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これは、4月6日8日(木曜 )午後8時~ 9時のNHK BSの「“関ヶ原”敵中突破!! 家康に負けず 島津の力」のメモである。
以下はこの放送の番宣。 西軍が総崩れとなり、家康勝利が目前となった関ヶ原の戦い。その時戦場に、西軍の島津軍が取り残された。絶体絶命のピンチ。軍を率いる島津義弘がとった驚異の脱出戦法とは【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】山本博文,島田久仁彦,小谷賢,【語り】松重豊 これは兄・島津義久と弟・島津義弘の物語。弟・島津義弘は関ケ原の戦い(慶長5年9月15日)の西軍に参陣。東軍7万、西軍八万以上という兵力にくらべ、島津義弘軍の兵は僅か1500人で、弟の援軍要請に対し兄は兵を送らなかった。当時の島津家では必ずしも西軍に与する積極的理由がなかったので、東軍勝利のばあいでも、島津家当主の兄は「弟が勝手に参戦した」と言い逃れようとしていたのである。 ![]() ここで「第一の選択」が登場する。島津義弘(鬼島津)が退却するには、どの方向に向かえば良いか?という問題に関してである。この退却戦は「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれており、実際の戦法は「捨て奸(かまり)」で、少数の銃撃隊を残しつつ大将・島津義弘だけは助けんとする作戦である。 【選択1】西へ退却:「北国街道」あるいは「中山道」へ 【選択2】南へ退却:敵中突破して「伊勢街道」へ 【出演者の選択】小谷賢⇒西(北国街道), 島田久仁彦⇒南(伊勢街道), 山本博文⇒南(伊勢街道), 磯田道史⇒西(中山道) 【島津義弘の選択】南(伊勢街道)。「猛勢の福島正則軍の方向」に敵中突破を試み、その勢いに東軍の猛者・福島正則が道を譲った。これをまずい見た徳川家康の意を戴して島津義弘を攻めた井伊直政は負傷した。一方、南の伊勢街道を選んだ島津義弘も、甥・島津豊久をはじめとして多数の兵を失ったが、脇道を迂回して落ち武者狩りを切り抜け、堺から船に乗り、10月3日に薩摩に帰着した。1500人の兵の内生存者は僅か80人であった。 ![]() 「第二の選択」は、これに対する島津家の選択である。 【兄・義久の選択】抗戦 【弟・義弘の選択】和睦 【出演者の選択】小谷賢⇒和睦(兄弟の腹芸), 島田久仁彦⇒抗戦, 山本博文⇒抗戦, 磯田道史⇒抗戦 【兄・義久の行動】徳川家康に2年間で100通もの手紙を送って、外交交渉を続け、家康からの上洛要請に理由を付けて断っていた。 その間、「家康」に対明貿易の希望があることを知っていた義久は、出入りの運送業「伊丹屋」を唆して明船2隻を沈没させるなどのアピールも行っている。 慶長7年(1602年)、義弘の息子・島津忠恒が上洛し、改易を免れて、全領安堵を勝ち取った。 磯田道史は、徳川家康が当初薩摩に対明貿易を任せたことが失策だったのではないかと述べている、 薩摩は琉球も支配し、中央からの独立の気風を失わなかったが、これが幕末明治に繋がっている。 島津義弘ゆかりの「妙円寺詣り」は現在も鹿児島で行われている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-04-07 07:00
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