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2017年2月16日(木) 午後8:00~9:00、 「BSプレミアム」で「英雄たちの選択 明治トップレディの華麗なる変身~条約改正に挑んだ女たち」の初回放送を聴いた。
この再放送は、2017年2月23日(木) 午前8:00~9:00に予定されている。 「鹿鳴館の華」といわれた井上武子。そして、このたび写真が発見され、その美貌と教養で“ワシントン社交界の華”といわれる陸奥亮子。彼女たちの大変身の秘密に迫る。1.井上武子 明治政府の最大の課題は、幕府が列強と結んでいた不平等条約の改正だった。そのため、外務大臣井上馨は、鹿鳴館外交を展開した。それを支えたのが、井上馨の妻・井上武子(1850〜1920)である。 ![]() また、福沢諭吉の愛弟子・中上川彦次郎から英語を学び、社交界に必要不可欠な文学・料理・ファンション・テーブルマナーなどの知識を吸収した。 外国からの賓客のために接待所が必要と考えていた井上馨は、帰国後「鹿鳴館」の設立に奔走した。 明冶16年(1883)11月、総工費18万円、3年の歳月をかけて、建築家コンドルが設計した白い洋館「鹿鳴館」が完成した。 <鹿鳴館の華となった武子> 当時の欧米諸国では政府高官など身分の高い人は、社交を通じて信頼関係を築いていた。井上は鹿鳴館という社交場をつくって欧米人と信頼関係を築くことが条約改正の第一歩になると考えていた。 鹿鳴館で夜ごと開かれた舞踏会。主役はきらびやかなドレスをまとった女性たちだった。当時のドレスはヨーロッパで流行していたバッスルスタイル。腰の後ろを大きく膨らませ、ウエストは胸を豊かに見せるためにきつく締め上げた。見た目は優雅だったが、コルセットなど付けたことのない日本人にはとても窮屈で、動くたびに苦痛が伴ったという。 これに対して、武子は手動ミシンを操り、自分で似合うドレスを作っていた。 ![]() このように欧米人に嘲笑される一方で、鹿鳴館の華と讃えられる女性たちもいた。井上武子や陸奥亮子などである。 しかし舞踏会が条約改正に結びつくなどということはなく、鹿鳴館外交は西洋諸国の顔色を窺っているだけの媚態外交とまで言われるようになった。 そして明治20年(1887)井上は外務大臣を辞任。鹿鳴館も国辱的建物として歴史の表舞台から消えていった。 2.陸奥亮子 <陸奥亮子の生い立ち> 幕末の安政3年(1856)11月、江戸に生まれた。 父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士だったが、母はその正妻ではなかった。 その母は必死に働いたが、無理がたたり病に倒れてしまい見かねた近所の人が、亮子に新橋の花街への年季奉公を勧めた。 9歳の亮子は、掃除に洗濯、炊事とこき使われ、その合間に踊りや三味線、江戸小唄を習った。 時代は明治になり、16歳となった亮子は芸者・小鈴(こかね)としてお座敷デビューした。 美貌の亮子は瞬く間に新橋一の芸者になった。 身持ちが堅く、男嫌いの彼女がただ一人、心を許したのが陸奥宗光だった。 <鹿鳴館の華となった亮子> 欧米人に嘲笑される一方で、鹿鳴館の華と讃えられる女性たちもいた。外務卿・井上馨の妻である井上武子や、岩倉具視の次女・戸田極子、陸奥亮子などである。 イギリスの外交官アーネスト・サトウ曰く「陸奥の二度目の夫人は若くて大変な美人。涼しい目と素晴らしい眉だ」。サトウは、25年間、日本に滞在していたが、容姿を褒めた日本人女性は亮子ただ一人だった。 <外遊中の陸奥宗光の亮子教育〉 亮子がその後アメリカで評価された知性は、夫が外遊先から送った手紙が礎となった。 御身こと読書も定めて教養の大切さを教えられた亮子は、夫の期待に応えようと、それから新聞を隅々まで読んだ。読書も欠かさず「八犬伝」「弓張月」などの小説から「日本外史」「十八史略」といった歴史書まで読破した。 宗光は近い将来(自分が)政治の要職に就くと思っていた。