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これは、3月30日(木)午後8時~9時に、NHK BS プレミアムで放送された英雄たちの選択「藤堂高虎”家康暗殺計画” 運命の決断」のメモである。
放送の番宣は以下の通り。 「築城の名手」か?「裏切り者」か?戦国の猛将・藤堂高虎の正反対の評価には、天下を揺るがす徳川家康暗殺計画が隠されていた!日本の未来を賭けた高虎大一番の決断とは?【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】垣根涼介,羽場久美子,藤田達生,【語り】松重豊 ![]() 築城の名手といわれた藤堂高虎は、最終的には32万石の大名に上りつめたが、一方では主君を7人以上も替え、天下人まで乗り換えたため、「裏切り者」「風見鶏」とも呼ばれてきた。 高虎は、1556年、近江国犬上郡藤堂村の藤堂虎高の次男として生まれた。藤堂氏は先祖代々在地の小領主の武士だったが、虎高の代では渡り奉公人にまで身を落としていた。 高虎は、家中のすべての乳母の乳を飲み干し、3歳で餅を食い、乱暴を働き、10歳では大人以上の身の丈に達していた。 14歳で浅井長政に足軽として仕え、1570年の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受けたが、17歳の時に同僚を斬って浅井家を出奔した。 その後、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征の許では2人を惨殺し、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えたが、やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えたが恩賞が少ないと長続きしなかった。 このように高虎は若い時に6人の主君に仕え、4人から逃げ出している。このような高虎が転機を迎えたのは、1576年、高虎21歳の時に、秀吉の弟・羽柴秀長に300石(直前は80石)で召し抱えられた時である。 羽柴秀長は、22歳の時に、兄・羽柴秀吉に誘われて百姓から武士になり、秀吉の下で諸大名との調整役を務めており、大勢の地方大名(大友・徳川・島津・長曾我部)の相談役にもなっていた。 頭の回転が速い高虎は、秀長の但馬の居城を、前領主の山城を修復し、石垣で囲む造りとした。この功績により、300石から4600石に増えた。 1585年に秀吉は紀州を平定し、その地を秀長に任せた。秀長は高虎を和歌山城の築城に当たって「普請奉行」に抜擢し、高虎は1万人を動員して、1年で完成させた。これが高虎の最初の築城であったが、高虎は築城の名手として成長していったのである。 秀長と高虎の良好な関係についての番組出演者の意見は下記のようである。 ・藤田達生:自分に自信のある高虎は、自分で主君を選び、契約した。当時は、荘園領や土豪の支配力が強く、勢力争いが多くて、生産性が悪かった。秀吉は、この体制を改革するために、「中央集権体制」への移行を考え、これを確立するために「刀狩り」と「太閤検地」を強行した。この際、秀吉は地域の事情を全く考慮しなかったため、各地で一揆が発生した。 高虎は、当初、秀吉の改革を実行しており、紀州で刀狩りと太閤検地を強行した。1589年、北山一揆の鎮圧の拠点としての石垣造りの赤木城(現三重県熊野市紀和町)築城に当たっては、高虎は反抗した農民500人を田平子峠で斬首した。 高虎の運命は、1591年の秀長の病死によって、秀吉直属となったことによって大きく変わった。 伊予7万石の大名に抜擢された高虎は、宇和島の地で前領主・戸田勝隆の厳しい統治により、一揆が多発した。「清良記」によると、農民はこれ以上にないほど逼迫し、年貢を納めなかった者には、妻子を水に漬け、縛り上げるなどした。一揆を鎮圧するために800~2000人の農民殺戮が行われた。 高虎は、結果として農地が荒廃している現実を見た。このため、高虎は荒地の新規開拓者からは1年間の年貢を取らず、三嶋神社などの地域の神社を私財を投じて復興させた。 地域に根付いた信頼関係の回復は、天下のあり方が変わり始めたことを意味している。秀吉の中央集権化には、必然的に暴力を伴っており、「楽しくない平和」が実現されただけだった。 1598年の秀吉没後に起こった徳川家康を中心とする五大老と石田三成を中心とする五奉行との間の政治闘争が起こった。 高虎は治める者としての自らの感じに基づいて、両者のいずれに付くかという重大な選択を行うこととなった。 その際に、高虎の心の中には次のようなことがあったのだろう。 ・秀吉の中央集権体制を続けると安定した社会とならない。「慶長軍記」によれば、1599年3月10日に、前田利家の病気見舞いに訪れる徳川家康の暗殺する計画を石田三成らが立てた。 家康が船で伏見から大坂の「八軒家」に着いた時に、陸上には見慣れぬ駕籠が待っていた。この駕籠から出てきたのは高虎で、「自分は家康の駕籠で家康の身代わりで先に行くから、家康は自分の駕籠を使って遅れて来てくれ」と話したのである。結局、二人は三成方の襲撃を免れた。三成方の夜襲を恐れた高虎は、大坂の自宅に家康を泊めて、厳戒態勢をしいたのである。 すなわち、高虎は「家康を見殺しにせず自ら助ける」という選択をしたのである。 高虎は1600年の関ヶ原の戦いでは「寝返り工作」に暗躍し、家康が江戸幕府を開くと、その側近となった。豊臣から徳川へと主君を変えたのである。 伊予⒛万石の大名となった高虎は、今治の城を平地に作って城まで通りやすいものとし、天守も簡素化し、規格化した。太平の世に相応しい城に設計しなおしたのである。 「伊予今治城図」を見ると、城下町があり、そこの住人からは年貢をとらないこととした。経済発展のために職人や商人を優遇したのである。 家康が指名した15名の他大名が城を作る際には、高虎が出張して指導し、それぞれの地方発展にに寄与した。 最終的には、高虎は津藩32万石の大名となった。高虎は、息子たちには「領国は将軍から預けられたもので、大名はかりそめの主である」と告げていた。この考え方が幕末の大政奉還にも役立った。 高虎は、1630年、75歳で逝去した。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-04-08 07:00
| 映画・写真
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