第8代当主榊原政岑が将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。 寛保元年(1741年)春には、新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫(6代目)を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。榊原政岑は、高尾太夫(榊原高尾)を姫路城にも連れ込んでいる。 この番組では上記の女性たちの物語の他に、世界遺産 姫路城 ~白鷺の迷宮・400年の物語~に係るいろいろな物語も紹介されていた。 姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。 一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。 戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。 江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。 池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。 明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた(仔細は後述↓)。 昭和の大修理を経て姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。 江戸幕府が倒れ新政府が発足すると、それまでとは異なり、大名の軍事要塞である城は無用の長物になってきた。 全国のお城は新政府によってその存続を検討され、陸軍が施設として使えると認めた43のお城以外は取り壊された。 姫路城は存続となったが、老朽化が進んでおり修理費が莫大にかかることから、その後競売にかけられることになった。 その競売の結果、姫路市米田町の神戸清一郎氏が姫路城を落札た。その価格は23円50銭、現在の貨幣価値ではおよそ10万円ほどである。神戸氏は城の瓦や釘などを再使用するつもりだったが、姫路城の瓦などは一般の家庭には大きすぎて使えないとわかり、結局姫路城の権利を放棄してしまった。 その後、明治7年に姫路城の敷地に陸軍歩兵十連帯が設置されることになり、姫路城の櫓や門などが取り壊され、大天守も取り壊されかけた。 その時、姫路城のすばらしさを後生に残すべきだと立ち上がったのが、当時陸軍省第四局長代理だった中村重遠大佐だった(顕彰碑画像は前掲↑)。中村大佐は、陸軍卿・山県有朋に陸軍省の費用で姫路城を永久保存するための修理をすべきだとの意見書を提出し、そのおかげで1879年(明治12)に姫路城の保存が決定した。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-09-01 14:16
| 国内アート
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