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今朝の日曜美術館は天正遣欧使節の物語だった。
2年前、イタリアのミラノで、それまで「幻の画」とされてきたある日本人の肖像画の存在が突き止められた。 ![]() 2016年5月17日(火)~7月10日(日)東京国立博物館 本館7室、2016年7月22日(金)~8月31日(水)長崎歴史文化博物館、2016年9月9日(金)~10月16日(日)宮崎県立美術館天正遣欧使節は、天正13年(1585)にヴェネツィア共和国を訪問しているが、その折、共和国元老院が4人の肖像画をイタリアルネサンスの巨匠ヤコポ・ティントレットに発注したことが知られている。 実際には、その息子ドメニコ・ティントレット(1560~1635)が完成させたものがこの肖像画《伊東マンショの肖像》なのである。 ![]() ![]() 比べてみると一番分かりやすいのがマンショが着ている服は、スケッチの方は肩衣袴と呼ばれる和装で、今回発見された油彩のマンショ像では洋装の格好をしている.ローマ教皇グレゴリウス13世から頂いた可能性が高いとされている。 この天正遣欧使節には、イタリア出身の巡察師ヴァリニャーノの果たした役割が大きい。 ヴァリニャーノは日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。1581年、織田信長に謁見した。 その際には、《安土城之図屏風》(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。 このヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節を企画した。これには日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的を有していた。1582年、ヴァリニャーノは天正遣欧少年使節をインドのゴアまで付き添った。 さらにヴァリニャーノは、1590年(天正18年)、帰国する遣欧使節を伴って2度目の来日を果たした。 このときヴァリニャーノは、1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。 この際、秀吉は天正遣欧少年使節正使の一人である伊東マンショに対し、自分に仕えるように勧めたが、伊東マンショはこれを断り、イエズス会の聖職の道を選んだ。 使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。派遣当時の年齢は13~14歳であった。天正遣欧使節にちなむ幻の絵は実はもう一つある。使節はローマ法王グレゴリオ13世に贈り物をしていた。それは織田信長が狩野永徳に描かせたという一双の屏風。 そこには信長がつくり上げた安土城と安土の町並みが描かれていた。 信長はこの《安土城之図屏風》を天正遣欧使節の発案者ヴァリニャーノに与えた。 そしてヴァリニャーノはこの屏風こそローマ法王への贈り物にふさわしいと考えたのである。 しかし法王に贈られた屏風は、前述のように、今も行方不明なのである。 織田信長が威信を懸けて築城した安土城は1582年天正遣欧使節が長崎を出港したまさにその年本能寺の変が起き炎上した。 11年前、当時の安土町ではこの《安土城之図屏風》を捜し出そうとヴァチカンの調査に乗り出した。 法王ベネディクト16世に協力を要請し、学術調査団が現地調査が行われたが、屏風の行方を突き止める事はできなかった。 ただ1585年3月30日から1592年の間に確かに屏風絵が「地図の廊下」に置いてあったことまで判明した。 ヨーロッパの姿を日本人に広く知らせるという天正遣欧使節の任務は鎖国へと向かう時代の中でかき消されていったが、ヨーロッパに日本という国の存在を知らせるというもう一つの任務は十分に果たしたのである。 天正遣欧使節の歴史的快挙を絵画のシリーズとして描いた画家、寺崎武男は東京美術学校を卒業後イタリアに留学し、そこで天正遣欧使節の壁画に出会った事がきっかけとなり、生涯にわたり使節の出来事を絵に描いている。特に戦後の1950年代には天正遣欧使節を中心にした14点にも及ぶシリーズを描き上げた。 番組では、寺崎武男の絵を見ながら天正遣欧使節の物語をたどっていった。1582年、天正遣欧使節の一行はポルトガル船で長崎港を出港した。 寺崎武男はその船出の様子を描いている(↓)。 ![]() これから先の航海には嵐や疫病海賊など危険が待ち構えている。港では母親とのつらい別れがあった。 (↑)に描かれている千々石ミゲルの母は「無事に帰国する事はかなわないだろう。覚悟を決めている」と話したという。 後ろ髪を引かれながら旅立つ少年たちの使命は九州のキリシタン大名たちの名代としてローマ法王に謁見する事だった。 少年たちが日本とヨーロッパの懸け橋になることを願うかのように、寺崎武男の絵《出航》(↑)には虹が架かっている。 長崎を出港して間もなく大嵐に見舞われた。 船は木の葉同然に翻弄され少年たちは船酔いに苦しんだ。「五臓六腑も吐き出されるのではないかと思われた」と千々石ミゲルが言っている。 インド洋に出ると熱風が充満し食べ物は腐敗病人が続出した。伊東マンショは疫痢を患い高熱を出して一時はもはや絶望かと思われるほどだった。 セントヘレナを過ぎて海賊たちの難を逃れようと迂回したものの熱病が蔓延。32人が亡くなった。 しかし少年たち4人は2年半に及ぶ航海を終え無事ヨーロッパにたどりついた。 ポルトガルのリスボンに着いた使節一行は各地で歓迎を受けながらスペインのマドリードに入った。 ポルトガルとスペインを支配し世界に君臨していた君主フェリペ2世に謁見するためだった。 伊東マンショが進み出てフェリペ2世の手に接吻しようとした時国王はマンショを立たせて優しく抱擁した。破格の名誉ある待遇だった。国王はマンショたちの和服に触ったり刀を手にとって熱心に観察したという。マンショとミゲルは大名の書状を読み上げた。「日本の3人の大名がキリスト教信者となり名声が世界に聞こえたフェリペ2世への尊敬を示すために派遣された」。フェリペ2世は満面に笑みを浮かべたという。 次いでイタリアに入った一行は斜塔で名高いピサでルネサンス最大の庇護者だったメディチ家のトスカーナ大公の歓待を受けた。美女の誉れ高かった大公の夫人ビアンカ妃。夜会で舞踏会が開かれた時ビアンカ妃がパートナーに選んだのは伊東マンショだった。伊東マンショは後にこう語っている。 「ダンスの所作を知らぬための羞恥の念と生まれつきの臆病さで私はとても困惑した。 ひたすらやぼくさく見えないようにと私は勇気を奮いそれを敢行するほかなかった」。 いよいよ最大の使命を果たす日が来た。ローマ法王との謁見である。長崎を出港して3年余り1585年3月23日一行はヴァチカンに入った。 (↓)は、寺崎武男が描いたヴァチカンへの行列の様子。枢機卿たちや各国の大使ローマ騎士団が続き、その後に少年使節が行進した。 ![]() 【追記】2017/9/9「天正遣欧少年使節・千々石ミゲル」の墓で祈り具出土 16世紀末に九州のキリシタン大名の名代としてローマへ派遣された天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲルの墓とみられる長崎県諫早市の石碑を調査している市民グループが2017年9月8日、石碑の下の土中からキリスト教徒が祈りの際に用いるロザリオの一部とみられる玉などを発掘したと発表した。 グループは石碑の土台下約50cmに蓋石があり、その下に空洞(縦1.1m、横1.2m)があるのを発見。この中で見つかったのは、真ん中に穴が開いた直径2~5mmのガラス玉計59個(青や白、紺などの5色で、全てにひもを通すことのできる穴が存在)、長さ2.6cmの半円形のガラス板、人の歯とみられるものなどである。板と一部の玉は欧州で作られたアルカリガラス製の可能性が高く、玉はロザリオなど、板は聖骨の入れ物の蓋の可能性があるという。 ![]() 調査を統括した長崎歴史文化博物館元館員の大石一久氏は記者会見し「ミゲルは江戸幕府の禁教令下でひそかに信仰を続けていたから、子孫が用具を共に葬ったのではないか」と話した。 氏によると、①地区は大村藩に仕えたミゲルが藩主から与えられた土地であり、石碑の浦にミゲルの名前が刻まれていることから、この墓はミゲルの墓と特定されたこと、②16世紀末~17世紀には、修道会同士の対立や寺社の徹底破壊など様々な問題が噴出いたことから、日本という異文化に適応しなかったイエズス会にミゲルが異を唱えたのであって、信仰そのものを捨てたのではないと思うとしている。
by cardiacsurgery
| 2016-08-21 14:13
| 国外アート
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