タイトルの「青葉の笛=(平敦盛x熊谷直実)+(藤原俊成x平忠度x岡部忠澄)」は、唱歌「青葉の笛」の解である。この唱歌は平家物語を読みこなした人でなければ難解なので、この記事を書くこととした。
Ⅰ.唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)
一の谷の 軍破れ 討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
更くる夜半に 門を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や今宵」の歌
※「花や今宵」の歌:行き暮れて 木下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまじ
一番は、平家物語巻九「敦盛の最期」の場面を歌っている。
鵯越えで有名な一の谷の合戦で、海上に逃れようとした敦盛は、熊谷直実に呼び戻された。敦盛を組敷き首を刎ねようとした直実は、十四歳の敦盛に驚き一旦は逃がそうとしたが、味方が近づいてきたため、直実は敦盛を討たざるをえなかった。その時敦盛が腰に携えていた笛が祖父・平忠盛が鳥羽院より賜った名笛「小枝」(または「青葉」)
二番は、平家物語巻七「忠度都落ち」と巻九「忠度最期」の二場面を、続けて歌っている。巻七では、一度都落ちした忠度が京に取って返して歌の師・藤原俊成に、近々編纂される勅撰和歌集のために自分の歌百余首を収めた巻物を託したこと、巻九では、一の谷で忠度が討たれた時に箙の中に残っていた歌が、題「旅宿の花」で「行くれて木の下かげを宿とせば花や今宵の主ならまし」であったことを記している。
「千載和歌集」の撰者・俊成は、朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌「さざなみや 志賀の都は 荒れにしを昔ながらの 山桜かな」を一首のみ「詠み人知らず」として掲載した(千載集六十六)。
「千載和歌集」以降の
勅撰和歌集には11首が入集し、「
新勅撰和歌集」以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。
Ⅱ.平家物語 巻第九「敦盛の最期」

いくさやぶれにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、「よからう大將軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたうツたる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ藤の弓もツて、連錢葦毛なる馬に黄覆輪の鞍をいてのツたる武者一騎、沖なる舟にめをかけて、海へざツとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大將軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろをみせさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてとツてかへす。
(平家物語画帖 86 敦盛最期の事 根津美術館蔵 ↓)

汀にうちあがらむとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とツておさへて頸をかゝんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うすげしやうしてかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて容顔まことに美麗也ければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。「抑いかなる人にてましまし候ぞ。なのらせ給へ、たすけまいらせん」と申せば、「汝はたそ」ととひ給ふ。「物そのもので候はね共、武藏國住人、熊谷次郎直實と名のり申す。「さては、なんぢにあふてはなのるまじゐぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとツて人にとへ。みしらふずるぞ」とぞの給ひける。熊谷「あツぱれ大將軍や、此人一人うちたてまたり共、まくべきいくさに勝べき樣もなし。又うちたてまつらず共、勝べきいくさにまくることよもあらじ。小次郎がうす手負ひたるをだに、直実は心ぐるしうこそおもふに、此殿の父、うたれぬときいて、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たすけたてまつらばや」と思ひて、うしろをきツとみければ、土肥・梶原五十騎ばかりでつゞいたり。熊谷涙をおさへて申けるは、「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵雲霞の如く候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同くは直實が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、「たゞとくとく頸をとれ」とぞの給ひける。熊谷あまりにいとおしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、めもくれ心もきえはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣々頸をぞかいてンげる。「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武藝の家に生れずは、何とてかゝるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣ゐたる。良(やゝ)久うあッて、さてもあるべきならねば、よろい直垂をとッて、頸をつゝまんとしけるに、錦の袋にいれたる笛をぞ腰にさゝれたる。「あないとおし、この曉城のうちにて管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。當時みかたに東國の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上﨟は猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是をみる人涙をながさずといふ事なし。後にきけば、修理大夫經盛の子息に大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ熊谷涙が發心のおもひはすゝみけれ。件の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられたりしを、敦盛器量たるによツて、もたれたりけるとかや。名をばさ枝とぞ申ける。狂言綺語のことはりといひながら、遂に讚佛乘の因となるこそ哀なれ。
Ⅲ.平家物語巻七「忠度都落ち」
薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度」と名のり給へば、「落人帰り来たり」とて、その内騒ぎ合へり。薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、このきはまで立ち寄らせ給へ」とのたまへば、俊成卿、「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開けて対面あり。ことの体、何となうあはれなり。

薩摩守のたまひけるは、「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御ことに思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。 撰集のあるべきよし承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。三位これを開けて見て、「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」とのたまへば、薩摩守喜んで、「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して」とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて、立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。そののち、世静まつて千載集を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「詠み人知らず」と入れられける。「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな」その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり。
Ⅳ.平家物語 巻九「忠度最期」薩摩の守忠度は、西の手の大將軍にておはしけるが其の日の装束には、紺地の錦の、直垂に、黑絲縅の鎧著て、黑き馬の太う逞しきに、沃懸地の鞍置いて乘り給ひたりけるが、其の勢百騎ばかりが中に打圍まれて、いと騷がず、控へ控へ落ち給ふ所に、こゝに、武藏の國の住人岡部の六彌太忠純、よき敵と目を懸け、鞭鐙を合せて追つかけ奉り、あれは如何に、よき大將軍とこそ見參らせて候へ。正なうも敵に後を見せ給ふもの哉。返させ給へと言を懸けければ、これは御方ぞとて、ふり仰のき給ふ内甲を見入れたれば、鐵漿黑なり。あつぱれ、味方に鐵漿付けたる者はなきものを。如何樣にも、これは平家の公達にてこそおはすらめとて、押雙べてむずと組む。これを見て百騎ばかりの兵ども、皆國々の驅武者なりければ、一騎も落ち合はず、我れ先にとぞ落行きける。薩摩の守は聞ゆる熊野育の大力、究竟の早業にておはしければ、六彌太を摑うで、憎い奴が、御方ぞと云はば云はせよかしとて、六彌太を捕つて引寄せ、馬の上にて二刀、落付く所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へて頸搔かんとし給ふ處に、六彌太が童、殿馳に馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩の守の右の肘を、臂のもとよりふつと打落す。薩摩の守、今はかうとや思はれけん、暫し退け、最期の十念唱へんとて、六彌太を摑うで、弓長ばかりぞ投げ退けらる。其の後西に向ひ、光明遍照十方世界、念佛衆生攝取不捨と宣ひも果てねば、六彌太後より寄り、薩摩の守の頸を取る。

よい首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙に結付けられたる文を取つて見ければ、旅宿の花と云ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる、「行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度」と書かれける故にこそ、薩摩の守とは知りてげれ。やがて、頸をば太刀の鋒に貫き、高く差上げ、大音聲を揚げて、此の日來日本國に鬼神と聞えさせ給ひたる薩摩の守殿をば、武藏の國の住人、岡部の六彌太忠純が討奉つたるぞやと、名のつたりければ、敵も御方もこれを聞いて、あないとほし、武藝にも歌道にも勝れて、よき大將軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞ濡しける。
美術散歩 管理人 とら