記事ランキング
ブログパーツ
最新のトラックバック
外部リンク
以前の記事
2021年 01月 2020年 11月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 more... カテゴリ
全体
国外アート 西洋中世美術 ルネサンス バロック 印象派 印象派後期 現代アート(国外) 東洋アート 仏像 国内アート 江戸絵画(浮世絵以外) 浮世絵 近代日本美術 戦争画 現代アート(国内) アート一般 書籍 音楽 映画・写真 講演会 北海道の鈴 東北の鈴 関東の鈴 中部の鈴 関西の鈴 中四国の鈴 九州の鈴 ヨーロッパのベル アジアのベル アメリカのベル オーストラリアのベル 未分類 フォロー中のブログ
検索
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
|
ジャコメッティは、画家の父の影響もあってか、10代の初め頃から、静物や家族をモデルに油絵や彫刻を試みるようになった。また、過去の巨匠たちによる作品の版画に基づく模写も行い、その中には日本の浮世絵も含まれていた。 ・葛飾北斎《うばがえとき》元良親王(↓)ジャコメッティ模写 1911年:ジャコメッティが10歳の時に模写した作品。矢内原伊作がジャコメッティからもらったもので、現在は神奈川県立美術館蔵。 画家であった父から「普通の距離」に置いた洋梨を「梨があるとおりに、見えるとおりに」描けと言われ、試みてみたが、出来上がったものはいつも小さくなってしまっていた。この体験によって「大きさの観念の喪失」がジャコメッティのトラウマとなってしまった。彼がモデルに基づく制作から記憶に基づく制作へと方向転換したのも「見えるがままに描くことへの呪縛」から離れるためだった。 同時代の芸術と西洋の外へのまなざし 1922年、20歳でパリに出たジャコメッティは、当時新しい芸術として認められつつあったキュビスムをはじめ、アンリ・ローランスやコンスタンティン・ブランクーシといった同時代の芸術家、さらにルーヴル美術館で目にした古代エジプトやエトルリア美術、民俗学博物館で出会ったアフリカやオセアニア彫刻の造形からも影響を受けた。 ・《女=スプーン》1826/27年 ブロンズ 財団美術館 1930年、ジャコメッティの作品を見たサルバドール・ダリとアンドレ・ブルトンにシュルレアリスム運動に誘われ、シュルレアリスム展にも参加した。この時期、檻の中や舞台の上に複数のオブジェを組み合わせた彫刻作品を制作している。しかし、結局はシュルレアリスム的表現が彼のトラウマを癒すことはなく、1934年にはシュルレアリスムに別れを告げ、再び「見えるものを見えるままに描く」終わりなき探究に回帰した。 ・《鼻》1947年 ブロンズ 大坂新美術館建設準備室 シュルレアリスムから離れた翌1935年、ジャコメッティはモデルに基づく彫刻を試みるようになった。オブジェを放棄したジャコメッティにさらなる試練が襲い掛かった。写生にたち戻り、記憶に基づき制作していたが、記憶のなかの人物はどんどん遠ざかて、収縮してなっていき、終いには作品そのものもマッチ箱に納まるほどの極小サイズになり、台座だけがおおきくなっていった。 ・《小像》1946(1980)年 23.5 x 7 x 10cm ブロンズ 財団美術館 戦後、ジャコメッティの彫刻は高さを取り戻したが、現実に近づこうとすると、今度は細長くなっていった。ジャコメッティの代名詞ともいえる細長い彫刻は、女性立像、歩く男、指差す男、倒れる男、そしてひとつの台座に複数の人物を配した群像といったさまざまなヴァリエーションとして展開された。 ・《大きな像(女:レオーニ)》1947年 ブロンズ 169 x 19.5 x 41cm 財団美術館 モデルの顔を「見える通りに」捉えるという、決定的な重要性をもつと同時に、到達不可能な探究に身を投じたジャコメッティ。消しては描き、描いては消すという、終わることのない闘いのパートナーとして、最も忍耐強く、献身的にモデルを務めたのが、弟ディエゴと妻アネット、そして矢内原伊作だった。 ・《ディエゴの胸像》1954年 ブロンズ 豊田市美術館 日本人哲学者、矢内原伊作(1918~1989)は1956年以降、幾度もジャコメッティのモデルを務めた。 矢内原は、自分の顔を描いては消し、消しては描くジャコメッティの創作に付き合い、彼を励まして、不可能ともいえる挑戦に共闘した。 ジャコメッティが矢内原に熱中したのは、東洋的な顔立ちや忍耐強さだけではなく、矢内原が誰より彼の探究を正確に理解していたからであった。 ジャコメッティ没後のアトリエには彼が手放さなかったとされる矢内原をモデルにした石膏像と肖像画が置かれ、矢内原の手元には自身がモデルとなったジャコメッティのスケッチが最後まで置かれていた。 不断の探究を伝える素描・版画・写真 彫刻家として名を馳せたジャコメッティが最も日常的に行っていたのはデッサンだった。ジャコメッティは「素描はすべての芸術の基礎である」と語り、行きつけのカフェで新聞や紙ナプキンに即興で人をスケッチするほど頻繁に手を動かしていた。 ジャコメッティは対象の輪郭を1本の線で描くことは決してしなかった。時間を空間化するように、何本もの細かな線をわずかにずらしながら幾重にも重ねていった。見えるものをより深く見つめ、見たままに作品に表そうとするあまり、作品を破壊することもジャコメッティは躊躇しなかったといわれている。「試みること、それがすべてだ」とは彼の名言であるが、ジャコメッティにとっては完璧な何かを作ることが目標ではなく、その過程こそが重要な意味をもっていた。 ・《ディエゴ》1949 鉛筆 財団美術館 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-06-16 10:55
| 現代アート(国外)
|
ファン申請 |
||