亮子には社交界に出ても決して引けを取らないように多くの知識を身につけさせようとしていたのである。亮子も宗光の期待に応えるべく大変な努力をしていた。 亮子はただ待っているだけの妻ではなかった。世界で活躍するようになった夫に習い、自らを高めていった。そんな妻を夫は手放しで褒めた。 この頃の亮子からの手紙は<陸奥亮子の米国での活躍> 陸奥亮子 は、明治21年(1888)、駐米公使となった陸奥宗光とともに渡米した。 ![]() 辞任した井上に代わり、明治政府が条約改正の大役を任せたのが陸奥だった。明治21年(1888年)6月、特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任。このとき亮子は娘とともに同行した。 ワシントンに到着した亮子は当時のグロバー・クリーブランド大統領と接見。特命全権公使の妻としての生活が否応なしに始まった。 公使館では夜ごとパーティーを開催。要人の訪問は数か月で実に1200回にも及んだ。精力的に社交活動を行う亮子はドレスを見事に着こなした。その気品溢れる姿は若々しく、亮子と娘はまるで美しい姉妹のようだったという。 その評判は現地の新聞に載るほどだった。「the prettiest Japanese Woman(最も美しい日本女性)」(1889年2月10日 サン紙)「Brilliant Woman(光り輝く美女)」(1889年2月26日 ピッツバーグ・ディスパッチ紙)。 亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれた。 アメリカで亮子は娘とともに英語を猛勉強。話し上手と呼ばれるようになった。しかし亮子は日本人であることも忘れなかった。公使館でのパーティーでは得意の琴を演奏。日本がいかに魅力的な国であるかをアピールした。さらに日本の文学を英訳し、発表までしている。 毎日2時間ずつ時間をぬって、日本の小説の中から良いものを選んで英訳していたという。日本が文明後進国でないこと、欧米とも渡り合える国であることを証明しようとしていた。亮子は日本公使館の内装を和風にし、日本の美をアピールした。亮子は日本の良いところを紹介し認めてもらうことで、欧米諸国と対等な関係を築こうとしていた。 そんな妻の支えもあって陸奥は条約改正に向け、盛んに駆け引きを行った。その辣腕ぶりは後に「カミソリ大臣」という異名をとるほど。渡米したその年のうちにメキシコと修好通商条約を締結。日本にとって初めての対等な国際条約となった。 さらに帰国後、第二次伊藤内閣の外務大臣なった陸奥は明治27年(1894年)イギリスとの条約改正に成功。これを突破口にアメリカ、ロシア、ドイツ、フランスと次々と条約改正を実現。不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げた。 「夫婦は道づれの旅人」。亮子はその美しさと聡明さで夫の偉業を支え続けた。 <亮子の晩年> 明治28年(1895)6月、亮子38歳。高熱を出して倒れた夫の療養のため、大磯にあった別荘に移り住んだ。陸奥は翌年、外務大臣を辞任。波乱に富んだ亮子の人生で、これが初めて訪れた穏やかな時間だったかもしれない。夫と二人でハワイでも療養したが、陸奥の体調が回復することはなく明治30年(1897)54歳で亡くなった。 そして陸奥の死から僅か3年の明治33年(1900)、亮子はその後を追うようにこの世を去った。享年45歳。 陸奥はこんな遺書を残している。 お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、多少の遺産を残すことができたのは内助の功によるものが少なからずこのたび米国で、陸奥亮子の素晴らしい写真の原版が発見され、話題になった。 ![]()
by cardiacsurgery
| 2017-02-16 20:55
| 映画・写真
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