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長い連休最終日の日曜美術館は「器のむこうに人がいる~茶の湯が生んだ至高の美~」だった。
以下が、番宣。 信長、秀吉、家康…天下人をはじめ、多くの人たちを魅了してやまない茶わん。茶を飲む器が、なぜ人々を夢中にさせる? その秘密を名品と時代のつながりからひもときます!自宅で茶道教室を開いている家内は、熱心にメモを取っている。 私は、気楽に見ていたが、そのうちに落語家の春風亭昇太師匠が登場した。 彼の好みの茶碗「三好粉引」は、私の好みでもある。釉薬が掛かっていない場所が、剣を交叉しているように見える。 大阪府大東市にある「河内飯盛城址」は、大阪府最大級の戦国時代の山城で、戦国大名・三好長慶の居城だった。 【参考】三好当主 o三好長慶(1522-64 阿波芝生城→摂津越水城→摂津芥川山城→河内飯盛山城) o三好義興(1542-63 長慶・嫡男 摂津芥川山城) o三好義継(1549-73 長慶・甥 河内飯盛山城→河内高屋城→河内若江城) 三好一族は、三好政長・三好長慶・三好義賢・安宅冬康・三好康長・松永弾正久秀らで、「佗茶」を実現した武野紹鷗(1502-55)に師事した。 三好長慶が愛用した「三好」の名を冠する高麗粉引茶碗の「粉引」とは、白い粉が吹き出したように見えることによる。鉄分の多い黒褐色、砂混じりの淡褐色の素地に白泥をずぶ掛けし、全面に白化粧した上に薄く透明の釉薬を掛けたもので、李朝初期から中期に全羅南道で焼かれたという。 「応仁の乱」(1467‐77年)から戦国乱世にかけて8代足利将軍義政が収集していた「東山御物」は戦国大名家に流出したが、その多くを京畿を支配していた三好一族や堺の会合衆が手にした。三好長慶の父・元長は1527年から5年間「堺幕府」(堺政権)を樹立していた。それらが織田信長の「名物狩り」で信長の手に渡り、天下支配の権威として利用された。 河内飯盛城想像鳥瞰図(山本書院グラフィックスより)2016年2月28(日)その飯盛城のある大東市民会館キラリエホールで、「昇太師匠と中井教授の飯盛城 落語と城トーク」が開催され、城の関連書籍なども執筆されるほどの大の城好きの人気落語家 春風亭昇太師匠も参加されたとのことである。 【追記】「茶の湯の歴史」は東博のジュニア・ガイドによく書けている。その概要は以下のようである。 ・鎌倉時代のはじめ:中国から伝わったお茶は薬として飲まれていた。将軍・源実朝が二日酔いになった時、禅僧・栄西(1141-1215)が茶を勧めた。 ・鎌倉時代のおわり:禅宗寺院では儀式としてお茶を飲み、武士たちはステイタスとしてお茶の産地を当てる「闘茶」などを楽しんだ。 ・室町時代①:室町幕府の将軍は茶の湯に親しみ、中国から最高級の美術品を取り寄せて室内を飾り、お茶を楽しんだ。特に足利義政(1436-1490)は高級美術品コレクションを有していた。 ・室町時代②:京都を中心に有力な商人たちの間で、中国の高級な美術品ではなく、身近にある日常のうつわをとりいれた「侘茶」が誕生した。珠光(1423-1502)曰く「シンプル・イズ・ベスト」 ・安土桃山時代①:織田信長や豊臣秀吉らの武将たちは、茶湯道具を戦で手柄を立てた家臣への褒美に用いた。武士にとって茶湯道具は財力と権力の象徴でもあった。 ・安土桃山時代②:堺の商人・千利休は自分好みの道具を作りだし、「侘茶」の新しいスタイルを生み出した。千利休(1522-1591)曰く「花は野にあるように」 ・江戸時代:初期には、大名たちのための新しいスタイルの茶の湯を広めた古田織部や小堀遠州、後期には茶湯道具コレクションが後の時代に影響を与えた松平不昧などの大名茶人がいた。松平不昧(1751-1818)曰く「客の心になって亭主をせよ」 ・明治時代:藤田香雪・益田鈍翁らの実業家たちは、かって大名が持っていた茶湯道具を集め、伝統を重んじつつ、新しい時代の茶の湯を作り上げた。益田鈍翁(1848 -1938)曰く「楽しんでこそ、上手なれ」 益田鈍翁の茶室が東博に寄付され「応挙館」として活用されているが、ここでお茶を頂いたことがある(参照)。 円山応挙の襖絵のある応挙館の茶室は、御殿山にあった時に益田鈍翁が「三十六歌仙佐竹本」を切断してしまったという曰くつきの部屋である。 床の間の画は松が主体で竹と岩もあった。花は蕾の桜・シャガ・椿、次の間の画は鴨が主体で葦もある。
by cardiacsurgery
| 2017-05-08 11:58
| 国内アート
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