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不染鉄(ふせんてつ)という画家のことは、今回東京ステーションギャラリーで開かれる展覧会「不染鉄 没後40年 幻の画家」の内覧会で初めて知った。
不染鉄(本名哲治、のち哲爾。鐵二とも号する)は、稀有な経歴の日本画家。日本画を学んでいたのが、写生旅行先の伊豆大島・式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。才能を高く評価されながら、戦後は画壇を離れ、晩年まで飄々と作画を続けた。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。画業の多くは、謎に包まれてきた。 その作品も、一風変わっている。富士山や海といった日本画としては、ありふれた画題を描きながら、不染ならではの画力と何ものにもとらわれない精神によって表現された作品は、他のどの画家の絵とも異なり、鳥瞰図と細密画の要素をあわせ持った独創的な世界を作り上げている。 不染は「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」とし、潔白な心の持ち主にこそ、美しい絵が描けると信じて、ひたすら己の求める絵に向きあい続けた。 東京初公開となるこの展覧会では、代表作や新発見された作品を中心に、絵はがき、焼物など約120点を展示し、日本画家としての足跡を、改めて検証するとともに、知られざる不染鉄作品の魅力を探っている。 展覧会構成 第1章 郷愁の家 明治24(1891)年、東京小石川の光円寺に生を受けた不染鉄は、20代初め、日本美術院研究会員となり、写生旅行に行った伊豆大島・式根島で3年もの間、漁師として生活を送った。その後、京都市立絵画専門学校に入学し、在学中には特待生となり、第一回帝展に入選、首席で卒業した後も、度々帝展に入選を重ねた。横山大観らによって試みられた朦朧体を思わせる作品や、四季折々の山や海、人里にひっそりと佇む家を主題としたこの時期の作品からは、不染が若くして優れた日本画の技法を習得し、瑞々しい感性も兼ね備えていたことがうかがえる。 ・《林間》大正8年頃 奈良県立美術館 166x85cm 林の中に佇む二棟の茅葺屋根の家を描いている。木々は色づき始めているが、手前の葵の葉はまだ緑である。 大正時代の画壇では、南画に近代的な解釈を加えた「新南画」と呼ばれる絵画が生まれる一方、大正10(1921)年には、全国の南画家によって、「日本南画院」が結成され、南画に対する再評価の機運が高まった。昭和15(1940)年、大東南宗院が設立されるにあたり、不染も《秋》を招待出品した。奈良、大磯、横浜、東京と転居し、各地を旅した不染は、理想と現実の風景を織り込んだ山水画に、自由闊達に筆を揮った。小さな文字で書き散らされた画賛には、温かみのある心情が詠み込まれている。 ・《思出之記(田園、水郷、海邊》昭和2年帝展 個人蔵 31.5x293.5cm, 32x260cm, 31x260cm 自然と共に暮らす人々の姿を俯瞰的な構図で細やかに描き出している。画面には書簡風の文章も綴られており、不染独特の画文一致の絵画世界である。 昭和21(1946)年、不染はかつて図画の教員を務めていた奈良県正強中学校の理事長に請われ、のちに、正強高等学校(現・奈良大学付属高等学校)の校長に就任、1976(昭和51)年に他界するまで、奈良に住み続けた。奈良の地に親しみ、アーネスト・フェノロサが、「凍れる音楽」と評したといわれる薬師寺東塔に着想を得て、日本画に焼物にと、しばしば作品にしている。それに加え、古より霊峰と崇められた富士山を好み、大正末期から繰り返し描いた。とくに、俯瞰と接近の相まった独特な視点でとらえ、太平洋に群れ泳ぐ魚から雄大な富士山を越えて、雪降る日本海の漁村まで、はるかに広がる本州を表した「山海図絵」は、代表作の一つである。 ・《薬師寺東塔之図》昭和45年頃 個人蔵 41x52cm 薬師寺の東塔は創建当時から1300年経ても、唯一現存している建物で、国宝に指定されている。この三重塔には、各層に裳階と呼ばれる小さな屋根があり、それらを含めると、六重のように見え、軒が長短して重なり、リズミカルな印象を与えることから、「凍れる音楽」とも称される。この図では、曙に染まる空と奈良の町を包み込む霧が、幻想的な背景となり、生い茂る緑に覆われた東塔は、先端の水煙までくっきりと表されている。 昭和27(1952)年、不染は正強学園理事長を退任し、画業に専念した。そんなとき思い出されるのは、20代半ばに過ごした伊豆大島・式根島での日々。3年という短い歳月ながら、この地での経験は、ひときわ強く心の奥底に刻み込まれ、不染は堰を切ったように海を描くようになる。神秘的な深い海に浮かぶ、蓬莱山を思わせる切り立った孤島に、幾重にも波頭が打ち寄せ、波間に一艘の舟がたゆたう様は、島での記憶を独自の心象風景に昇華させた、不染鉄芸術の頂点であり、秀逸な筆致で表現された世界は、見る人を閑寂な画中へいざなうようである。 ・《南海之図》昭和30年頃 愛知県美術館 174.8x93.8cm 波間にたゆたう一艘の帆船は不染自身の姿である。力強く隆起した磯の岩場から視線を上げれば切り立った孤島の上に小さな家が散らばり、人が生活していることが分かる。伊豆大島の岡田村の人々と暮らした記憶に、不染の心中にある理想の風景を重ね合わせて、美しい心象風景へと昇華させたのだろう。 老境に入り、一人悠々自適に暮らす不染のもとに、その人柄にひかれた奈良女子大学の女子学生らが集い、年の差を越えた交流が始まった。とくに好意を寄せた女性には、自らの生い立ちや日々の暮らしの光景を描いた絵はがきを幾度となく送り、幼いころの思い出や母への思慕の情、日常生活の中の感動について、ときにはユーモアを交えながら書き添えている。こうした創作意欲を掻き立てる存在ができたことで、晩年には次々と情感豊かな作品が生まれ、「いヽ人になりたい」と願った不染の無垢な思いが伝わってくる。 ・《古い自転車》昭和43年12月29日 個人蔵 65x65cm 長いあいだ苦労したんだろうねえ、雨の日風の日色々のことがあったんだろうねえ。此の頃はピカピカの自動車が走るあいだをふらふら心細そうに走るのかねえ、こいつ何だか私に似てるよ。私は七十八だよ、いくらかふらふらだよ。君は少しさびているところどころはげているが私もはだかになれば君と同じさ。友だちだねえ。これをかいてると色々思い出すねえ。春の櫻や夏の月やそれからそれとつきないねえ。今は冬に彼の枯野かなあ。 淋しいけどこれもいいぜ。身にしみるあ。なんだかお前と俺とは一つものか自転車と俺は同一人か。
by cardiacsurgery
| 2017-07-01 00:03
| 近代日本美術
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