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これは、「吉田博展 第1章・第2章」の続き。
第3章「画壇の頂へ 1907-1920」 帰国して間もない明治40年3月、東京府勧業博覧会の審査を廻って白馬会と太平洋画会の対立が再燃した。白馬会系の審査員が大半を占めていたことと受賞の偏りへの反発は太平洋画会の作家たちによる正式抗議と賞の返還にまで発展した。太平洋画会側の先頭に立ったのは博であった。 なお。明治40年4月には博とふじをの二人が結婚している。 明治40年10月に創設された「文部省美術展覧会」では、審査員を各派均等にし、学者も加えて審査が行われた。 この展覧会で博の《新月》東京国立近代美術館蔵(↓)は三等賞を得、ふじをは入選を果たしている。 博は「第2回文展」・「第3回文展」で二等賞に輝き、「第4回文展」で審査員に選ばれた。34歳にして、博は洋画界の頂きに登りつめたのである。 しかし、大正2年には新設された国民美術協会を黒田清輝が会頭であることを不服として脱会し、翌年の第8回文展では審査員から外された。 博が得意とした水彩画のブームは過ぎ、印象派以後の絵画を信奉する個性派が現れて、博の造形は時代遅れと見なされるに至った。このことが博を国内の山々に向かわせた。 博自身、登山を好み、次男には「穂高」と名付けるほどだった。吉田の登山は本格的で、ピーク時にはほぼ毎夏、長期に渡って山籠もりした。体力の消耗を避けるため無理な行程は組まず、心にとまる風景を見つけると一気に描画した。下界では得られない視点で描いた博の山岳風景画は秀逸で、多くの登山愛好者に親しまれている。 第三章でのお気に入り作品は以下の通り。 ・《池の鯉》明治40年 油彩 個人 第1回文展 ・《鷲羽岳の池》大正9年頃 油彩 個人 ・《ステンドグラスの窓》大正10年 油彩 個人 ・《登山口(宿場の馬)》墨画淡彩 今泉西病院 博の作品でよく知られるのが、木版画である。 遊学先の米国で、粗悪な明治時代の版画が流通している事に憤慨し、新版画に取り組んだ。 博の版画は絵師・彫師・摺師が分業する伝統的なスタイルだが、博自身が彫りや摺りの技術を習得し、職人を厳しく指導して、決して妥協を許さなかった。 摺りに使う色を変えて朝・夕・夜など表情の違う作品を作るなど、博の木版画は独創性豊かである。 故ダイアナ妃も博のファンで、来日した際に自らクレジットカードで作品を購入したことは有名であるが、執務室の壁には、博の《猿沢池》と《光る海》(後掲)が掛かっていた。 ・《明治神宮の神苑 渡邊版》大正9年 木版 個人:明治神宮外苑整備完了を記念する配り物。明治神宮奉賛会の依頼を受けた版元・渡邊庄三郎が博に下絵を頼み、明治天皇の御詠を賛として発行した。 ・《アルプスの山小屋》大正14年 油彩 福岡市美術館 ・《レニヤ山 米国シリーズ》大正14年 木版 個人 ・《マタホルン山 昼(↓)・夜 欧州シリーズ》大正14年 木版 個人:ツェルマットから望むマッターホルンである。博は、マッターホルンの険峻なさまを槍ヶ岳に、頂きの形を烏帽子岳に例えている。 ・《スフィンクス 昼・夜 欧州シリーズ》大正14年 木版 個人 ・《剣山の朝 日本アルプス十二題》大正15年 木版 個人:野営の夜明けの特別な一瞬。中景の尾根が朝日を受けて紅色に輝き、入道雲が立ち上がる空は夏空の様相である。テントでは朝餉の準備が始まっているが、まだ夜の闇が濃い。色のグラデーションとともに、前景に施された粗い摺りが奥行を示している。 ・《帆船 朝・午前・午後・霧・夕・夜 瀬戸内海集》大正15年 木版 個人:渡邊版の《帆船》三部作は大正12年の関東大震災で版木のすべてと作品の大半が失われた。博は私家版で再び子の画題を取り上げ、サイズをやや広げて6点に展開した。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-07-11 21:56
| 近代日本美術
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