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おんな城主ものがたり その2 清心尼
戦わないおんな城主 八戸氏二十一代城主 清心尼 慶長19年(1614年)、八戸氏20代・直政の急死により、後継者とする男子がいなかったため、次の後継者が決まるまで、一時、直政の未亡人(本家・盛岡藩初代藩主・南部利直の姪)を当主とすることになり、本家である南部利直もこれを承諾した。 以前から八戸地方を手に入れようと思っていた南部利直は、一旦、直政の未亡人に21代当主をさせ、後に自分のめがねにかなった婿を取らせて、八戸氏を意のままに操ろうと企んでいた。そのことを察していた直政の未亡人は髪を切り、仏門に入って「清心尼」という尼になった。尼に婿を取らせることはできないため、利直は婿を取らせることはあきらめ、表面上は自分が後ろ盾となって、八戸地方を治めることにした。 この元和3年(1617年)3月31日付の証文により利直は毎年、「田名部を返せ」と催促されることになった。 利直は清心尼の娘婿に自分に都合の良い養子を送り込もうとしたが、清心尼にきっぱりと断られた。ここにも、八戸氏を南部利直の意のままにはさせないという、清心尼の意地が伺われる。 八戸氏22代当主には、新田家からの養子・直義が決まったが、寛永4年(1627年)には、今度は利直から遠野・横田城への移封を命じられた。 度重なる利直の仕打ちに、家臣たちの怒りは頂点に達し、一戦交えようという空気になった。隠居していた清心尼は「ここで利直に戦を仕掛ければ、主君に背いたという口実で、九戸政実のように幕府に取り潰されてしまう」と八戸氏のために我慢するよう家臣を諭した。 遠野に移ってからは当主である直義が盛岡城常駐となったため、遠野には家老が置かれたが、遠野は実質的には清心尼によって治められた。 清心尼は、城下町・遠野を活性化させるため、遠野の各町家に雛人形が飾らせ、それぞれの雛人形を「見せておぐれんせ」と巡らせたが、現在でも家々に伝わる雛人形見学の「雛めぐり」が慣わしになっている。 【おんな城主3人】 その1:井伊直虎 その2:清心尼 その3:立花誾千代
by cardiacsurgery
| 2017-03-23 08:29
| アート一般
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