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英雄たちの選択 新春2時間スペシャル~日本のあけぼの~@NHK BSプレミアム
2017年1月3日21:00〜放送のNHK BSプレミアム「英雄たちの選択 新春2時間スペシャル~日本のあけぼの~」 の再放送が昨日あったので、急いでメモをとった。 何十年も前に高校の日本史で習った知識が時代遅れのものになってしまっていることを痛感した。 【司会】磯田道史,渡邊佐和子,【出演】里中満智子,中野信子,松木武彦,辰巳和弘,石野博信,倉本一宏,【語り】松重豊 番組の前宣は次のようになっている。 ニッポンのはじまりスペシャル企画!最新事情を踏まえ古代人のこころと文明の成り立ちに迫ります。 弥生人=稲作民という常識を覆す先進集落の実像とは?さらに、悪役のイメージが強い蘇我氏が、この国に与えた影響も探ります。 弥生から飛鳥までを一挙に駆け抜けてみると、ニッポンのどんな原型が見えるでしょうか 第1章 新たな弥生人 鳥取県青谷町の「青谷上寺地遺跡」は「弥生の地下博物館」とも云われる。 青谷上寺地遺跡の出土品は、管玉(碧玉の管)、丸木舟・漁具、人間の脳(↓)・糞石、籠、木製容器(花弁装飾のある高坏・木製壺型容器)など。 ![]() 1.ムラからマチへ変化した。滋賀県の「稲部遺跡」では、2016年10月に「大型建物跡」と「鍛冶工房跡」が見つかっている。 ・鍛冶工房跡では、飛び散った熱い鉄による焼けた土が発見されている。これは鉄製品が生産されていたことを意味している。 ・当時は鉄素材は大陸から輸入していたが、この鉄は若狭を経て稲部遺跡に達して製品化され、製品は北陸・東海に供給されたと思われる。 ・主な鉄製品としては、鏃(武器)が挙げられる。出土した人骨のうち110点は殺傷人骨であり、これは「史上最古の戦争の痕跡」であるといえる。この場合の加害者は外部から来た略奪者と思われる。稲作がもたらした富は戦へと向けられたようで、米の生産によって弥生人の栄養が良くなって人口が増加したが、環濠集落が形成されてウチとソトが区別されると、戦争によって人口が減少するという皮肉な結果になった。 第2章 神秘のパワー 弥生人は鉄の他にもう一つの金属である銅を使用していた。しばしば青銅と呼ばれるが、これは赤褐色の銅が酸化したためである。 2015年、淡路島で「松帆銅鐸」が発見された。 ![]() ・入れ子の状態で発見された。銅鐸によって弥生人は目に見えない「音」を作った。銅鐸の音は祭祀に使われたと考えられるが、これは「権力の集中」を意味している。 当時、銅鐸の音は稲の生育を促進すると考えられていたかもしれない。いわば「音の肥料」である。 銅鐸の大きさが初期は20㎝程度だったが、盛期には最大134.7㎝に達していることに留意しなければならない。 銅鐸が意図的に埋められていることは謎である。これには①廃棄説、②境界埋納説、③奉納説の解釈がある。 第2章 巨大モニュメント 纏向遺跡 奈良県桜井市域の北部の纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは邪馬台国の候補地として有名な遺跡である。ここには箸墓古墳を代表として、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳・南飛塚古墳・メクリ1号墳などがあり、日本最初の「都市」あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されている。遺跡発掘調査は1971年以降行われているが、調査面積は広大な面積の2%以下である。 ![]() ここでは、建物を壊した際には、朱塗りの板を堀に投入していることが判っている。これは祭の際に行われたことで、「同じものを二度とは使わぬ」という感覚を表しているのだろう。 纏向遺跡では、2009年に発見があった。 ・大建物群は東西に配置されていた。上記の事柄は「王の計画」であったと推察される。 2012年のレーダー調査により箸墓古墳は「段築構造」だったことが判明した。箸墓古墳は「新しい文明のモニュメント」だったのである。 初期の纏向遺跡の大きさは100m前後だったが、箸墓古墳の大きさは280mに達している。箸墓古墳の石材は大坂から持ってきたという伝承があるが、当時は王が古墳を作り、文明としてのクニを作った。 第3章 卑弥呼はどこからきたか 「魏志倭人伝」によれば、当時のヤマトには30のクニが乱立しており、「倭国大乱」が起こっている。この大乱は地域ごとの格差のある大雨と旱魃という「異常気象」が原因だったのだろう。このためヤマトではクニが集まって相談し、一人の女子(卑弥呼、ヒメミコ)を共立して「連合政権」を作ることになった。 この卑弥呼の出身地については様々な説がある。 1.北九州説:「伊都国」は力を持ち諸国が恐れるクニであり、3月前にはここで「硯」が発見された。これは外交文章も書けることを意味している。伊都女王墓である「平原王墓」からは銅鏡が40枚出土しているが、これは「権力の集中」を意味している。さらにガラス製の耳璫(ピアス)も出土している。第4章 改革者・蘇我氏の出現 6世紀の初代・蘇我稲目、次いで第2代・蘇我馬子、第3代・蘇我蝦夷、第4代・蘇我入鹿の蘇我4代は、従来「逆臣」の汚名を着せられてきたが、近年「改革者」としての役割が注目されている。 日本書紀によれば、蘇我稲目は536年「大臣」に任じられている。蘇我稲目の墓「都塚古墳」は6~7世紀に建造されたピラミッド型の「方墳」で、中に「家形石棺」が収められていた。従来前方後円墳であった「天皇陵」も、この頃「方墳」に変わっている。蘇我稲目の功績としては次が挙げられる。 ・屯倉(直轄地)を作った。蘇我馬子の墓は「石舞台古墳」で、石舞台は石室の上石である。石室内には棺が収められていたが盗掘された。蘇我馬子の功績としては次が挙げられる。 ・古墳に代わるシンボルとして「飛鳥寺」を建立した。三代蝦夷・四代入鹿の功罪 ・甘樫丘を唐に対する軍事拠点とし、ここに自らの新たな邸宅を置いた。舒明天皇の陵墓は、蘇我氏の方墳と異なる中国の影響をうけた「八角形墳」となっている。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2017-02-05 08:59
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