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NHK-BSプレミアムで放送された「中国王朝 よみがえる伝説 悪女たちの真実」は、近年の中国で急速に進む考古学の発掘や新資料の発見から、「悪女」と非難されてきた女性たちの実像に迫る3本シリーズである。
8月26日(土)にこの3本が再放送された(1:30pm~西太后、2:30pm~楊貴妃、3:30pm~趙姫)。 ちなみに、西太后の初回放送は1月25日、楊貴妃の初回放送は2月22日であった。 後者については、ブログ記事としている。 初回放送を聞き逃していた「西太后」と「趙姫」については、8月26日に簡単なメモを取った。 第1報は「西太后」である。 西太后の墓の副葬品 西太后は、政敵を残虐に殺害、王朝が存亡の危機にあるにもかかわらず、自らの別荘建設に湯水のように金を使うなど、私欲から国を滅ぼした悪女とされてきた。 しかし、彼女の墓の副葬品が初めて海外メディアに公開され、知られざる素顔が浮かんできた。 また、新発掘の資料から伊藤博文も関与する意外なクーデター計画が明らかになったという。 北京から東へ約150キロ。清歴代の皇帝が眠る東陵の中に西太后墓がある。墓は、20世紀の初め、清王朝滅亡後の動乱の時代に盗掘された。このとき、西太后の遺体は破壊され、豪華な副葬品も根こそぎ奪われたとされてきた。 しかし1970年代、文化大革命のさなかに、東陵の研究者たちが再発掘し、土の中に埋もれていた副葬品の一部を掘り出し、大切に保存していたのである。 海外のメディアには未公開、中国でも数度公開したことがあるだけという貴重な品々だが、日本の取材班には撮影が許可された。撮影には、作家・浅田次郎氏が同行。「蒼穹の昴」の取材のために西太后墓を訪れたことがあるという浅田氏が、残された遺品を見るのは初めてだった。 ラストエンペラー・溥儀が捧げた「香冊」が最も重要な遺品で、そこからは、悪女というよりも、宮廷の人々の敬愛を集めた西太后の姿が浮かび上がる。 西太后について(従来の説) 1898年、光緒帝の親政の為に一度は頤和園へ隠退するが、戊戌の変法の100日後戊戌の政変で復帰。 光緒帝が崩御した11月14日、溥儀を後継者に指名した。 東太后の死去と恭親王の失脚により、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年光緒帝の成年に伴い、3年間の「訓政」という形で政治の後見を行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 西太后について(新説) 台湾の学者・雷家聖の新説(Wikipedia)では、同治、光緒両帝の在位期間、西太后は宮廷内政治に手腕を発揮する一方、表の政治においては洋務運動を推進する曽国藩、李鴻章、左宗棠、張之洞ら洋務派官僚を登用した。 洋務運動がある程度の成果を上げて清朝の威信が回復した期間は同治中興と呼ばれる。しかし洋務運動は1895年の日清戦争により挫折する。清朝の敗北は北洋艦隊の予算不足により、艦船は整備されたものの操練が遅れていたことが主要因とされている。北洋艦隊の予算の不足については、1885年から始まった頤和園の再建と拡張に伴う予算が不足気味となったため、予算を内務府へ数百万両ほど流用した]ことや西太后の大寿(60歳)を祝う祭典で多額の出費をしたことが影響したともされている。 1896年には西太后の寵愛する寇連材という宦官が、政権の返還・光緒帝の親政を見守る事・円明園の修改築凍結・海軍経費の頤和園への流用即時停止などを意見したが、西太后はこれを刑部へ送り処刑している。 日清戦争の敗戦と光緒帝の実質的な親政開始に伴い西太后は政治から身を引くことを表明したが、朝廷への上奏のうち重要印がある物は総て西太后の元へも回され、また光緒帝の発言や動向を宦官に報告させ、重要施策についての懿旨を単独で出すなど依然として権力を持っていた。 戊戌変法の間、日本の前首相・伊藤博文が中国を訪問していた。当時、在華宣教師・李提摩太(Timothy Richard)↓は、伊藤を清の顧問にして権限を与えるように変法派リーダーの康有為にアドバイスしていた。 西太后は9月19日に頤和園から紫禁城に入り、光緒帝が伊藤をどう思っているかを問い質そうとした。 伊藤博文はその回顧録で、面会した光緒帝は伊藤に「中・日・米・英の連合合邦策」の可能性について意見を質したが、翌日には光緒帝が監禁されたと知って驚いたとしている。 伊藤は李提摩太とともに「中、米、英、日の合邦」を康有為に提案すると、それを受けた変法派官吏の楊深秀は9月20日に光緒帝に「我が皇帝が早く大計を決め、英米日の三ヵ国と固く結びつき、合邦という名を嫌う勿かれ」と上奏した。 もう一人の変法派官吏の宋伯魯も9月21日に次のように上奏した。「李提摩太が来訪の目的は、中・日・米・英と連合して合邦することにあり。時代の情勢を良く知り、各国の歴史に詳しい人材を百人ずつ選び、四カ国の軍政税務およびすべての外交関係などを司らせ、また兵を訓練して外国の侵犯に抵抗する。皇帝に速やかに外務に通じ著名な重臣を選抜するよう請う。例えば、大学士・李鴻章をして李提摩太と伊藤博文に面会させ、方法を相談し講じさす」。 あたかも中国の軍事、税務、外交の国家権限に外国人を参画させる内容である。 西太后は9月19日に紫禁城へ戻り、20-21日に報告を受けると、クーデターにより復権を果たし、変法自強運動派を粛清した。 西太后の子孫との面会 ナビゲーターの戸田恵梨香は、西太后の弟の孫と面会して、西太后が弟に与えた優しい書を拝見し、西太后が着ていたドレスを着せてもらって感激していた。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-08-28 11:21
| 東洋アート
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