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NHK-BSプレミアムで放送された「中国王朝 よみがえる伝説 悪女たちの真実」は、近年の中国で急速に進む考古学の発掘や新資料の発見から、「悪女」と非難されてきた女性たちの実像に迫る3本シリーズである。
8月26日(土)にこの3本が再放送された(1:30pm~西太后、2:30pm~楊貴妃、3:30pm~趙姫)。ちなみに、西太后の初回放送は1月25日、楊貴妃の初回放送は2月22日であった。後者については、ブログ記事としている。 初回放送を聞き逃していた西太后と趙姫については、8月26日に簡単なメモを取ったので、ここにまとめておきたい。 ちょっと脱線するが、趙妃は話題のアニメ「キングダム」でも悪女となっている。 ![]() 秦の始皇帝の母・趙姫は「淫乱」で男と共謀して秦への反乱を企てたとされていたが、最近の研究では「実はこの反乱は始皇帝の陰謀であった」という意外な真相が明らかになってきている。 趙妃は秦の始皇帝(政)の母。儒教が規範であった漢時代に司馬遷が書いた「史記」では、趙妃は宰相・呂不韋や長信侯・嫪毒(ろうあい)と情を通じ、息子の政の幽閉を企んだ希代の悪女とされている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 紀元前3世紀、敵国の趙で人質生活を送る昭襄王の孫・子楚を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。やがて荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが「政」である。 紀元前247年に「政」が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国・呂不韋が握っていた。 紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕の五カ国連合軍が攻めてきたが、函谷関の戦いで撃退した。 紀元前238年に呂不韋が失脚して、政が実権を掌握した。 始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。 ![]() 万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。 匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。 また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。 巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官趙高で、長子の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。 始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。 二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。 しかし項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。 その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き狼狽す。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。 その後、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。 【参照】始皇帝列伝 ファーストエンペラー 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-08-30 08:57
| 東洋アート
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