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「永楽帝と鄭和の大航海」に興味を持ったのは、2005年9月に「鄭和西洋航海600周年記念展」を北京の「中国国家博物館」で見たからである。
そこで、そのホームページ記事を下記に引用することとしたい。 北京に行ってきた。当日、人民大会堂「抗日戦争勝利60周年」記念式典が開かれたので、真向かいの中国国家博物館に入れたのは奇跡的だった。前日にも行ってみたのだが、この行事のため早めに閉館となっており、当日も午後2時からということで、昼食で時間調整して出かけた。2005年9月に「鄭和の大型銅鐘(時を告げる鐘)」というブログ記事を書き、その後2006年5月に「鄭和とアラビア・ルネッサンス」という記事をホームページとブログに書いたのも、前記の「鄭和西洋航海600周年記念展」の影響である。 さて、本題の「中国王朝 よみがえる伝説 第二部:永楽帝と鄭和の大航海」という番組に関しては、すでにネット上に動画もアップされているので、御用とお急ぎのない方はご覧ください。 また、番組のPR記事は以下のようになっていた。 「血塗られた天子」と呼ばれる明・永楽帝。力で皇位を奪い、1万人を超える敵対者を粛清。残虐な皇帝とされるが、悪評の中でも強固な権力を確立、万里の長城、紫禁城、天壇を建設するなど明の最盛期を実現した。その権力の秘密とは?謎の鍵は鄭和の大航海にあった。鄭和がもたらした美しい青花、そして宦官の秘密組織とは?俳優・濱田岳が紫禁城や海外メディア初公開の万里の長城を訪ね作家・浅田次郎が時代を読み解く番組は、若き日の永楽帝が、甥の建文帝から武力によって帝位を簒奪するところから始まる。 この帝位簒奪に賛成しなかった儒教を重んずる方孝儒や永楽帝の暗殺を企てた景清らの官僚に残酷な刑罰を加えただけでなく、反対を唱えた官吏の一族郎党を芋蔓式(瓜蔓抄)に連座させ、処刑した。 永楽帝が「血塗られた天子」と呼ばれるのは、このためである。 このような汚名を挽回するため、永楽帝は宦官を利用した。 鄭和はもともと中央アジアから雲南省の昆陽に移住してきたイスラム系の「馬」姓を持つ裕福な家庭に生まれた次男であった。 雲南省に攻めてきた明軍によって、12歳だった鄭和は、数千人の少年とともに、捕虜として北京に連れてこられて宦官として永楽帝に仕えた。 宦官は子孫を作らない使用人なので、力を持った一族を形成する官僚より問題が発生せず、若いときから宦官になっていれば、一定の年齢で科挙という試験に合格してから仕える官僚よりもコントロールしやすかったのである。 宦官を使用人とする風習は唐時代にもあったが、永楽帝は宦官を王権に反抗しない使用人として、軍事・外交・特務(東廠)にも積極的に役立てた。 これは、永楽帝が自分の帝位簒奪に反対する官僚に対して不信感を持っていためである。 永楽帝は、ベトナム(安南)に80十万の兵を送って直轄地とし、50万の兵でモンゴルを西方に追いやった。 永楽帝は、元が造った「紫禁城」を改築し、南京から北京に遷都した後に使用した。 北京と杭州をむすぶ「京杭大運河」を完成させて物資の輸送安定化を図ったのも永楽帝である。 永楽帝は、自らが「天」から権限を与えられ、付託された人間をあることを部下に示すために、「天壇」を建設し、その中の「祈年殿」で「天」に祈った。 宦官の鄭和の7回に及ぶ大航海については先にも述べたが、セイロンの都を襲った際には、王族の生命や領地を取らず、明に朝貢使節を送ることを約束させた。 イランの「アルダビル廟」には「磁器の間(チーニー)」があるが、そこには多くの磁器が置かれていた凸みが残っている。そこに嵌め込まれていたのは「青花磁器」の天球瓶などである。 この「青花磁器」は全国の名工を集めた景徳鎮で作られたのであるが、「臣下の礼」をとって明を訪れた「朝貢国」に財宝として与えたものである。 このような朝貢貿易の効果は著しく、明の経済は潤い、官僚たちからも高い評価を受けた。 「皇都積勝図」には、象やライオンを献上する使節も描かれている。当時の朝貢国は60に及んだという。 永楽帝は60歳ごろから体調不良を訴える時があり、19年間玉座にあった62歳の永楽帝は、雷で紫禁城が炎上し、自分の暗殺を企てる男を捕えて処刑したりしていたが、これらのことは「自分に至らぬ点があるためではないか」と官僚たちに聴いたところ、官僚たちは口々に不満を訴えた。 そのため永楽帝は自分の「武」を部下に称揚させるために、無用な蒙古親征を繰り返し、1424年(永楽22年)、第5回モンゴル遠征の帰途に陣没した。享年65。 美術散歩 管理人 とら
by cardiacsurgery
| 2016-10-13 09:03
| 東洋アート
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