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2017年2月11日、再放送「美術家たちの太平洋戦争~日本の文化財はこうして守られた~ 」をNHK BS1プレミアムで視聴した。
以下はそのメモである。 ラングトン・ウォーナー(Langdon Warner)は、米国マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。その後、ハーバード大学付属フォッグ美術館で東洋部長を務めるなど東洋美術研究を行った。 第二次大戦中に、ハーバード大学付属フォッグ美術館にラングトン・ウォーナーなど61人の美術研究者が集まり、敵国である日本の文化財を守る目的でリスト(ウォーナー・リスト)を作成することとなった。この際、ラングトン・ウォーナーは、敵国人である日本人2人に協力を要請した。一人はボストン美術館東洋部長・冨田幸次郎、もう一人はコロンビア大学講師・角田柳作で、角田はFBIからスパイ容疑をかけられていた。 ![]() 1945年に始まった日本本土空襲の際に、その空爆目的地から除外するために、このリストは米軍に送付された。 当時のラングトン・ウォーナーの様子を孫のキャサリン・リー・レイドが話している。「父はいつも木彫りをしていたが、奈良の新納忠之介先生のことをとても心配していた。」新納忠之介はウォーナーの先生で、仏像修復の第一人者である。ウォーナーは奈良滞在中は新納宅に同居し、家族同様の扱いを受けていた。 アラバマ・マックスウェル空軍基地にある日本空爆計画に関する機密文書の閲覧許可が下りた。空爆予定地としては、軍需工場などの空爆標的が選定され、それらの緯度・経度も記載されていた。 この文書の中にカラーの地図があり、その緑色の部分は空爆を行わない場所となっていた。これには東京では皇居・東京駅・靖国神社・上野公園・東京大学・浅草公園が、奈良では興福寺や法隆寺が含まれていた。 日本においても、本土空爆への対応が検討されている。興福寺では、阿修羅像など15体の仏像を囚人に運ばせ、吉野山の民家の蔵に隠した。法隆寺の釈迦三尊像・薬師如来像・救世観音像については、佐伯定胤貫主が「寺からは出さず、決死で守る」との考えだった。 ラングトン・ウォーナーは 戦後再び来日し、法隆寺の仏像がかってと同じ姿で残っていることを喜び、新納忠之介や佐伯定胤貫主と嬉しい再会を果たした。 米国空襲の結果、奈良では駅は焼失したが、リストに記載されていた場所はすべて無事だった。激しい空襲を受けた東京では58ヶ所が無事で、浅草寺は焼けたが、上野の博物館や東大の図書館は大丈夫だった。全国的には、リストに載っていた場所の8割が無事だった。 ラングトン・ウォーナーの新納忠之介への手紙には「確かに私はリストを空軍に送ったが、これはあなたの所で勉強した賜物である」と書かれている。 戦後の日本は文化財流出の危機にさらされた。戦後のドイツから戦時賠償として美術品が旧ソヴィエトに流出したように、正倉院宝物を戦時賠償に充てるとの議論が出てきた。 当時、米軍司令部(GHQ)には「美術記念物課」があり、古美術管理に対応していた。ラングトン・ウォーナーは、1946年、米軍司令部の「古美術管理顧問」として来日し、ウォーナーの孫弟子であるシャーマン・リーが実際の古美術管理に当たることになった。 来日したリーは、調査のために訪れた正倉院宝物に感銘を受け、「これらが1000年以上無事に保管されていたのは奇跡の中の奇跡である」と語っている。娘のキャサリン・リー・レイドさんの記憶では、父は日本の文化財を深く敬愛しており、「《鳥獣人物戯画》などはヨーロッパや中国にはない日本独自の美術品である」と話していたとのことである。 一方、ワシントンDCの「極東委員会」では、日本の戦時賠償についての議論が行われたが、中国国民政府は「中国の美術品360万点の被害に対応する賠償」を日本から取るべきだと主張し、オランダとフィリピンがこの意見に賛同していた。アメリカ政府もこの中国の提案を受け入れる方向に傾いたため、リーは難しい局面に立たされることになった。 リーの後輩であるフリーア美術館のジェームス・コーラックは「正倉院の文物を一般人に公開したら良いのではないか」という意見を持っていた。これに対応して、奈良では「正倉院展」が開かれ、その会場は観客で溢れかえった。これが国内外で報道され、前述の「極東委員会」において、マッカーサーの側近が紹介した。このことについて、リーは「非常に心強かった」と述べている。 マッカーサーは1948年5月31日の電報で「米軍司令部(GHQ)は、”日本の文化財を没収する”という米国国務省の提案に反対する」という意見陳述を行った。マッカーサーは、このようなやり方の戦時賠償は日本人の心を傷つけ、結果として占領政策を難しくすると考えていた。 かくして中国国民政府の提案は廃案となった。フリーア美術館のジェームス・コーラックは「リーは感情を露わにせず“ようやく決定が下された”と言っただけだった」と話している。 シャーマン・リーは、その後「クリーブランド美術館館長」となり、日本美術品の収集に力を注ぎ、25回以上も訪日した。 ラングトン・ウォーナーは「不滅の日本芸術」という著書を著して、日本美術に対する理解と敬愛の念を広く根付かせた。 ![]() 番組の最後に「ウォーナー記念像」の写真が出てきた。 ![]() 【参考】ウォーナー伝説に対する反論:1975年、同志社大学・オーティス・ケーリが文芸春秋において「京都に原爆を落とすな-ウォーナー博士はほんとうに京都を救った恩人なのか」 を発表し、京都の原爆投下が避けられたのは陸軍長官ヘンリー・スティムソンによるものであるとした。また、1994年7月、歴史研究者・吉田守男は、学会誌「日本史研究」に「ウォーナー伝説批判」を発表し、ウォーナー・リストは戦争中の文化財保護を目的とするよりは、休戦時に「枢軸国の博物館やその指導者の私的コレクションの中から被侵略国に引き渡されるべき損害に対する返済用の一等価値の美術品・歴史的公文書のリスト」であったとした。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-02-11 21:16
| 仏像
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