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中国王朝 よみがえる伝説「悪女たちの真実 楊貴妃」(番宣↓)は、2月22日(水) 午後9:00~10:00、[BSプレミアム] で放映された。
歴史の新発見から中国の悪女の素顔に迫るシリーズ。傾国の美女・楊貴妃。皇帝がその美におぼれて政治を忘れ反乱を招いたとされるがその真相は?これを番組Aとする。 一方、その前日の2017年2月21日には、2016年10月13日に放送された BSプレミアム:ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「大国を衰退へと導いた美女~楊貴妃~」が再放送された。番組内容は以下の通りである。 【司会】岡田准一,【ゲスト】鳳寛子,【出演】杉本彩,宮澤エマ,諸田龍美こちらを番組Bとする。 楊貴妃(719-756年)は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。 生涯 出生 蜀出身。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人。四川省には、幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。 寿王妃から女冠へ 735年、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されたが、737年に武恵妃が死去したため、翌年に宦官・高力士の薦めによって李璵が皇太子に冊立された。 740年、楊玉環は玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった(道号:太真)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。 楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。 貴妃となる 745年、楊玉環は貴妃に冊立された。父の楊玄淡は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈され、また、叔父の楊玄珪は、光祿卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に封じられた。さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は、門を並ぶほどであったと伝えられる。 玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人を呼んだと伝えられる。 その後、胡人(ソグド人)である范楊平盧節度使の安禄山が玄宗に挨拶に来た。 750年に、楊貴妃は再び玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返された。『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる。しかし、楊国忠たちが取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。 751年、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。 752年、楊国忠は唐の大権を握った。 数々の伝承 『楊太真外伝』によると、楊一族の隆盛と横暴、玄宗の楊貴妃へのあまりの寵愛に、「女を生んでも悲しむな 男を生んでも喜ぶな」というはやり唄が長安で唄われた。 楊貴妃は、打楽器の一種である磬の名手だった。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないだった。彼女の琵琶は、ラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていた。 また、有名なエピソードとして、楊貴妃がレイシ(ライチ、茘枝)を好み、嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことも伝えられる。 安史の乱と最期 755年、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子・李亨に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は、土を口に含んで、自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。 756年には安禄山側に大敗した玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士らが同行した。 しかし、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死させられた。 玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。 楊貴妃死後50年経った、806年頃に、玄宗と楊貴妃の物語を題材にして白居易が長編の漢詩である『長恨歌』を制作している。平等な一対としての男女の永遠の愛の誓いを謳い上げた『長恨歌』は、広く世間に流布した。このため、楊貴妃の物語は後世にまで広く伝わり、多くの文学作品に影響を与えた。 死後の評価と後世の楊貴妃像 楊貴妃の生前においては、同じ唐代の武則天にみられたような直接的な痛烈な批判は存在しない。 しかし楊貴妃死後には、同時代の杜甫や白居易が彼女を非難している。楊貴妃自身の実像がはっきりしないことが潤色が加えられた要因と考えられる。 また楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことがなかったため、楊貴妃が盛唐の時代を象徴する存在とされた。 宋代以降には、「傾国」の悪女と美女双方の側面を持つ楊貴妃像が描かれている。 美術散歩 管理人 とら 【追記】2017/8/26:「悪女たちの真実」として、上記の「楊貴妃」の他に、「西太后」と「趙姫」が放映された。いずれも、新説に基づいて彼女らは「悪女ではなかった」としている。「西太后の真実」はこちら、「趙姫の真実」はこちらを参照されたい。
by cardiacsurgery
| 2017-02-23 15:23
| アート一般
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